日本の洋画のパイオニアと言われるのは「鮭」で知られる高橋由一ですが、明治維新の直後に油絵を極めた若き画家がいました。五姓田義松(ごせだよしまつ)です。
五姓田義松はフランス帰りの黒田清輝よりも早くパリへ渡り、最高の権威を持つサロンに日本人として初めて入選。さらに、死の淵にある人間の姿まで描ききりました。
ところが、五姓田義松の名前は忘れ去られていきました。
幼い頃から西洋絵画を学ぶ
西洋では主に光の明暗によって人物の存在感を表してきました。光が当たるのが手前で、影を使って奥行や立体感を出すという手法です。五姓田義松はそれを10代で身につけていました。いち早く絵の英才教育を受けていたからです。
明治維新の13年前、五姓田義松は江戸の町絵師・五姓田芳柳の次男として生まれました。父は10歳になると五姓田義松を江戸から横浜へ通わせました。そこで西洋絵画を学ばせるためでした。
幕末から横浜には外国人が暮らし始めていました。師匠はイギリス人の画家チャールズ・ワーグマン。幼い五姓田義松は、ワーグマンのもとで西洋的なモノのとらえかたを学び取っていきました。五姓田義松は日本の絵画の常識に一切とらわれず、若い力で西洋絵画の道を進んでいったのです。
五姓田義松は、よく道草をくって目の前の景色を観察しながら絵筆を走らせたと言います。見たままに描く手法を風景画を通してつかみとろうとしていました。「横浜西太田ノ村落」は西洋風の風景画を日本のなんでもない景色から生み出した画期的な水彩画です。
日本一に
明治10年、五姓田義松は日本の頂点にのぼりつめました。第一回内国勧業博覧会が開かれ「自画像」を出品。五姓田義松は、高橋由一をおさえて最高賞を受賞しました。このとき22歳。早熟の天才が名実ともに日本一になった瞬間でした。
最新の研究で、膨大なドローイングからデッサンの鬼だったことが明らかになりました。使ったのは当時珍しかった鉛筆。誰に教わるでもなく身近な風俗をかたっぱしから描写していました。
若き五姓田義松にとって母は最も大切な家族でした。五姓田義松が絵に専念できるよう、ありとあらゆる世話をして支えてくれました。そんな母を五姓田義松は何度も絵にしました。「老母図」は母をモデルにした最後の一枚です。最愛の母の亡くなる前日の姿を描いたものです。
パリへ
五姓田義松がパリの地を踏んだのは明治13年、25歳の時でした。日本で頂点に立った五姓田義松には壮大な野心がありました。絵の本場パリで勝負し名を上げることです。当時、日本の画家にとって未知のテーマだったヌードにも挑戦しました。
パリに着て3年、「人形の着物」で日本人として初めて油絵でサロン入選を果たしました。しかし、その後ぱったりと評価されなくなりました。理由は時代の流行でした。
当時パリでは光の表現で革命を起こした印象派の画家たちが台頭し始めていました。しかし、五姓田義松はあくまでも写実を重んじる古典的な絵画での成功を目指していたのです。
やがて借金を繰り返すようになり、絵もほとんど売れず安宿を転々としました。画家として全く認められない日々。6年でパリを離れイギリス、アメリカにも渡りますが五姓田義松が評価されることは二度とありませんでした。
帰国
10年の海外生活から帰国した五姓田義松に父が送った書簡が残っています。
今は報われなくても己の道を見失わずに進めば後々栄えるはずである。決して自暴自棄にならないように。
帰国後は肖像画が多くなりました。生活のために依頼を受けた仕事でした。
画壇では五姓田義松より11歳若い黒田清輝が影響力を強めていました。五姓田義松は日本でも時代遅れの画家になっていったのです。
大正4年、五姓田義松は60歳で世を去りました。
「日曜美術館」
忘れられた天才
明治の洋画家 五姓田義松
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