ベートーベンの交響曲第9番、通称「第9(だいく)」は今年は日本初演から100年。今や日本人の愛唱歌と言っても過言ではありません。日本で初めて第9が響いたのは徳島県。しかも、場所は収容所でした。
第九の里
徳島県鳴門市は「第九の里」と言われています。100年前にアジアで初めてベートーベンの交響曲第9番が全楽章が演奏されたからです。
当時、この辺りには第一次世界大戦の捕虜を収容する「板東俘虜収容所」がありました。青島で日本と戦って降伏したドイツ兵たちがこの地に送られてきました。そうしてやってきた捕虜たちが第九を演奏したのです。
板東俘虜収容所は、収容所のイメージとは少し違った場所でした。「タパタオ」と呼ばれる商店街もあり、ボーリング場もありました。所長の松江豊寿は敗者を思いやる心を持った人で、ドイツ人に対しても自由な自主的な活動を規則の中で認めていたのです。
スポーツや文化活動など様々な活動が行われていました。とりわけ盛んだったのが音楽。4つの楽団と2つの合唱団が結成され、演奏会を開いていました。その集大成が1918年6月1日の第9日本初演だったのです。
捕虜たちはしばしば収容所の外に出ることができました。新聞部員が近所を取材したり、地域の人たちに演奏を披露することがありました。徳島の人たちも彼らを「ドイツさん」と呼び、温かく接しました。お遍路さんをもてなすお国柄が戦時下に奇跡の交流を生んだのです。
鳴門市では、今も6月になると第九が演奏されます。地元の人々にとっては日本初演の6月が第九のシーズンなのです。
第9とワーグナー
第九の世界初演は1824年。その4年後の1828年、ドイツのライプチヒで第9を聴いていた若者がいました。後にオペラ作曲家となるリヒャルト・ワーグナーです。
感動に震えた15歳のワーグナーは、図書館にある第9の楽譜を夢中で研究。さらに、自らピアノ版第9を作るなど、この曲にとりつかれてしまいました。
この交響曲は神秘の中の神秘を内包しているに違いない。私はすべての想像力と音楽的努力を「第9交響曲」にそそいだ。
(リヒャルト・ワーグナー)
1843年、ワーグナーは30歳でドレスデン宮廷歌劇場の指揮者となり、コンサートの演目に念願の第9を提案しました。しかし、周囲は猛反対。ドレスデンではこの曲は長らく敬遠されていました。オーケストラにとっては大編成の難曲。観客も楽しみ方が分からず戸惑うというのです。
ワーグナーは考えたあげく、画期的な方法を提案しました。「音楽のあらすじ」です。この曲に音のドラマを見出していたワーグナーは、観客に音楽のイメージを分かりやすく伝えるため音楽をあらすじ仕立てで解説したパンフレットを作ったのです。
【第1楽章】
しあわせを求める人々とそれを妨げようとする暴力との戦い
【第2楽章】
新しい世界で絶望に追いこまれながらしあわせを求めて絶え間なく努力する人々の様子
【第3楽章】
傷ついた人々の苦しみをやわらげ天国のように穏やかに包み込む
【第4楽章】
人々はしあわせになろうと歓喜の声をあげる
地球上が歓喜に満ちる
1846年、ついに実現した第九のコンサート。演奏会は大成功。これを機に第九の演奏の機会が増えていきました。
「ららら♪クラシック」
ベートーベンの交響曲 第9番
~日本初演100年 歓喜の歌のヒミツ~
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