ココ・シャネル 「皆殺しの天使」の真実|クレイジーズ

女を縛る服を葬れ!

約100年前、若かりしシャネルが生きた時代、競馬場は上流階級の社交場で女性たちは華やかな衣装で着飾っていました。派手な飾りのついた帽子に長いスカート。ドレスはウエストを引き締めたスタイルで、バストとヒップを極端に強調したものでした。このファッションのため女性は何をするにも不自由。馬に乗る時は横を向いて座るしかありませんでした。

 

しかし、シャネルは違いました。男性のようにズボンを履いて馬を乗りこなしたのです。そのためにわざわざ男性服を切って自分用の乗馬服に仕立て直していました。

 

20代後半でパリに帽子店を開きデザイナーとして歩み始めたシャネル。そんな彼女にはどうしても耐えられないものがありました。それはコルセット。ウエストの締まったドレスを着るために女性たちはコルセットでお腹を縛り上げていました。

 

ある時、シャネルは怒りを爆発させました。

ゴテゴテとした飾りが女の体を押しつぶしている

(シャネルの言葉より)

 

コルセットをどうにかできないか考えたシャネルが目をつけたのは、男性用の下着に使われていたジャージーでした。伸縮性があるジャージーを使いシャネルはゆったりして動きやすい服を作り店で売り始めました。

 

ところが、常識破りの服にファッション界に君臨する先輩デザイナーたちが猛反発。

こんな服は貧乏主義だ

社交界でこんな服が着られるはずがない

 

しかし、しばらくするとジャージードレスは大ヒット。パリのファッション誌でも絶賛されました。シャネルは一躍女性たちのカリスマとなりました。シャネルのトレードマークであるショートカットを真似する女性たちも現れました。

 

私は自分のを切っただけ。人のは切っていないわ。似合っていたからじゃない?私が流行を変えたと言われるけど「私そのもの」が流行したのよ。

(シャネルのインタビューより)

 

シャネルが人々に受け入れられたのは、時代の変化と大きく関係していました。ジャージードレスの発売後、第一次世界大戦が勃発。戦地へ出かけた男性たちの代わりに女性が仕事を担うようになりました。社会に出て働く自立した女性が求められていました。シャネルが作った動きやすい服は新しい時代に欠かせないものだったのです。

時代がわたしを待っていた。わたしは生まれさえすればよかったのよ。

(シャネルの言葉より)

 

男目線の服は許さない!

1920年代、第一次世界大戦が終わるとヨーロッパには豊かさが戻りました。この時代に流行したのは緑や水色などハッキリした明るい色の服でした。当時の有名ファッションデザイナーのポール・ポワレは、シャネルと同様にコルセットを必要としない新しい女性服を目指していました。

 

彼が作り出したのは舞台衣装のような装飾的で派手な色使いの服。女性は色鮮やかに着飾るべきだという男性から見た強い思い込みがありました。シャネルはこの考え方に真っ向から挑みました。

女性服は上品であるべきよ。女性らしくね。舞台衣装のような派手な服なんておぞましい!

(ココ・シャネルのインタビューより)

 

この結果、シャネルが生み出したのは真っ黒で無駄な飾りを一切排除した「リトル・ブラック・ドレス」です。それは、ファッションの概念を覆す革命的な服でした。当時の常識では、黒一色の服装といえば喪服。シャネルの黒いドレスは他のデザイナー達からバカにされました。

 

ある日、街で偶然出会ったシャネルとポワレ。

ポワレ「マドモアゼル・シャネル、今日は全身黒づくめですね。いったいどなたの葬式ですか?」

シャネル「ムッシューあなたのよ!」

 

アメリカの有力ファッション誌はシャネルに最大級の賛辞を送りました。

やがて世界中の人々がシャネルのドレスを着るようになるだろう!

 

この後、シャネルの黒いドレスは世界中で大流行し、様々なブランドが真似をしました。一方、支持を失ったポワレの店は1929年に倒産しました。

 

新世紀のファッション

シャネルが女性のファッションに起こした革命。それは、コルセットを取り払いウエストを解放。ロングドレスの裾を歩きやすいようにカット。派手な色使いをやめ、無駄な飾りを取り去ることでこれまでにない着心地の良さと自由を女性に与えました。こうして世界に名だたるファッションブランドを一代で築き上げたのです。

 

ある伝記作家はシャネルをこう表現しています。

「19世紀のファッションを抹殺した皆殺しの天使」

 

ウソだらけの生い立ち

シャネルの生まれ故郷はソミュール。シャネルは貧しい家庭の出身でした。しかし、シャネルは故郷は別の場所だとずっと偽っていました。出生届の父親の名があるべき届人欄には救済院の職員の名前が書かれています。シャネルには抱き上げてくれる家族がいなかったのです。父親の職業欄には行商人と書かれています。5人の子供を妻に押し付け、家庭を顧みない遊び人だったと伝えられています。

 

父親について尋ねられるとシャネルはこう答えていたと言います。

父はブドウの貿易商だったわ。商売のためにアメリカに渡りめったに会えなかったの。

(シャネルの言葉より)

もちろんこれは嘘。シャネルは12歳の時、母親が病気で亡くなると孤児院に預けられました。父親は子供たちを持て余し捨てていったのです。

 

シャネルに「捨てられた私の気持ちは分からないでしょう」と言われたことがあります。「想像できないぐらいむごいことなのよ」って。全く信じられませんでした。成功して全てを手に入れたはずなのに、子供時代の思い出がいつまでも彼女を苦しめていたんです。

(シャネルの親友・精神科医クロード・ドレイさん)

 

17歳になるとシャネルは孤児院を追い出されキャバレーの歌手になりました。それは、少女が一人生きていくための数少ない手段の一つでした。

 

シャネルがよく歌っていたのが「トロカデロでココを見たのは誰?」です。酔っぱらった客たちはサビの部分で「ココ、ココ」と声を合わせて歌いました。シャネルの本名はガブリエルですが、いつしかこのココが彼女の呼び名となりました。

 

しかし、シャネルはココという名の由来を問われるたびに可愛がってくれた父がつけた愛称だと答え続けました。

 

シャネルがついた嘘は私にはウソというより彼女の防衛本能のように聞こえました。父親に捨てられた心の痛みが何よりも強かったの。彼女にとって本当に恐ろしいことだった。父親は女性にとって最初に意識する男性です。その大切な人が彼女を捨てたわけです。

(シャネルの親友・精神科医クロード・ドレイさん)

 

シャネルは生涯、父親が自分を捨てた事実を公には認めませんでした。そして、大人になると多くの男たちと交際を重ねていきました。フランスの大富豪、ロシア皇帝のいとこ、イギリスの名門貴族、その多くは頼りになる上流階級の男ばかりでした。

 

私は私の人生を作り上げた。なぜなら自分の人生が気に入らなかったからよ。

(シャネルの言葉より)

 

突然の引退

1939年、シャネルは突然店を閉めて業界から身を引いてしまいました。そのきっかけは第二次世界大戦の勃発。

 

ひとつの時代が終わった。もうドレスをつくる人なんて必要ないわ。

(シャネルの言葉より)

 

戦争開始から1年たらずでパリにドイツ軍が侵攻。大通りでは我が物顔に軍用機が離着陸していました。街を占領されパリ市民の生活は一変しました。

 

多くの女性たちが生きるために敵国の男に近づく道を選びました。高級ホテルはドイツ軍に接収されました。パリ市民が厳しい暮らしを強いられる一方、ドイツ軍将校たちが贅沢な暮らしを楽しんでいました。

 

引退後のシャネルはドイツ人を恋人にしてホテル・リッツで暮らしていました。相手はディンクラーゲ男爵。この時シャネルは58歳。相手は13歳も年下でした。

 

1944年8月、連合軍によってパリは解放されました。フランス各地でドイツに協力した裏切者への報復が始まりました。ドイツ軍将校と交際していたシャネルもフランス警察の取り調べを受けました。

 

この年で恋人を持てるチャンスを手に入れたら相手の素性なんて気にするものですか!

(シャネルの言葉より)

 

強気だったシャネルですが、ドイツ軍将校との関係が取り沙汰されスイスへ移り住みました。そして、フランスのファッション界から完全に姿を消してしまいました。

 

奇跡のカムバック

1953年、70歳になったシャネルはパリに戻ってきました。そして翌年、15年ぶりに店を再開しました。

 

「死ぬほど退屈だったのよ」彼女はそう言ったわ。でも、彼女が戻ってきたことにはもう一つ大きな理由があったの。

(シャネルの親友・精神科医クロード・ドレイさん)

 

その頃、パリのファッション界で人気を集めていたのは豊かなバストと細いウエストを強調するデザイン。かつてシャネルが葬ったはずのコルセットが現代風に蘇っていたのです。

 

すごくムカついたわ。この気持ちは誰にもわからないでしょうけどね。

(シャネルの言葉より)

 

シャネルはファッション界の主導権を取り戻す準備を進めました。

 

シャネルは私を強く握って腕を引っこ抜くようなものすごい力で上着やドレスを着せていきました。モデルはみんな驚いていました。でも、彼女はタバコをずっと吸い続けて私たちのことは眼中にない感じでした。だからモデルたちは影で「くそばばあ」って呼んでいたわ。

(元モデル ヴェラ・ヴァルデスさん)

 

そして行われた15年ぶりのファッションショー。しかし、これをフランスのメディアは一斉に酷評しました。

シャネルは1930年代の田舎ファッションで戻ってきた

観客は拍手する気すら起きなかった

シャネルの時代は終わった

 

シャネルは激怒していました。だってシャネルという名はいつでも栄光で飾られていなくてはいけないから。それなのにフランスの批評は本当にひどくて。

(シャネルの親友・精神科医クロード・ドレイさん)

 

しかし、アメリカでの評価は全く逆でした。時代を超えて色褪せないエレガントなファッションとして称賛されたのです。女性たちはシャネルの復帰を大歓迎しました。

 

1957年には最も影響力のあるデザイナーとしてアメリカで賞を受けました。シャネルの服はハリウッドスターたちからも愛されました。彼女たちがメディアに登場するたび、憧れの眼差しがシャネルの服に注がれました。15年の時を経て、シャネルの人気は再び世界を席巻。ファッション界の女王として返り咲いたのです。

 

 

シャネルは87歳で亡くなりました。生涯結婚することはありませんでした。

「仕事のない日曜日は大嫌い」

それが晩年の口癖だったと言います。皮肉なことにシャネルが亡くなったのも日曜日でした。

 

あの日、一緒にランチに出かけた。そして帰りには彼女の住むホテルの前でシャネルはさよならの挨拶をして「明日も仕事をするわ」と言ったわ。そして、ホテルの中に見送ったのが彼女の姿を見た最後になってしまったの。

(シャネルの親友・精神科医クロード・ドレイさん)

 

インタビューの中で穏やかに自らの人生を語る姿がありました。

私だってもっと美しい人生を送りたかったのよ。お金やお酒、人の悪口だけじゃなくてね。唯一の誇りは、私の服を着た女性は美しかったこと。私こそが世界で一番女性を美しく装ったの。

(シャネルのインタビューより)

 

「クレイジーズ 世界を変える物語」
❝皆殺しの天使❞ ココ・シャネル




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