武田信玄 「甲陽軍鑑」が語る真実|歴史秘話ヒストリア

武田信玄の数々のエピソードは「甲陽軍鑑(こうようぐんかん)」に記されたものです。ところが、「甲陽軍鑑」は偽書と思われかつては研究者に見向きもされない書物でした。しかし、近年見つかった事実から「甲陽軍鑑」が真実の書である可能性が高まっています。

 

最新研究が明かす武田信玄

2018年6月、東京都内の民家で古い資料の捜索が行われました。見つかったのは長らく存在が不明だった「甲陽軍鑑末書」です。「甲陽軍鑑」には、すでに知られた本編に加えて「末書」という続きがあったのです。

 

末書の四冊には本編の足らざる所を詳しく書いた

(甲陽軍鑑末書より)

 

東京大学名誉教授の黒田日出男さんは、武田家があれだけ強く団結できたわけを末書に見つけました。

 

「団結」のヒミツ

何と武田信玄がお家の団結を託したのは小宰相という女性。側近中の側近として武田信玄に直接ある意見を述べたと記されています。それは家臣の家同士の縁組についてでした。

 

信濃・相木市兵衛の息子が山県三郎兵衛の婿となる

(甲陽軍鑑末書より)

 

領地が広がるにつれ武田家には新たな家臣が次々と加わりました。武田信玄は新しい家臣と元からの家臣を縁続きにして結束をかためようとしたのです。

 

武田家臣団の家族構成とか適齢期の男女とか全部そういうのは小宰相を中心とした女性たちの中で情報がプールされ管理され、戦国大名の権力の礎の一つとしては結構大きかった。

(東京大学名誉教授 黒田日出男)

 

秘められた「野望」

武田信玄はよその国の地形をその地の住民から聞き出し絵図を書かせていました。集めた絵図は東北から中国地方まで37カ国に及びました。その理由が「甲陽軍鑑末書」に記されています。

 

日本国を残らず攻め取って治めたい

(甲陽軍鑑末書より)

 

いわゆる天下統一です。

 

実は、これまで武田信玄が天下取りを考えていたか研究者の間でも意見が分かれていました。

 

武田信玄がどんな国家構想を持っていたか想像を絶するわけです。ところが、その想像を絶するはずの史料が甲陽軍鑑の末書にちゃんと書かれている。武田信玄がまぎれもなく天下を取ろうとしていたことはもう動かないということになりますね。

(東京大学名誉教授 黒田日出男)

 

探せ!天下取りの拠点

「甲陽軍鑑末書」によれば、武田信玄は天下を治める新たな拠点を探していたと言います。

 

第一の条件は繁盛の地
北は高く 南は低く
北南に長い地形
西東に川があり
南にも川や海がある
堅固であれば大いによい土地

(甲陽軍鑑末書より)

 

武田信玄は地形にもぬかりなく気を配っていました。これらの条件にかなっていると武田信玄が選び抜いたのは「星谷(ほしのや)」です。現在の神奈川県の座間市です。鎌倉と秩父を結ぶ街道沿いにあり、大勢の人が行きかう繁盛の地でした。

 

地名の由来となった星谷寺(しょうこくじ)は、武田信玄が拠点を置こうとした場所と考えられます。武田信玄は星谷の近くまで訪れ「堅固で整った地である」と褒めたと言います。

 

幻の都「ほしのや」

「甲陽軍鑑末書」によれば武田信玄は川を挟んだ金田の地から星谷を眺めました。

 

河岸段丘とは川の流れによって土地が削られ崖や丘や地形のこと

 

相模川の河岸段丘上にあった星谷。武田信玄はこの地形に注目したと奈良大学教授の千田嘉博さんは言います。

 

これは(壁が)垂直の城壁としてそびえていますので、もし川を渡って敵が攻めてこようと思っても河岸段丘の崖によって足止めができる。

(奈良大学教授 千田嘉博)

 

実は、武田信玄が知りたかったことが一つありました。飲み水の有無です。ところが、当時ほしのやは敵対する北条氏の勢力圏。そこまで調べることができませんでした。

 

「甲陽軍鑑末書」の研究が明らかにしたのは武田信玄の知られざる天下統一構想でした。

 

「甲陽軍鑑」 偽書?真実の書?

「甲陽軍鑑」はつい最近まで後の時代に作られた偽書と言われていました。一体なぜなのでしょうか?

1)日付の間違い

信玄の初陣、砥石崩れ、上田原の戦い、武蔵松山城攻め、上野箕輪城攻め、など

 

2)ドラマチックすぎる

歴史的事実を記しているにしては、あまりにもドラマチックで物語のようである

 

そのため、明治の頃から研究者は戦国の記録のようにみせかけた江戸時代のフィクションとみなすようになっていました。

 

「甲陽軍鑑」は偽書なのか

50年程前、山梨県甲府市で「甲陽軍鑑」の評価を一変させる研究が始まりました。担い手は歴史学者ではなく国語学者の酒井憲二さんでした。

 

ある国語学者の挑戦

酒井さんは38歳の時に「甲陽軍鑑」を研究し始めました。

 

「甲陽軍鑑」は『大日本国語辞典』などの引例に良く使われていることから中近世語の宝庫として関心は持っていた。

(酒井さんの論文より)

 

「甲陽軍鑑」は江戸時代に大量に刷られました(版本)。出版の年によって大きさや刷り方が異なりました。

 

酒井さんが目を向けたのは、使われている言葉の微妙な変化。例えばわずか3年の違いで用いられる漢字やその読み方が異なっています。そこで酒井さんは全国の図書館を訪ね、より古い「甲陽軍鑑」を探すことにしました。

 

発見!「古い」日本語

1978年、印刷ではなく一字一字手で忠実に書き写された写本を見つけました。つまり、言葉遣いや内容が原本に最も近い可能性があります。酒井さんはこの写本を徹底的に調べました。単語とその意味を一つ一つおっていく中で古い日本語が沢山見つかりました。

 

いつの時代の言葉か

こうした言葉はいつの時代のものか、酒井さんは言葉の年代推定に挑みました。その時用いたのが日葡辞書。戦国時代末に来日した宣教師が作った日本語とポルトガル語の辞書です。調べてみると、写本にある単語の7割近くが日葡辞書にあったのです。

 

次に注目したのは「侮る」という単語。日葡辞書は「あなどる」と「あなづる」2種類の発音があるとし、その中でも「あなどる」が多く使われるとします。辞書が作られた当時、発音が「あなどる」に統一されつつあったのです。

 

しかし、写本では「あなづる」の方が多く使われていました。つまり、「甲陽軍鑑」の言葉は日葡辞書が編まれた戦国時代末頃より古いと考えられるのです。

 

これらの分析から酒井さんは「甲陽軍鑑」は江戸時代に書かれたという定説に反論しました。

 

この写本の言葉は日ポ辞書よりも一時代古い。「甲陽軍鑑」は室町後期の所産とみなければならない。

(酒井さんの論文より)

 

くつがえった偽書説

間もなく酒井さんは「甲陽軍鑑」偽書説を覆す決定的な記述を写本の中に見つけました。それは文章を書き写した人物自身の注意書きです。

 

この部分の5分の1は切れて無くなったが残った部分をよく見て小幡勘兵衛が書き写した

 

小幡勘兵衛影憲は江戸時代の軍学者。「甲陽軍鑑」を創作した張本人とみなされた人物です。しかし、注意書きによれば、小幡はボロボロの原本を書き写して写本を作った人物だったのです。

 

甲陽軍鑑を一字でも多く正確に写し留めようと心を砕く恭謙・真摯な軍学者の姿こそあれ、偽撰者としての小幡影憲は全く見えてこない。

(酒井さんの論文より)

 

酒井さんはこれらの事実から「甲陽軍鑑」は武田信玄が生きた室町時代末、つまり戦国時代に書かれたものだと結論付けました。この研究成果はそれまで偽書説を信じてきた歴史学者たちにも驚きをもって迎えられました。

 

歴史家は明治以降、あれは偽書だという言われ方をしていたのでまともに甲陽軍鑑と付き合うというか、甲陽軍鑑の中身について事細かに研究する姿勢がなかった。しかし、酒井憲二先生は国語学というか、そういった方からのアプローチだったので先入観なしで、これは戦国史の資料としては「一級の史料」だと問題提起をされた。甲陽軍鑑研究に風穴を開けたと私は見ている。

(静岡大学名誉教授 小和田哲男)

 

酒井さんの研究は甲陽軍鑑が100年近く被ってきた汚名を晴らしました。

 

しかし、日付の間違いあまりにもドラマチックという問題は解決していません。これらの疑問を解くカギは一人の武将にありました。

 

甲陽軍鑑をつくった人生と志

「武田二十四将図」に甲陽軍鑑の真の作者とされる人物が描かれています。手掛かりは末書にありました。

 

真の「作者」は?

自分の話を聞いたまま書くのだと弾正より申しつけられた。筆をとったのは二人。大蔵彦十郎と春日惣次郎である。

(甲陽軍鑑末書より)

 

弾正とは武田信玄の側近・高坂弾正のこと。甲陽軍鑑は高坂弾正が語った話を2人の部下が記録したものだと言うのです。それを裏付けるように甲陽軍鑑は読む者に語りかけるような表現であふれています。

 

よみがえる「戦国の語り」

ここを一つ高坂弾正が口ずさみに申しおくを聞きたまえ。さても晴信公(信玄)きどくなる名人にてましますぞ。

(甲陽軍鑑末書より)

 

さらに、特徴的なのが一文の長さ。例えば織田信長が今川義元を破った桶狭間の戦いでは、合戦の始めから終わりまで一文で語り切りました。約2ページ分を切れ目なく一気に語り続けています。高坂弾正の語りをそのまま記録したため、甲陽軍鑑はドラマチックになりました。そして、日付の間違いも記憶違いや言い間違いのためと考えられています。

 

甲陽軍鑑というのは古い記述ほど誤りが多いんです。新しくなればなるほど正確さが増すんです。これは語りがあるからそうなるので、若い頃のことは間違える、若い頃を大なり小なり美化する、これは人間的な語りです。

(東京大学名誉教授 黒田日出男)

 

高坂弾正 人生と志

どうして高坂弾正は誤りが起きかねない方法を用いたのでしょうか?その理由も高坂弾正が甲陽軍鑑で語っています。

 

私はもともと百姓なので読み書きができない。

 

高坂弾正は武田信玄の側近でありながら農民出身でした。しかし、実力があれば取り立てる武田信玄の目にとまり16歳で家臣となりました。身分の低さから侮られることもありました。

 

気を緩めず一身に働いたため読み書きを学ぶ暇がなかった高坂弾正。その代わり、人知れず取り組んだことがありました。それは相手の話をよく聞き、よく覚えること

 

高坂弾正は武田信玄からも多くの言葉を引き出し、吸収していきました。

 

似たような家臣ばかりを好むことは大名にあってはならない。例えて申すなら庭には四種類の木々を植えねばならぬということかの。春には色めく桜、夏は目にも清々しい柳、秋には赤き楓、冬には松。常に緑を保つ松は冬にこそはえる。4つの木をそなえてこそ、いかなる時も庭を美しゅう見ることができる。

何より大事なるは己より優れたる者から日々話を聞くことじゃな。日に一つ聞けば一月で三十。一年で三百六十は話しを聞いたことになる。さすれば、前の年の己よりは知恵がつき器も大きゅうなれるというものじゃ。かように努めし者は例え文字も知らぬ百姓であろうと知者と申すべき

 

側にいた高坂弾正だからこそ知りえた武田信玄の言葉です。甲陽軍鑑は農民出身の高坂弾正が武田家で見聞きした記憶の集まりでした。

 

武田信玄と共に目指した天下統一。その最中、別れが訪れました。長野県の長岳寺で高坂弾正は武田信玄を看取りました。

 

武田信玄を失った武田家は、2年後に試練の時がやってきました。

 

武田勝頼が織田・徳川連合軍に完敗。武田家を支えてきた重臣たちの多くが戦死しました。高坂弾正は国元で留守を守っていました。

 

信玄公を伝えたい

主の家を救うために高坂弾正が考えたことこそ、武田信玄の行いを語り残すことでした。武田信玄から学んだことを次の世代へ伝える、それは自分がすべきことだと考えたのです。こうして甲陽軍鑑は生まれました。

 

語り始めて3年、高坂弾正は甲陽軍鑑の完成を見ることなく亡くなりました。享年52。

 

高坂弾正の遺志は記録を手伝った部下の一人に引き継がれました。高坂弾正の甥の春日惣次郎です。若くして高坂弾正につかえ読み書きを学ぶことができた春日惣次郎。高坂弾正への恩返しにとこう決意しました。

 

この春日惣次郎が高坂弾正ありし日のように書き継いでいく。

 

この4年後、武田家は滅亡。かろうじて生き延びた春日惣次郎に思いがけない手紙が届きました。送り主は武田家を滅ぼした徳川家康。「春日惣次郎を召し抱えたい」と書かれていました。

 

日々の暮らしにも困っていた春日惣次郎にとっては願ってもない話でした。しかし、春日惣次郎は「病気を理由に断った」と伝えられています。

 

その後、佐渡へ移った春日惣次郎。自分が見聞きした武田家の滅亡を記し甲陽軍鑑を完成させました。そして江戸時代、甲陽軍鑑は春日惣次郎から武田家の家臣の子・小幡勘兵衛景憲に伝えられました。景憲はこれを本にし世に広めました。

 

こうして武田信玄は語り継がれていったのです。

 

戦国時代の人々のものの考え方、感じ方、あるいは怒りのぶつけ方、そんなところまで含めたものをこれでもかこれでもかと語ってくれているのが甲陽軍鑑です。だから人間味豊かな史料です。

(東京大学名誉教授 黒田日出男)

 

時代を生き生きと描写した甲陽軍鑑は、次の世代に語り残したいという志が生んだ戦国の記録です。

 

「歴史秘話ヒストリア」
武田信玄 甲陽軍鑑が語る真実



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