人体蘇生 ロバート・コーニッシュ|フランケンシュタインの誘惑 科学史 闇の事件簿

1931年、映画「フランケンシュタイン」が世界的に大ヒットしました。主人公の青年フランケンシュタインは死体を墓地から盗み出し、繋ぎ合わせて生き返らせました。観客は恐怖に震え上がりましたが、恐怖とは別の感情を抱いた男がいました。

「フランケンシュタインのように死を克服することは可能なはずだ」

生物学者のロバート・コーニッシュです。コーニッシュは3年後、死んだ犬を生き返らせ世界を震撼させました。

ロバート・コーニッシュの生い立ち

1903年、コーニッシュはカリフォルニア州の弁護士の長男として生まれました。幼い頃から神童と呼ばれ、母親の元で英才教育を施されました。14歳でカリフォルニア大学バークレー校に進学すると、化学を専攻。18歳という若さで卒業し、22歳で博士号を取得しました。

解剖学の研究員になりましたが、専門分野以外のものにも異様な興味を示しました。水中で本を読むためのメガネの研究にのめりこみ、ビタミンの合成や新しい歯磨き粉の開発に夢中になりました。

彼は野心家で常にチャレンジを求めていました。彼は自分こそが重要な人物だと考え、他の研究者は道を譲るべきだと思っていました。優秀で変人だった彼が「死者の復活」という命題に取り組んだのも、誰も成しえなかった偉業を達成したかったからでしょう。

(ジャーナリスト フランク・スウェイン)

死者の復活

死者の復活は人類が追い求めてきた永遠のテーマでした。

ルイージ・カルヴァーニ

1771年には、イタリアの解剖学者ルイージ・ガルヴァーニが死んだカエルに電気を通すと筋肉が痙攣することを突き止めました。人々はこの発見に驚嘆し、失われた生命が電気によって蘇ると慄きました。

20世紀になると科学技術が劇的に発達し、生と死を操ろうと考える科学者たちが現れました。1928年にはソ連の生理学者セルゲイ・ブリュコネンコが死んだ犬に人工心臓を取り付け、数時間生かし続けることに成功しました。

人工心臓が犬の頭を何時間も生き続けさせた

マサチューセッツ工科大学学生新聞

詳細はベールに包まれたまま、噂だけがアメリカに伝わりました。

当時、ソ連は医学の中心地で彼らの蘇生研究に注目が集まっていたのです。死んだと思われた人を死のふちから救い出すことができるかもしれない、これは非常に魅力的で多くの人々をひきつけました。一方で、人間の限界を踏み越えて神の領域を侵すことになると懸念する声もあがっていました。

(医学史家 スーザン・レデラー)

シーソー型蘇生機

ロバート・コーニッシュもまた、生命を蘇らせる研究にとりつかれました。そして、本来の解剖学の知識を駆使し、シーソー型蘇生機を開発しました。死体を上下に揺らし続けることで、強制的に血液を循環させるものです。この時、臓器の重さの移動が横隔膜の動きを引き起こし、人工的な呼吸をも生み出すと考えました。

1933年、初めての人体実験がサンフランシスコ病院で行われました。蘇生を行う許可が下りたのは4時間前に病院で死亡した男でした。ロバート・コーニッシュは死体をシーソーに縛り付け、5~8秒の間隔で上下に揺らし続けました。90分後、死体に変化が現れました。

顔に赤みがさし目に輝きが戻り気管と胸骨の間の軟組織にかすかな脈動が観察された。

蘇生研究報告(未発表)

すぐさま胸部を圧迫して呼吸させようと試みましたが、脈は途絶えてしまいました。コーニッシュはその後、溺死者1名、感電死した者1名に蘇生を試みました。しかし、2人とも脈は全く戻らず失敗に終わりました。

シーソー型蘇生機に自信を持っていたコーニッシュは、動物を使って問題点の検証を始めました。実験に使われたのは自らの手で殺したでした。

血液の循環が間違いなく起こっているか確かめるために、羊の大腿静脈に青色の色素を注入しました。シーソーで揺らし続けて25分、全身の主な血管に青色の色素が行き渡っていました。血液循環は確かに起こっていましたが、羊は生き返りませんでした。

コーニッシュは、生命の復活のために有効と思われるものを片っ端から実験していました。

コーニッシュは死を克服するという目的遂行のためにどんな方法でも取り入れました。誰もやらなかったことまで試したのです。

(ジャーナリスト フランク・スウェイン)

独自の輸血法の開発

事態を打開するためにロバート・コーニッシュが目をつけたのは、外科医ジョージ・クライルの実験でした。クライルは、酸素などを加えた血液を輸血することで死者を蘇生させましたが、数時間後に再び死なせてしまいました。

コーニッシュはこの原因を血液が固まったためだと考えました。心臓が止まって血液が循環しなくなると、血液凝固が起きやすくなります。そこで、コーニッシュは血液を固まりにくくさせる性質で知られるヘパリンに注目。血液にヘパリンと酸素を加えた独自の輸血法を開発しました。

コーニッシュは死体をシーソーで揺らしながら輸血を行い、心臓に血液を集める働きがあるアドレナリンを投与するという方法に辿りつきました。

コーニッシュは非常に方法論的にひとつひとつを細分化して解析していきました。それが彼の手法だったのです。

(ジャーナリスト フランク・スウェイン)

犬を使った蘇生実験

1934年、ロバート・コーニッシュはを使って蘇生実験にとりかかりました。実験に使う犬はラザロ2と命名。聖書の中でキリストが生き返らせたと伝えられているユダヤ人ラザロにちなんで名づけました。

実験はバークレー校のコーニッシュの研究室で行われました。そこには新聞記者が集まっていました。世間の注目を集めようとコーニッシュが招いたのです。

ラザロ2の心肺が停止してから6分後、蘇生にとりかかりました。輸血を行いアドレナリンを注入してシーソーを動かし続けること5分、ラザロ2の心臓が鼓動を始めました。昏睡状態ではありましたが、蘇生に成功したのです。

11分間の死ののち犬が蘇生した。人類の助けになるかもしれない。

(The Pittsburgh Press 1934/3/16)

しかし、その後ラザロ2は血栓ができ死んでしまいました。続けて実験したラザロ3も同様の症状で息絶えました。

ヘパリンが足りなかったと考えたコーニッシュは、ラザロ4では投与量を調整。さらに、血圧を安定させるとされていたアラビアガムを追加しました。

ラザロ4は蘇生し、12日後に意識を取り戻しました。しかし、今度は脳に障害をおってしまいました。生気はなくぼんやり空中を見つめるばかり。無酸素状態が長く続いたためでした。

ラザロ4の経過は、新聞で逐一報道されました。コーニッシュは一連の実験について論文にまとめることなく、マスコミを通じて世間にアピールしていきました。さらに、実験の映像を映画「フランケンシュタイン」を作った製作会社に提供。「ライフ・リターンズ」というタイトルで公開されました。

コーニッシュの名は一躍全米に知れ渡りました。しかし、残酷な動物実験が強烈な批判を浴びることになりました。抗議に対し、コーニッシュは皮肉交じりにこう言いました。

それなら実験動物をみなの好きな犬から豚に変更する。豚のほうが消化器系も循環器系も人間によく似ているし何より犬よりも友達が少ない。

(ロバート・コーニッシュ)

悪評を恐れた大学はコーニッシュを解雇しました。

科学の世界では通常、まずは権威ある科学誌に研究を発表します。学会で検証される前に新聞に掲載させるなんてありえません。コーニッシュとラザロ実験に関する新聞記事はなんと数百にも及ぶのです。私が知っている科学者の中でそんなことをする人は誰ひとりとしていません。

(医学史家 スーザン・レデラー)

蘇生術の完成まであと少しだと考えていたコーニッシュは、一人自宅で動物実験を続けました。1934年9月21日、ついに実験を成功させました。ラザロ5は、4日後には餌を食べ元気に吠えるほどに回復。この結果もまた新聞で報じられました。

人体実験

1934年10月、コーニッシュは人体実験に乗り出しました。目をつけたのは死刑囚。処刑された直後に生き返らせようと考えました。コーニッシュはネバダ、コロラド、アラバマの3州に協力を求めました。この3州はいずれも処刑にガスを使っていました。

コーニッシュにとって最適の実験環境でした。ガスによって死んではいるが、荒っぽい殺され方はしていないので蘇生の可能性が高い。また、コーニッシュは死んだ直後の人体を必要としていました。病院に収容された後では時間が経過しすぎています。処刑されたその場ですぐに死体を受け取って蘇生実験を始めたかったのです。つまり死刑囚は完璧な被験者でした。

(ジャーナリスト フランク・スウェイン)

コーニッシュは死刑囚を蘇生される手順を新聞に寄稿。タイトルは「私がいかにして死者を生き返らせるか」でした。

まずは死体はシーソーに乗せ上下運動を始めます。死の原因となった毒ガス、シアン化物はメチレンブルーで中和。さらに、マスクから酸素を供給して人工呼吸を行います。そして、ヘパリンと酸素を加えた血液を輸血し、アドレナリンを投与します。

医学界は例え蘇生が成功しても脳の損傷はまぬがれないと指摘しました。

非人道的だということです。蘇生のプロセスで囚人の脳に損傷が起きた場合、誰がそれに対処しどのように克服するのか、脳を損傷する可能性があるのに人を蘇生させるというのは果たして倫理的でしょうか。

(医学史家 スーザン・レデラー)

3州の知事たちは要請を却下。コーニッシュはその後も実験器具の改造に明け暮れ、シーソーの代わりとなる人工心肺を開発。この人工心肺は血液を取り出して酸素を混入し、体内へ送り返す機能を持っていました。手動のシーソーよりも時間の短縮につながり、脳へのダメージを軽減できると考えました。

1947年、コーニッシュの元に一通の手紙が届きました。差出人はトマス・マクモニグル死刑囚。手紙にはコーニッシュに会いたいと書かれていました。マクモニグルは少女を誘拐し殺害した凶悪犯として起訴され死刑判決をうけた人物でした。

コーニッシュはサンクレンティン刑務所を訪れました。マクモニグルは新聞でコーニッシュの研究を知ったと語り、自ら実験台になることを願い出ました。コーニッシュにとって好都合だったのは、サンクレンティン刑務所がガスで処刑を行っていたことでした。

面会を終えたコーニッシュは実験の許可を得ようと州知事に手紙を出しました。

死刑囚のマクモニグルに科学的な興味があったとは思えません。彼の狙いは死から助かることだけでした。コーニッシュはそんなことはお構いなしで自分の野望達成のための最大のチャンスと捉えたのです。彼は死を克服することしか考えていなかった。倫理的な問題は頭の中になかったのです。

(ジャーナリスト フランク・スウェイン)

コーニッシュが州や刑務所と交渉を始めると、再びマスコミが注目。前例のないケースだと司法界は混乱。処刑された死刑囚が生き返ると適応する法律がないからです。

サンクエンティン刑務所の所長は、死刑囚を蘇生させた場合の法的な扱いに困り非難を受けたくはありませんでした。生き返ったのだから再び処刑するというのはなんとも残酷、かと言って生き返った囚人をそのまま釈放するべきか誰も明確な見解を持っていなかったのです。

刑務所長と交渉すること3度、そのたびにコーニッシュの申し出は断られ、州との交渉も決裂しました。

私の役割は伯父がきれいなシャツとネクタイを身につけているか確認することでした。彼はエキセントリックな科学者でしたから全く関心を払わなかったのです。確かに伯父がマッドサイエンティストだと見られていたのは間違いありません。でも私にとっては良い伯父でした。実験が却下されたことは伯父にとって非常に大きな挫折でした。そして家族に対して負い目を感じ自分を恥だと思っていたようです。

(甥トム・コーニッシュ)

コーニッシュのもとには実験に協力したいという申し出が殺到。そのほとんどが金銭目当てのものでした。コーニッシュは申し出に困惑し、こう呟いたと言います。

蘇生実験を行うためにわざわざ人を殺すなんてばかげている。死刑執行後の死刑囚の体を使うのとは全く別の話だ。

(ロバート・コーニッシュ)

コーニッシュは人体蘇生への情熱を失ってしまいました

フッ素入りの歯磨き粉の開発

ロバート・コーニッシュは生活費を捻出するため、フッ素入りの歯磨き粉を開発し「ドクターコーニッシュの歯磨き粉」と名付けて売り出しました。

ところが、当時フッ素には毒性があると考えていた消費者雑誌から「歯磨き粉としてふさわしくない」と否定されました。

コーニッシュはフッ素が歯を強くし虫歯予防に適していることを確信していました。彼は時代の先を行く人だったのだと思います。しかし、周囲の人たちから理解されず失望といらだちを感じていました。

(甥トム・コーニッシュ)

カエルのトレーニングに没頭

コーニッシュは奇妙な趣味に没頭していきました。それはカエルのトレーニング。年に1度のジャンピングカエル祭りに参加することを目指しました。5本足のカエルを手に入れたことがきっかけだったと言います。

コーニッシュは筋肉をつけさせる虫を餌として与え、カエルが冬眠する冬も休まず訓練させました。

晩年のコーニッシュはほとんど外出することもありませんでした。1963年、生涯独身のまま兄弟に看取られて息を引き取りました。享年59。脳卒中でした。

コーニッシュの功績 しかし…

コーニッシュが取り組んだ人体蘇生の手法は、救急救命医療の現場で実現していきました。

血液の凝固を防ぐヘパリンは、1935年にヒトへの臨床試験が行われ、その後輸血の現場で使用されるようになりました。人工呼吸に心臓マッサージを組み合わせる方法は、1960年に有効性が認められ、現在の心肺蘇生法として確立しました。

しかし、コーニッシュの研究が語られることは全くありませんでした

カリフォルニア州セントジョセフカトリック墓地の一角に、人体蘇生の研究に突き進んだロバート・コーニッシュが眠っています。マッドサンエンティストと呼ばれ、晩年は人目をはばかって生きてコーニッシュには墓石すらありません。

フランケンシュタインの誘惑 科学史 闇の事件簿
「人体蘇生」

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