走る要塞 ヒトラーの専用列車|ドキュランドへ ようこそ!

1930年代初頭、ヒトラーは国家社会主義ドイツ労働者党、いわゆるナチ党の党首でした。1933年1月30日にドイツの首相となり権力を掌握。怒りをこめて情熱的に叫ぶ演説で人々の心をとらえました。「実際に姿を見せなければ大衆の心はつかめない」当時のどの政治家より遊説の重要性を認識していたヒトラーは、ドイツ中を駆け回って選挙活動をしました。

 

当時、ヒトラーは喜んで人前に現れました。ドイツ国民の多くが自分の味方だと感じていたからです。

(歴史家 マーク・フェルトン)

 

より速く、より権力者らしく移動するために、ヒトラーは自分専用の列車が必要だと考えるようになりました。

 

ヒトラー専用列車「アメリカ号」

1937年、ヒトラーはドイツ国鉄に自分専用の特別列車を発注。2年がかりで完成した列車は「アメリカ号」と名付けられました。アメリカは先住民を全滅させ征服した土地を意味したからです。ヨーロッパ全土の征服をアーリア人以外の殲滅を企んでいたヒトラー。彼の列車はその野望を叶える性能をそなえていました。最高時速は120km、それぞれの車両は60トン以上もありました。

 

この鋼鉄の野獣のおかげでヒトラーは安全にあらゆる前線へ赴くことができました。しかも、常に側近に囲まれ外部と連絡が取れる状態を確保していました。アメリカ号は自動車や飛行機にはない最先端の設備を備えていました。

 

見た目にも非常に印象的な列車です。恐ろしいというより簡素で洒落た装飾が一切ないところが印象的なのです。

(フランス鉄道史学会副会長 リュック・フルニエ)

 

専用列車で各地を訪問し歓迎を受けたヒトラー。しかし、出かける時には綿密な計画と厳重な警備がかかせませんでした。

 

ヒトラーの乗る列車が駅に到着するたびに、護衛隊は気が気ではありませんでした。まるでロックスターでも待ち受けたかのように群衆が殺到したからです。みなヒトラーに触れ握手したがりました。どさくさにまぎれて手榴弾を投げ込まれたり、窓から引きずりだされてもおかしくない状況でした。ですから、ヒトラーに特別列車が必要なことは明らかでした。民衆だけでなく軍の関係者とも一定の距離を置くためです。

(歴史家 マーク・フェルトン)

 

ほどなく、ナチスの高官はこぞって自分の専用列車を作らせ始めました。ヒトラーが生んだ流行でした。

 

アメリカ号を見たナチスドイツのお偉方は、みな自分専用の列車を欲しがりました。空軍総司令官で国家元帥のゲーリングやSSナチス親衛隊長官のヒムラーもそうです。第二次世界大戦が始まった時には特別列車が25本もできていました。

(ドイツ鉄道博物館 展示責任者ライナー・メルテンス)

 

アメリカ号に触発されアジア号、アフリカ号、アトラス号、大西洋号などと名付けられました。あたかもナチスドイツが世界中を征服したかのようです。

 

車両は全てドイツの会社が精密模型をもとに作ったため内装も外見も似通っていました。特にヒトラーとゲーリングの列車は見分けがつかないほどでした。

 

戦争中、アメリカ号は何千キロもの距離を走りました。戦況や乗車人数によって編成を変え、10両~16両で運行。長さは最長で430メートルにもなりました。総重量は1200トン。200人以上が乗車するアメリカ号はまさに走る街でした。

 

列車の内装を手掛けたのはミュンヘンに拠点を置く有名なインテリアデザイン会社です。この会社は20世紀初めドイツにアールヌーボーをもたらしたことで知られていました。

(ドイツ鉄道博物館 展示責任者ライナー・メルテンス)

 

リビングカー

ヒトラーのリビングカーは重量が63トンもあったため装甲が施されていると噂されました。しかし、実際はそうではなくヒトラーが100%大理石のバスルームを作らせたため床をコンクリートで補強していたのです。さらに、全ての車両に暖房と空調のシステムが導入され、室内の温度を調節できるようになっていました。当時まだ非常に珍しかった最先端の技術です。

 

リビングカーは前から3両目にありました。荷物車のすぐ後ろです。入るとすぐに護衛兵2人がつめる控えの間があります。ラウンジは大きなテーブルと肘掛け椅子だけの簡素なもので、壁はマホガニーでした。

 

リビングカーにはシングルベッドの寝室がありました。バスルームには浴槽と金メッキの蛇口が備え付けられていました。その奥は3つの客室とトイレ。車両の最後尾にも2人の護衛兵が常駐していました。

 

基本的にヒトラーのリビングカーは極めて中産階級的でしかも古風な作りでした。どちらかというと機能性を重視したデザインで装飾の類はほとんどありません。

(ドイツ鉄道博物館 展示責任者ライナー・メルテンス)

 

1939年9月3日、アメリカ号は初の軍事遠征に出発。ベルリンを出てポーランド北西部のポルチン・ズドルイへ向かいました。ヒトラーは2日前にポーランドへ侵攻し、第二次世界大戦を勃発させたばかりでした。

 

この列車でポーランドや他の地域の運命が決められました。アメリカ号は走る総司令部となり、総統をあらゆる前線へエスコートしました。

 

ヒトラーには沢山のお付きの者がいました。衣服の準備や着替えなど身の回りの世話をする人たち、ベッドメイキングをする客室係の女性たち、食堂車で給仕するスタッフたちなど国中から優秀な人材が集められました。

(歴史家 マーク・フェルトン)

 

バスルームカー

この列車では戦争のただなかでも日常のちょっとした贅沢が味わえました。例えば理容師が常駐するバスルームカーです。1939年4月20日、ヒトラー50歳の誕生日にドイツ国鉄がプレゼントしました。1万1200リットルの給水タンクを搭載し、車両の重量は78トンにもなりました。

 

バスルームカーは前から9両目。最初の部屋には2000リットルの給水タンクが2つとりつけられました。小さな更衣室に続いて浴室が5つ、そのうち2つには大理石とエナメルスチールの美しい浴槽がありました。

 

ヒトラーの一日は10時頃に始まります。まず、幕僚長に最新の戦況を聞くのが恒例でしたが、大抵のことは現場に任せほとんど口出ししませんでした。彼が下した命令はただ一つ。禁煙でした。

 

車内の生活は列車の主の性格を繁栄し、厳格で仕事中心でした。彼は常に権力の力学の中にいる人物でした。

(フランス鉄道史学会副会長 リュック・フルニエ)

 

1939年9月17日、ドイツと不可侵条約を結んでいたソ連がポーランドに侵攻。東西から攻め込まれたポーランドは力尽き開戦から5週間後の降伏しました。

 

厳重な警備体制

ヒトラーがベルリンに戻るとアメリカ号はいつも通り首都近郊にある空港の一角に留め置かれました。ナチスの警備へのこだわりは異常なほどで、物流の管理にも厳重なシステムが導入されました。

 

ナチス親衛隊やドイツ国防軍にはヒトラーを守ること、彼の列車や乗用車、飛行機を守ることだけを任務とする部隊がありました。爆弾探知犬などを使い、列車そのものも徹底的にチェックされました。また、車内に持ち込まれる食べ物や物品、乗車するスタッフなど何もかもがとことん調べられました。

(歴史家 マーク・フェルトン)

 

列車で働くスタッフは厳しく選抜されました。

 

アーリア人限定です。特に親衛隊員は家系にユダヤ人の血が混ざっていないか1750年までさかのぼって念入りに審査されました。

(歴史家 マーク・フェルトン)

 

そしてヒトラーの警護に特化した総統身辺警護隊には専用の車両が割り当てられました。

 

彼らはヒトラーの最も近くにいる警護隊です。ヒトラーはどこへ行くにも20人余りの隊員を列車に同乗させていました。武装してヒトラーの側にいることを許されたのは彼らだけです。

(歴史家 マーク・フェルトン)

 

移動経路の警備も徹底していました。線路沿いの狙われやすい場所、例えば駅、橋、トンネルなどの周辺には100メートルおきに兵士が配置されました。列車自体は前後に連結された対空砲搭載車で守られていました。それぞれ独立して動く四連装の対空砲があり、飛行機だけでなく地上の目標にも有効でした。

 

対空砲に挟まれた中央部分が兵士たちの居住区でした。ベッド、キッチン、トイレ、洗面所、弾薬庫がありました。

 

20mm機関砲は非常に効果的でした。対空砲として2.5km上空まで撃つことができたからです。また同時に地上の目標を狙った水平射撃も可能で列車に近づく敵の部隊や小型車両を攻撃できました。地上なら4.7km先まで達したうえ、毎分800発撃てたと考えられています。この対空砲搭載車には25人~30人の兵員が乗り込んでいました。

(歴史家 ポール・マルマッサリ)

 

アメリカ号のおかげでヒトラーは戦闘に必要な兵士を全て同行させることができました。しかし、急な移動に備えてベンツの装甲車が常に列車を追いかけ、途中には飛行機も待機しました。

 

フランスを攻撃

オーストリア、チェコスロバキア、ポーランドを占領したヒトラーは1940年代初頭、次の攻撃を準備しました。

 

ヒトラーは精密なフランス攻撃計画を練りました。精密とは、今風に言えば外科手術のように正確なという意味で、フランス軍の中枢を電撃戦で一気に無力化するものでした。その後、一見寛容な和平案を提示するのですが、フランスは拒否できません。なぜなら、最初の一撃で軍隊は崩壊しているからです。全てヒトラーによる周到な計算でした。

(ヒトラーの伝記作家フランソワ・デルプラ)

 

1940年5月、ドイツに攻撃されたフランスは長くは抵抗できず、4週間で降伏。西ヨーロッパでファシズムに屈しないのはイギリスだけになりました。

 

6月22日、休戦協定が結ばれたのは列車の中でした。ヒトラーはドイツが第一次大戦の敗戦を受け入れたコンピエーニュの森の同じ車両でフランスに調印を迫ったのです。

 

ヒトラーは休戦協定の場所をわざわざコンピエーニュの森に指定しました。全く意地の悪い選択です。彼はそうやってフランスに知らしめたのです。嘆かわしくも降伏した1918年の屈辱を晴らし、ドイツ第三帝国が勝ったのだと。

(ヒトラーの伝記作家フランソワ・デルプラ)

 

7月6日、ヒトラーは権力の象徴であるアメリカ号でベルリンに凱旋。膨大な数の人々が彼を英雄として迎えました。これはヒトラーが大衆と交流した最後の機会となりました。

 

ヒトラーは身の安全に尋常でない脅威を感じると同時に、人々の熱が冷めていくことを恐れたのでしょう。ヒトラーには大衆の情熱が必要でした。1930年代にはその情熱が彼にはかり知れない自信を与えてくれました。だからこそ逆に彼は大衆と交わらないことにしたのです。みなが自分に好意的とは限らないからです。

(ヒトラーの伝記作家フランソワ・デルプラ)

 

戦時蒸気機関車 BR52

アメリカ号は他の特別列車と同様、2両の機関車に牽引されていました。

 

それは列車が重いからではなく保障のためでした。片方が壊れても旅を続けられますからね。

(ドイツ鉄道博物館 展示責任者ライナー・メルテンス)

 

ヒトラーの専用列車を牽引した様々な機関車の中で最も有名なのは1942年に登場したBR52です。

 

戦時蒸気機関車と呼ばれたBR52の構法は画期的でした。溶接を採用し、コストのかかるリベット接合の工程を省略したのです。ボイラーにリベットが打ち込まれないためシリンダーの表面が滑らかになりました。余計なものを全て剥ぎ取ったため軽量なのにガッシリしていました。

(鉄道史家クライヴ・ラミング)

 

BR52は完璧な戦時の機関車でした。1両につき原料26トン、労働力も6000人日節約することができたのです。

 

BR52はドイツに占領された国を含めて17カ国で製造され、最終的に6285両が作られました。

 

フランス横断の旅

1940年、ヒトラーはフランス横断の一大旅行を計画。内戦を終結させたスペインのフランコ将軍とフランスのペタン元帥と会うためです。ファシズムに屈しないイギリスへの共同戦線を目論んでいました。

 

10月20日、ヒトラーはベルフホーフの別荘を出発。ナチスの保安部隊が常にアメリカ号に先行して活動しました。駅員が列車の到着を知らされるのは数分前。鉄道会社の上層部ですら数時間前でした。交通は完全に麻痺しました。

 

どの駅でも旅の間に作られた書類は全てその日のうちに廃棄するように指示されました。アメリカ号の経路を漏らさないためでした。

 

保安部隊はさらに効果的な対策をこうじていました。ヒトラーの専用列車とそっくりの列車を走らせるというアイディアです。アメリカ号と同じルートを本物が通る20~30分前に走らせました。そうすれば、敵はダミーの列車を攻撃します。時にはアメリカ号の後をゴースト列車が走行する場合もありました。攻撃すべき列車はどれなのか混乱させる作戦でした。

 

ヒトラーはアンダイエに向かう途中で一度下車。ヴィシー政権の副首相ピエール・ラヴァルと会ってペタンとの会談を準備するためでした。会合は極秘とされ、モントワールという町が選ばれました。10月22日、アメリカ号が到着。

 

モントワールは人口4000人の小さな町でした。小さな町は制圧下におかれ、500人ものドイツ兵がやってきたため様々な噂が広まりました。

 

町には厳戒態勢が敷かれました。駅の周りでは兵士がぐるりと列をなし、空ではドイツ機が監視していました。駅とトンネルの間にも兵士たちが一定の間隔で配置されました。20メートルおきに1人。町の外へ繋がる道路は全て閉鎖されました。そして、数人のチームが郵便局の通信回線を監視していました。必要に応じて遮断できるようにです。

(モントワール会談博物館館長セヴェリーヌ・フレース)

 

駅の近くの住人は家に入って雨戸を閉め、電気を切るよう命じられました。アメリカ号は午後6時34分、3番ホームに停車。ラヴァルが到着したのは午後7時頃でした。しかし、話し合いはペタンがヒトラーとの会談に同意したことなどを確認しただけで45分程で終わりました。

 

アメリカ号は夜のうちにモントワールを経ち、翌23日の昼過ぎにアンダイエへ到着しました。

 

ナチスの保安部隊は偽情報を流すプロでした。彼らは列車の到着日を連絡します。しかし、列車は2本も来て、しかも本物の到着は別の日です。彼は極力事実を隠し情報の漏洩を防ぎました。それから線路の幅が違うという問題がありました。スペインは1.67m、フランスは1.44mです。そのため双方の列車はアンダイエで足止めとなり先には進めませんでした。

(フランス鉄道史学会副会長 リュック・フルニエ)

 

会談は9時間に及びましたが成果はゼロでした。フランコにはドイツと組んで参戦する気などなかったのです。ヒトラーも要求には固執しませんでした。

 

ヒトラーは夜のうちに出発し、ペタン元帥との会談のためモントワールへ向かいました。モントワールの駅は再び閉鎖されました。

 

ヒトラーの列車は午後3時29分に到着し、3番ホームに停車。午後6時、フランスの国家元首ペタン元帥がラヴァルと車で到着しました。

 

2時間の会談で独仏の協力体制が決まり、数日後の10月30日ペタンによる演説で改めて確認されました。

 

半年後の1941年4月12日、アメリカ号はウィーン近郊のメーニッヒキルヒェンに到着。ヒトラー一行は2週間滞在しました。列車が停められたのは2700メートルものトンネルの入り口で、すぐに避難できるよう機関車の蒸気はたいたままでした。ここからヒトラーはユーゴスラビアへの攻撃を命じました。ギリシャ軍を相手に苦戦するムッソリーニを援護する経路を得るためです。

 

1941年4月20日、ヒトラーはメーニッヒキルヒェンで52歳の誕生日を祝いました。2週間の滞在中、多くの会談を行いました。ブルガリアの国王、ハンガリーの摂政、イタリアの外相などです。すでに、ハンガリー、ルーマニア、ブルガリアを制圧していたナチスドイツは、ギリシャへの入り口だったユーゴスラビアをも支配下におきました。

 

4月27日、ヒトラーはアメリカ号でベルリンの官邸に戻りました。5月9日からはベルクホーフの別荘に滞在し寛ぎました。その直後、ヒトラーはソ連への侵攻を開始しました。

 

ソ連侵攻 東部戦線

ドイツの主戦場は東部戦線へ移りました。ヒトラーの妄想癖が悪化したのはこの頃からでした。ソ連征服の望みが頓挫すると彼は外の世界から自分を切り離しました。アメリカ号は動く総司令部ではなく単なる移動手段になりました。列車は危険すぎると感じたのです。

 

ソ連侵攻の2日後、アメリカ号はポーランドのラステンブルクに到着。ヒトラーは総統大本営の建設と周囲への地雷敷設を命じました。数々の要塞やシェルター、兵舎。ヴォルフスシャンツェ「狼の巣」と呼ばれ2000人が生活しました。ヒトラーは蚊にまみれた暗い森で2年以上を過ごし、夏の蒸し暑さと雪深い冬の寒さに耐えたのです。

 

戦時中、ヒトラーは各地の前線の近くに総統大本営や安全性の高いシェルターを20か所も作らせました。過剰なほど巨大な構造物が「狼の巣」から600km南に残っています。特別列車の避難所として作られた2つの巨大なトンネルです。ポーランドの強制収容所から数百人の囚人を動員し、10か月で完成させました。トンネルの全長は480メートル、幅8.8メートル、高さ12メートルでした。

 

「狼の巣」で東部戦線の作戦を指揮していたヒトラー。戦闘に次ぐ戦闘で多くの血が流れていました。得意の電撃戦も機能せず、4か月の侵攻作戦が1945年5月の敗北まで続く総力戦に変わっていました。

 

ソ連軍が前進し始めました。ドイツ軍の兵力は消耗し、物質的にも限界にきていました。新たな戦力を投入するのがどんどん難しくなっていきました。そこで彼らはフランスなど占領した国々から労働力を動員し、工場で働いていたドイツ人と交代させました。そうして、ソ連の猛攻で人員不足に陥ったドイツ軍の兵力を補強したのです。

(ヒトラーの伝記作家フランソワ・デルプラ)

 

敗戦に次ぐ敗戦でヒトラーはますます暴君になり、精神的にも混乱し疑心暗鬼に陥っていました。1941年以降、ドイツ軍が奪った命の80%はソ連人でした。

 

ドイツ軍の戦況は悪化しました。1942年初めまでにモスクワ攻撃が失敗し、スターリングラードでも大惨敗しました。ヒトラーはますます孤立し、人前に出ることも演説することも少なくなりました。

(歴史家 マーク・フェルトン)

 

アメリカに宣戦布告

1941年12月7日、ハワイの真珠湾の海軍基地が日本海軍の航空隊に奇襲されました。翌日、アメリカは日本に宣戦布告。軍事同盟を結んでいたドイツとイタリアも12月12日、アメリカに宣戦布告しました。戦争は全世界に拡大したのです。

 

アメリカに宣戦布告したヒトラーにドイツ人はひどく驚いたと思います。ソ連との戦いが困難のきわめる中、アメリカとまで戦うなんて尋常じゃありません。彼の誇大妄想はコントロールのきかない状態に陥っていたのではないかと思います。

(歴史家 マーク・フェルトン)

 

もはや総統特別列車を「アメリカ号」と呼ぶことはできません。新たに「ブランデンブルク号」と名付けられました。

 

ヒトラー暗殺計画

イギリスではナチスの暴走を止める方法が模索されていました。ヒトラーの暗殺です。彼が権力の座について以降、一説には40もの計画が未遂に終わったと言います。

 

1944年6月、イギリスの特殊作戦執行部がフォックスレイ作戦にのりだしました。1998年まで公にされなかった極秘計画。概要は「ヒトラー暗殺の方法を探せ」とシンプルでした。

 

まず、列車を脱線させる案が検討されました。総統の列車がいつどこを通るのか正確な情報を得るのは不可能に思われました。鉄道の設備や警備状況をみても、列車に爆弾を仕掛けるチャンスはありません。そこで、2つ目の可能性が検討されました。

 

彼らは総統特別列車の給水について徹底的に調べました。食糧と瓶入りの水に最大限の注意が払われているのに、車内のタンクの飲み水には警戒が薄いことに気づいたのです。

(ヒトラーの伝記作家フランソワ・デルプラ)

 

かつて専用列車の給仕をしていたドイツ人捕虜がヒトラーが飲む水が入ったタンクの場所を明かしました。

 

飲み水のタンクに毒を仕込む方法と、その毒が検出されない方法が研究されました。まず、列車の揺れで水に混ざるように毒物を仕込みます。ヒトラーが大量にお茶を飲むこと、それにミルクを入れていることは分かっていました。ですから、ミルクが先に注がれれば水の色が多少変でも気づかれないだろうと考えました。

(ヒトラーの伝記作家フランソワ・デルプラ)

 

ヒトラーには毒味係がいました。毒のコードネームはI。効き目が出るまで時間がかかる薬品でした。Iは口にしてから死ぬまで1週間近くもかかりました。

 

しかし1944年、イギリスではヒトラーを殺すべきか激しい論争が起こりました。暗殺されたら殉教者として偶像化されるのではないかと危惧する人もいました。

 

暗殺計画が中止されたのは1944年の終わりまでにヒトラーが西側諸国にとって利用価値のある道具になっていたからだと思います。彼は戦争の舵取りを誤り、結果的に終戦までの時間を早めていました。つまり、生かしておくことが最善の策だったのです。

(歴史家 マーク・フェルトン)

 

撤退

12月11日からヒトラーはアドラーホルストにある総統大本営でアルデンヌの戦いを指揮しました。ヒトラーの目的は壮大でしたが、戦略は破綻し現実世界から逃避しているように見えました。野望を叶えるすべもなくドイツの敗色はますます濃くなっていきました。

 

ヒトラーはベルリンへの撤退を余儀なくされました。この時はまだ知るよしもありませんでしたが、これが専用列車による最後の旅となりました。車窓に広がるのは荒廃した街の景色。ベルリンは爆撃で瓦礫の山と化していました。

 

その時、ヒトラーは気づいたのです。偉大なるドイツ帝国が実現することはない、自分は負けたのだと。1945年1月16日のことでした。

 

ヒトラーはベルリンの西グリューネバルトという小さな駅で総統特別列車を降りました。

 

彼が最初に総統大本営をかまえたのは地下壕ではなく官邸でした。しかし、ベルリンの官邸は爆撃で使えなくなりました。全ての窓が吹き飛ばされたのです。真冬の最中にね。

(ヒトラーの伝記作家フランソワ・デルプラ)

 

1945年4月中旬、ついにヒトラーは総統官邸の地下壕にこもりました。彼は力なくソ連軍のベルリン攻撃を見ていました。

 

4月20日、ヒトラーは最後の誕生日を祝いました。29日にエヴァ・ブラウンと結婚。その夜のうちに政治的遺書を書きとらせ、30日の午後3時15分にエヴァと共に寝室で自殺しました。遺体はカソリンをかけて燃やされました。

 

総統のリビングカーの運命は親衛隊の手にゆだねられました。

 

親衛隊はリビングカーの爆破を決めました。彼らは車内をガソリンで満たし、ダイナマイトと手榴弾を仕込んで火をつけ全てを吹き飛ばしました。

(ドイツ鉄道博物館 展示責任者ライナー・メルテンス)

 

彼らはこの車両が連合軍の手に渡り戦利品としてパリやロンドン、ニューヨークやモスクワで展示されるのを嫌ったのです。総統のリビングカーは一欠片も残してはなりませんでした。

 

終戦後の総統特別列車

第二次世界大戦は1945年9月2日に終わり、ドイツは連合国の間で分断されました。しかし、総統特別列車の処遇はこれからでした。

 

アメリカが嗅ぎつけてやってきました。「ありがとう。これは私たちが貰います。」と言うと、イギリスも「我々もぜひ頂きたいですな。」となりました。それで一部の車両がイギリスに、残りがアメリカの手に渡りました。そして、占領の責任者である将軍が戦利品として自分の専用列車にしたのです。

(歴史家 マーク・フェルトン)

 

1950年代初頭、ナチスの様々な特別列車の車両が西ドイツに返還されました。アデナウアー首相は残っていた総統特別列車の車両で公用列車を編成。1955年のモスクワ公式訪問に使いました。その後、列車は時代に合わせて改装され、磨き直され、近代化され散り散りになりました。

 

1960年代にはエリザベス女王やビートルズがドイツで特別列車に乗車。それがナチスの運輸大臣の列車だとは夢にも思わなかったでしょう。

 

1970年代には西ドイツのブラント首相がヒトラー専用列車の生き残りを利用しましたが、80年以降、こうした車両が使われることはなくなりました。

 

第二次世界大戦中、鋼鉄の野獣は常にヒトラーと共にありました。あらゆる前線で数々の決断に立ち会ったのです。歴史の証人ともいえる総統特別列車。今はわずかな車両が博物館の奥に保存されているだけです。

 

制作:909 productions
(フランス 2016年)




学び


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