ノモンハン 責任なき戦い|NHKスペシャル

モンゴルの草原地帯で日本とソビエトが凄惨な戦いを繰り広げました。1939年に勃発したノモンハン事件です。

 

作家の司馬遼太郎は、ノモンハン事件こそ日本が破滅へと突き進んだ時代を読み解くカギだと考えていました。

 

一体こういう馬鹿なことをやる国は何なのだろう
日本とは何か
日本人とは何か

(司馬遼太郎「『昭和』という国家」)

 

取材を進めた司馬遼太郎は陸軍の上層部のあり様に嫌気がさし、執筆を断念したとされています。

 

昭和の大作家が書けなかったノモンハン事件とは一体何だったのでしょうか?日本陸軍の上層部が敗北の舞台裏を赤裸々に語った150時間に及ぶ音声記録が見つかりました。

 

モンゴル大草原 日本軍 激闘の痕跡

モンゴル東部にある大草原、当時日本側はこの一帯をノモンハンと呼んでいました。今もモンゴルの警備隊が厳しい国境管理を行っています。

 

草原には79年前の激闘を物語る痕跡が数多く残されています。ソビエト軍の手榴弾や装甲車、日本軍の薬莢、兵士の遺骨とみられる骨が見つかりました。

 

ノモンハン事件の原因

草原を流れるハルハ河。ノモンハン事件は周囲に何もないハルハ河をめぐって起きた国境紛争でした。今の中国東北部にあった日本の傀儡国家・満州国。ソビエトとその同盟国モンゴルとの国境は5000kmに渡り、小競り合いが度々起きていました。

 

ハルハ河を国境と主張する日本側は、その川沿いに軍を展開。河より20km東を国境と主張するソビエトとモンゴルはハルハ河を越えて軍を派遣。大規模な紛争に発展しました。

 

凄惨な戦場

柳楽林市さん(101歳)がノモンハンの最前線に送られたのは21歳の時。身を隠すものがない草原に塹壕を掘り、ソビエト軍と対峙しました。戦車や航空機による猛攻を受け、166人いた柳楽さんの部隊はほぼ全滅したと言います。

 

 

もう壕の中で動けなくなったから自分の鉄砲の引き金を足で自分の喉元で、そこで戦死したという人もおりますね。夜、いよいよ最期だと思う人が「天皇陛下万歳」って言って、今あの人の声だ、今度はわしだなっていうような切迫感と言いますか、いよいよ最期だなっちゅうそんな突き詰めたような気持ちでね。いやな感じですね。

(柳楽林市さん)

 

凄惨な戦いは4か月に及びました。最終的に日本軍はソビエト、モンゴルが主張する国境線の奥に追いやられることになりました。2万人の死傷者を出した日本軍。主力部隊の8割を失う壊滅状態で、当時としては日本陸軍最大の敗北となりました。

 

多くの戦友を失った柳楽さん。ノモンハン事件を引き起こした軍の上層部に対する憤りを79年間抱え続けてきました。

 

 

兵隊は「鉄砲の弾」だと思っとったなと、腹が立つんです。なんであんなことをさせられたんだ。死んだ者はどうして生き返ることはできないんだから、死んだ者への思いはどうなるんだ。

(柳楽林市さん)

 

秘蔵テープが明かす ”曖昧な意思決定”

あのノモンハンちゅうのやったのは辻ですよ。

(参謀本部作戦課長 稲田正純)

 

辻に引き回されたかもわからん。けれども彼は天才だもの。

(関東軍航空参謀 三好康之)

 

音声テープで名指しされたのは関東軍作戦参謀・辻政信(つじまさのぶ)少佐。関東軍では最も若い参謀の一人で、本来意思決定を下す立場ではありませんでした。しかし、辻政信がたてたある方針がノモンハン事件の引き金となっていきました。

 

満「ソ」国境紛争処理要綱国境線が不明確な地域では、現場の司令官が自主的に国境線を認定。侵入された場合には、一時的に越境してでも敵を封殺するという極めて強硬な内容。

 

ノモンハン事件の1か月前、満「ソ」国境紛争処理要綱を示した辻。その考えを周囲にこう語っていました。

 

消極退嬰に陥ることはかえって事件を誘発するものである。「寄らば斬るぞ」の威厳を備えることが結果において北辺(国境)の静謐を保持しうるものである。

(辻政信「ノモンハン秘史」)

 

慎重な意見はあまり上がらず、他の参謀たちも辻政信に同意していきました。

 

こういうの今やったんだって見せられましてね、なるほどと。国境紛争を処理するためにはこれしか方法がないんだと。紛争を起こそうとしてやったわけでは決してないのだからね。

(関東軍参謀 島貫武治)

 

最終的に辻が起案した処理要綱は関東軍内で承認されました。この方針のもと、関東軍は国境地帯に約2000人を派兵。大規模な戦闘へとつながっていきました。

 

しかし、日本軍全体を統帥する昭和天皇と直属の参謀本部はソビエトとの紛争拡大を望んではいませんでした。日中戦争ですでに85万の兵力をさいており、ソビエトと新たに事を構える余裕はなかったからです。本来、関東軍の独走を抑える立場にあった参謀本部。実は、ノモンハン事件が起きた時、偶然幹部の一人が関東軍を訪れていました。稲田正純大佐です。

 

「なんだえらい賑やかだな」って私が聞いたら「いや実はノモンハンでこういうことがあって、今から叩きにやるんです」って色々話したんです。「バンと叩いてくるだけだから」って言うので「それだけでやめなさい」と話したんです。

(参謀本部作戦課長 稲田正純)

 

稲田はこれ以上事を荒立てないよう伝えながらも、事実上関東軍の行動を黙認していたのです。

 

当時、30万を超える兵力を擁し、満州国の統治にも深く関与していた関東軍。日本陸軍の一組織でありながら参謀本部も容易には口出しできない存在となっていました。

 

東京に戻った稲田はノモンハンでの紛争について、参謀本部がこれ以上介入する必要はないと発言していました。

 

あんなもんは放っておけ。そんなもん東京でいちいち気にするんじゃねぇと。関東軍に任せておけばよろしいと。

(参謀本部作戦課長 稲田正純)

 

国境紛争という重大事に中央がコントロールしなかったことで、事態はさらに悪化していきました。ソビエト側の反撃を受けた関東軍。それに応酬する形で国境を越えてソビエト軍基地を空爆。これは現地軍の裁量を超えた行為でした。

 

この越境爆撃を主張したのはでした。本来、国境を越える軍事行動には参謀本部を通じて天皇の裁可を得る必要があります。ところが、辻は参謀本部にははからずに強硬すべきだと訴えました。

 

こういうようなことを辻くんが言っとりましたね。関東軍司令官ともあろうものが、こういう国境のわずかなことでいちいち中央の了解を取っとったら満州の防衛はできんぞ。国のためにやるという気持ちでいっぱいだったような気がするんです。

(関東軍参謀 蘆川春雄)

 

これに対し辻の上司、磯谷廉介中将は東京の参謀本部と事前協議すべきだと主張。しかし、辻は譲りませんでした。

 

参謀長あたりはやはり中央の了解を取ろうじゃないかということだったんですが、結局そういうことでまあまあってなことでその場は結論をなしに別れたんです。

(関東軍参謀 蘆川春雄)

 

結局、関東軍トップの植田謙吉大将は越境爆撃を承認。こうして国家同士の大きな戦争に繋がりかねない越境爆撃が関東軍の独断で実行に移されました。

 

なぜ若手の一参謀の意見が関東軍全体を動かすに至ったのか?

辻政信は石川県の貧しい家庭に生まれ、成績優秀で陸軍大学をトップクラスで卒業しました。当時、辻少佐のような若きエリート将校たちが参謀として徴用され、陸軍全体の作戦の立案にあたっていました。時に上司に対しても明確な意見を述べ、独断での行動もじさない辻は上層部の一部から高く評価されていました。

 

植田司令官は以前も辻少佐と上司部下の関係でした。陸軍の人間関係を背景に一部の参謀の意見が強い影響力を持っていたのです。

 

関東軍の越境爆撃は昭和天皇の怒りに触れました。

 

国境を越えて奥地を爆撃したというので、天さん(天皇)がとても腹を立てられて、参謀次長がいって叱られたんだが誰が責任をとるかって言われてね。いま作戦やっとりますから作戦が一段落したら責任をとらせますから。

(参謀本部作戦課長 稲田正純)

 

昭和天皇が植田司令官の処分を示唆する異例の事態になりました。しかし、稲田は強硬な辻を関東軍から移動させることで事態をおさめようとしました。そして、陸軍の人事権を持つ陸軍大臣・板垣征四郎中将のもとへ。ところが、板垣もまたかつての辻の直属の上司でした。

 

彼は板垣さんが関東軍の参謀長だったころの懐刀なんですよ。そういう縁故というのはどうしたって残るんですよ。

(参謀本部作戦課長 稲田正純)

 

陸軍内の情実が優先され、昭和天皇がとうた責任は事実上不問にふされました。

 

天さんの命令は絶対のはずだけど、絶対ちゅうことはないんですよ。どうにでもなるんですよ。

(参謀本部作戦課長 稲田正純)

 

天皇の意向さえ軽んじて独断で行動する関東軍と、それを止められない参謀本部。陸軍の曖昧な意思決定は、結果として多くの兵士の命を奪い国を危うくさせていったのです。

 

越境爆撃の後、ノモンハン事件は壮絶な地上戦へとエスカレート。最大で日本軍2万5000、ソビエト・モンゴル軍5万7000が激突する事実上の戦争でした。

 

敵を知らず己を知らず 突き進んだ日本軍

ソビエト軍が掘削した掩体壕。兵器や食料などを保管するための穴です。その数は確認できただけでも1500。ソビエト軍は日本との決戦にそなえて掩体壕に密に物資を集積していたのです。

 

しかし、日本軍はこうした敵の能力を過少評価していました。ソビエトが武器や弾薬、食料を運んだトラックは最大9000台に及んだという記録もあります。集められた戦車や装甲車は800両近く。ソビエト軍が物資をノモンハンに運ぶために650kmを走破する必要がありました。しかし、日本軍は自らの常識を超えるこうした作戦を不可能だと決めつけていました。

 

一部の将校からは懸念の声もあがっていました。ソビエト駐在武官の土居明夫(どいあきお)大佐です。しかし、その声が顧みられることはなかったのです。

 

日ソが激突する1か月前、土居はシベリア鉄道の車窓から戦車などの兵器が東へ輸送されるのを見ていました。

 

 

一生懸命、夜も寝ずにすれ違う汽車とあるいは追い越す汽車を見た。その結論がね、非常に大きな大砲80門を中心に戦車、機械化部隊が2個師団は送られていると、東に。これは俺も大変だと思ってね、それで関東軍に寄ったんです、新京へ。

(土居明夫)

 

関東軍首脳が集まる会議で、土居は現状の関東軍の戦力ではとても太刀打ちできないと警鐘を鳴らしました。その後、辻は土居を別室に呼び出し、土居の情報は作戦に混乱を招くと強く警告しました。

 

それでも、土居は東京の参謀本部に飛び、再度危機を訴えました。参謀本部の稲田はスターリンは日本を攻撃する余裕はないとみていました。

 

当時、スターリンは西のドイツと東の日本と同時に戦う事態を恐れていました。しかし、スターリンは密にナチスドイツとの関係を改善させ、西側の脅威を減らすことに成功。東側のノモンハンに戦力を集中させていました。

 

日本はソビエト軍の能力を過小評価。さらに、国際情勢も大きく見誤っていたのです。

 

関東軍の辻はノモンハン事件に決着をつけるべく、地上戦の作戦を立案。「牛刀をもって鶏を割く」と豪語していました。

 

現場が強いられた無謀な作戦

ソビエトの周到な準備を知らないまま、歩兵中心の部隊で地上戦にのぞんだ日本軍。1939年7月、日ソ最初の大規模な地上戦が始まりました。

 

この戦いに歩兵として投入された柳楽林市さん。160kmを行軍しようやくたどり着いたノモンハンの大草原。塹壕の中から見たのは想像もしなかったソビエト軍の姿でした。

 

 

壕の後ろにはずらりと戦車が並んで、これには驚いたんです。その戦車を見たときは、もう我々はだめだと思ったんです。

(柳楽林市さん)

 

柳楽さんは塹壕から飛び出し旧式の小銃一つで戦車に立ち向かったと言います。

 

 

やーと大きい声をして実際に我々が喊声をあげて突撃した。そしたら、その声で敵が集中攻撃。鉄砲でむやみに撃たれるわけですね。音の方に向かって集中射撃を受けまして。そしたら今までそこにおった影が人が、じょうろで水をまくようにさーと消えてしまう。

(柳楽林市さん)

 

8月に入ると、ソビエト軍の大攻勢が始まりました。北・中央・南の陣地を三方から囲み日本軍の殲滅をはかりました。この時のソビエト側の兵力は日本軍の倍以上にあたる5万7000人に達していました。

 

野戦病院ってのは地下(塹壕)にあるんですよ。そこへ運び込むんです。その中は瀕死の重傷者がいっぱいですもん。ひどいもんですよ。

(第23師団 軍医 野口千束)

 

圧倒的な戦力の差を見せつけられた日本軍。援軍も補給も絶たれていく中、持ち場を死守するよう命じられていました。その一つが、北部の拠点フイ高地の井置部隊です。

 

部隊長の井置栄一中佐は800人たらずで、5000を超えるソビエト軍と戦っていました。

 

8月20日
フイ高地は優勢なる敵砲兵群に滅多打ちにされた
我が陣地は蜂の巣のような状態である

8月23日
食うに食なく飲むに水なく昼は戦闘
夜は陣地の補強
壕内にうめく重傷者の声
漂う屍臭

8月24日
爆裂の火煙は物凄く
殆ど全滅の惨状となった
遂に刀折れ矢尽き
壕の一隅にて天命を待つに至った

(藤木常武「ノモンハンの落日」)

 

補給もなく戦うこと5日間。兵員は3分の1に減りました。フイ高地の死守は不可能と考えた井置中佐。撤退を決断し兵士たちにこう告げました。

 

この侭では敵に損害も与え得ずして只餓死するのみである
支隊は本夜二十三時 陣地を徹し
師団主力に合せんとす

(藤木常武「ノモンハンの落日」)

 

日本軍は総崩れとなり、現地軍のトップ小松原道太郎中将も全軍に撤退を指示しました。

 

4か月に及んだ壮絶な戦い。ソビエト側の死傷者は2万5000人、日本軍の死傷者は2万人。主力部隊の8割を失う壊滅状態となりました。日本軍は国境と主張していたハルハ河から後退し、敗北をきっしたのです。

 

押しつけられた責任 隠された真相

当時の日本陸軍にとって未曽有の敗北。しかし、責任の大半は現場へと押し付けられていきました。その矛先を向けられた一人がフイ高地で奮戦した井置栄一でした。

 

ノモンハン事件の1カ月後、井置中佐の家族のもとに軍から思わぬ電報が届きました。

 

井置栄一 9月17日
将軍廟 南約12キロにおいて死亡

 

詳しい状況は何も知らされませんでした。

 

 

「戦死」とかいう言葉は使わない、「死んだ」だけです。だから鋭敏にうちの母親は感じていた。「これは普通の死に方とは違うな」という気があったでしょうね。

(次男の井置正道さん)

 

戦場から撤退し、生き延びたはずの井置中佐に何があったのでしょうか?

 

異変は井置中佐がフイ高地を撤退した翌日に起きていました。辻政信少佐が井置を非難したのです。

 

フイ高地の井置部隊は八百の兵力中三百の死傷を生じただけで陣地から撤退した。師団長宛の報告には謝罪の言葉もない。

(「ノモンハン事件機密作戦日誌」)

 

そして、現場のトップとして全軍に撤退を指示した小松原中将は、部下の参謀たちが集まった会議で、井置が自分の命令の前に無断撤退したと糾弾。

 

壊滅的打撃を受けたのは井置中佐がフイ高地を捨てたためである。自決を勧告するのが至当であると思うが諸君はどう思うか。

(扇廣「私評ノモンハン」)

 

出席した参謀たちは再考を求めました。しかし、小松原は同じ発言を繰り返すばかりでした。

 

私はこれだけは言いたくないんですよね。実際に遺族に対して申し訳ないしね。これ言っていいか分からんがいいですかね。「井置さん戦場を離脱、任地を離れるとどういうことになりましょう」と。「陸軍刑法はどんなことですか」といったことやらね。

(小松原の側近 鈴木善康 少佐)

 

関東軍は井置中佐を軍法会議にかけることさえなく、密に自決を促していたのです。

 

1週間往復したんですよ。ということは、自覚してもらいたかったわけなんですね。毎日毎日1時間くらいずつ私が行ったんですよ。そして、ある時期になったら午前4時ごろ歩哨が飛んできたんですね。どうも音がしたと思ったんですよ。井置部隊長がやられましたと。井置部隊の下士官兵にこう言った。とにかく実情を話さないようにね。内地に帰ってきてもね。

(小松原の側近 鈴木善康)

 

自決の直前、井置中佐は家族に手紙をしたためていました。つらい立場にあることをほのめかしながら、家族を安心させようと気丈にふるまっていました。

 

大いに軍司令官に叱られた。たくさんの同情者もある。しかし、軍人として少しも卑怯なことはしていないからご安心してくれ。

(井置中佐の手紙より)

 

妻いくさんは、2カ月後に小松原道太郎の訪問を受けました。小松原は帰国後、戦死者の家族の慰問にまわっていました。

 

 

小松原という人は、うちの父親の遺骨の前で手を合わして「井置は負けたから先に死んでしもうた。一緒に東京に帰ってその負けた惨状をともに話したいと。多くの人にと思ってたのに先死んでもうた。」そこで涙をこぼして泣くんですよ。

(次男・井置正道さん)

 

しかし、小松原中将から家族に真相が伝えられることはありませんでした。

 

敗戦後責任を問われたのは井置中佐だけではありませんでした。ソビエト側にとらえられた日本軍の捕虜です。戦いの後、約200人の捕虜が関東軍に引き渡されました。戦闘中に不時着し捕虜となった飛行第一戦隊長・原田文男(はらだふみお)少佐も、自決を迫られていたと言います。

 

関東軍の参謀、ある人が「部隊長が捕虜になったのは部下に示しがつかん。もうすでに戦死として靖国神社に葬るようにしてあるから。陛下のお耳にも入っている」というような理由をくっつけて、それで黙って拳銃を置いて。しばらくしたら拳銃でダーン。三好参謀です。関東軍のね。その人から「俺は黙って置いてきたよ」と。

(第二飛行集団 参謀)

 

自決を促したとされる三好康之参謀の音声記録も残されていました。

 

私の関する限りじゃ知らんね。私の関する限りじゃ知らない。

(三好康之)

 

後に三好は前言を翻し、「原田少佐から拳銃を貸してくれとは言われた。自決はあくまでも本人の意思だった。」と主張しました。

 

実は、ノモンハン事件の直後に捕虜に対する厳しい方針が決められていました。捕虜を敵前逃亡などの疑いで捜査し厳重に懲罰するように求めていたのです。

 

辻政信は一時、閑職に身を置いたものの、事件の2年後には中央の参謀本部に復帰しました。

 

辻少佐は自らの責任をどう考えていたのか?

 

骨を削られるような苦闘に於て父は卑怯な行動は断じてなかった。参謀本部は負けたと感じたが現地軍は勝った。少くも断じて負けとらんとの気持であった。

(子供たちに残した遺書より)

 

辻政信の次男の毅さんは、父親はあくまで組織の歯車にすぎず、責任を取るべき人は他にもいるはずだと言います。

 

 

あのとき少佐ですよね。軍隊の中で上に、じゃあ将校はいなかったんですかと。少将・中将・大将の人がいなかったんですかと。誰か一人のせいにして自分たちの責任をほっかむりにするというのが一番ラクな方法なんですね。

(辻政信の次男・辻毅さん)

 

陸軍の他の幹部たちはノモンハン事件の責任をどう考えていたのか?

 

中央の指示が不明確であったと。責任は参謀本部が負ってやるというくらいのことがあってほしいものだよ。

(三好康之 参謀)

 

こういう馬鹿なことやるやつは辻なんだから。辻を代えろって私は言ったんです。辻を代えりゃ話は収まると。東京は関東軍のやりよいようにやっとるのに何を出し抜くか。

(参謀本部作戦課長 稲田正純)

 

2万人が死傷した責任と向き合おうとする声はありませんでした。

 

ノモンハン事件から2年後、日本はアメリカなど連合国との戦争に突入していきました。敵の能力を軽視し、十分な見通しもないまま始めた戦争は、すぐに行きづまり1年程で劣勢が決定的になりました。しかし、その現実を直視せず無謀な作戦が繰り返され戦死者は増え続けていきました。

 

ノモンハン事件で打ち出された捕虜への厳しい方針は、「生きて虜囚の辱を受けず」と明文化され、やがて国民にも軍人と同じ覚悟が求められていきました。多くの民間人が捕虜の道を選ばずに自決。1億玉砕の掛け声のもと310万人もの命が失われました。

 

井置中佐の妻いくさんは、本当のことを教えて欲しいと戦後も軍の関係者に訴え続けました。関東軍の元参謀たちからの手紙が井置家に残されていました。

 

ノモンハン事件についてのご質問の件。小生全く記憶いたしあらず。

(元関東軍作戦課長の手紙より)

全く知らない。強要されたのかどうかも知らない。

(元関東軍作戦主任の手紙より)

 

いくさんは真実を知らされることなく70歳で亡くなりました。

 

「NHKスペシャル」
ノモンハン 責任なき戦い



コメント

  1. スターリンはこの紛争において自らが主張する国境線を越える攻撃を禁じ、実際に厳守された。なおもしも破った者が出たならば容赦なく殺されたことでしょう。これに対し日本は天皇が怒ったところのみがこれに近いと言えるでしょう。

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