ジェームズ・マクニール・ホイッスラー 音楽のように どこまでも自由に|日曜美術館

NHK・Eテレの「日曜美術館」で音楽のように どこまでも自由に 革新の画家・ジェームズ・マクニール・ホイッスラーが放送されました。ホイッスラーが活躍した19世紀、西洋海外に変革の波が押し寄せていました。ホイッスラーは様々な国の芸術に学ぶ中で日本の美術に傾倒。実験を重ね古い伝統を打ち破ろうとしました。追い求めたのは色や形がハーモニーのように調和する世界です。

 

19世紀中ごろからロンドンとパリを舞台に活躍したジェームズ・マクニール・ホイッスラーはダンディで情熱的な人物でした。20代、成功を夢みてパリで絵を学びましたが、その時代は大きな壁が立ちはだかっていました。当時、画壇で評価されたのは宗教や神話などの物語を描いた絵画。写実を極めたリアルな表現。ルネサンス以来、脈々と受け継がれてきた西洋絵画の伝統でした。厚い壁に挑むためにホイッスラーは独自の哲学で絵画をとらえようとしました。その鍵としたのが音楽。19世紀、ヨーロッパではベートヴェンやワーグナーなど革新的な音楽家が生まれ大きな変化が起きていました。そして描いたのが「白のシンフォニーNo.3」ホイッスラーはタイトルに初めて音楽の用語を使いました。絵画に音楽のような調和をもたらす糸口にしたのが日本の美術ジャポニスムでした。19世紀半ば、日本の開国を機に大量の美術品がヨーロッパに渡り一大ブームとなりました。中でも浮世絵は多くの画家たちを魅了。ホイッスラーが強く挽かれたのは歌川広重。大胆な構図や色使いは西洋絵画の常識を覆す未知なる世界でした。東洋への深い関心を反映した初期の作品が「紫のバラ色:6つのマークのランゲ・ライゼン」です。中国や日本の美術品に囲まれ、壷に絵付けをする女性。絵の中の品々はホイッスラー自身のコレクションです。

 

ホイッスラーは「青と金色のハーモニー:ピーコック・ルーム」でその名を広く世に知らしめました。しかし、それに至るまでには長い道のりがありました。ホイッスラーは1834年、アメリカ・マサチューセッツ州に生まれました。9歳の時、鉄道技師の父の転勤でロシア・サンクトペテルブルグに移住。そこはロシア芸術の中心。帝国美術アカデミーで絵を学びました。父親は彼が芸術家になることに関心がなく、将来はたぶん技師になると考えていました。ホイッスラーはそれに反発し、操られるような道から逃げ出したいと思っていました。その父はホイッスラーが14歳の時に他界。ずっと画家になる夢を持ち続け21歳でパリへ。フランス語も堪能で社交的だったホイッスラーはマネやボードレールなど様々な芸術家と交流し絵画の革新を追い求めました。20代半ば、リアリズムに傾倒し近所の男性を描いた「煙草を吸う老人」しかしホイッスラーの絵はパリではなかなか評価されませんでした。そして新たな環境を求めて25歳の頃ロンドンに移住。やがてパトロンとなった富豪フレデリック・レイランドから「ピーコックルーム」の依頼を受けました。元は別の建築家に晩餐会用の部屋のデザインを全て任せたものでした。ホイッスラーは完成間近になってから鎧戸などのデザインに少し手を加えるよう依頼されただけでした。しかし、レイランドが仕事でロンドンを離れている間に、ほとんど完成していた内装を自分のデザインで大幅に作り変えようと考えたのです。ホイッスラーはレイランドの留守中に独断で改装を開始。ホイッスラーの改装は新聞では絶賛されましたがレイランドは激怒し喧嘩別れとなりました。

 

ホイッスラーは30代中頃からノクターンシリーズの作品に取り組みました。きっかけは南米チリへの旅でした。バルパライソという港町に半年近く滞在し、そこで海辺の光景に心を奪われました。代表作は「ノクターン:青と金色 オールド・バターシー・ブリッジ」です。シリーズの中で最も抽象的な作品が「黒と金色のノクターン:落下する花火」ですが、この絵を見て美術評論家のジョン・ラスキンが激怒。「公衆の面前で絵具つぼの中身をぶちまけるだけで200ギニーを要求するふざけた奴がいるとは考えてもみなかった」と批判。ラスキンが高く評価していたのはラファエル前派。ラスキンにとってホイッスラーの作品は理解しがたいものだったのです。しかし、ホイッスラーも黙っていませんでした。名誉毀損でラスキンを訴え、双方の言い分が法廷で争われることに。結果はホイッスラーが勝訴。長年に渡る模索が認められた瞬間でした。