後水尾天皇と和子 愛の軌跡|歴史秘話ヒストリア

江戸時代はじめ、天皇家に徳川将軍家の姫・和子(まさこ)が嫁入りしました。和子の使命は将来の天皇を産むこと。

しかし、この世紀の政略結婚は平穏無事には進みませんでした。夫の女性関係、愛する子供の死、実家と嫁ぎ先の争い。和子は名門に生まれたがため数々の苦しみに見舞われながらも最後まで夫を支えぬきました。

世紀の政略結婚!プリンセス和子の悲劇

慶長12年(1607年)、徳川幕府2代将軍・徳川秀忠と江の間に末娘の和子(まさこ)が生まれました。誰よりも和子の誕生に満足したのが祖父だった徳川家康です。家康にとって和子は天下統一の切り札だったのです。

和子が生まれたころ、家康は江戸に幕府を開き最大の権力者となってはいたものの、まだ全国の大名を従えるまでには至っていませんでした。特に京都より西の国々には徳川に反感を抱く外様大名がそろっており、反旗を翻す機会をうかがっていました。

そこで家康が目をつけたのが和子です。和子を時の天皇・後水尾天皇に嫁がせ男の子を産ませ、その子が次期天皇につけば徳川家は天皇家と血縁関係になり、その後の天皇は徳川の血を継ぐことになります。家康は天皇家の威光を借りることで大名を従え、徳川家を永遠に天下の支配者にしようと考えたのです。

後水尾天皇

こうして和子が8歳の時、11歳年上の後水尾天皇のもとへ嫁入り、すなわち入内することが決まりました。ところが、和子の婚儀はすぐには実行されませんでした。間の悪いことに入内が決まった慶長19年に豊臣家との戦い「大坂の陣」が勃発。家が戦一色に染まる中、婚礼の準備など進めることは出来なかったのです。

徳川家康

ようやく戦いが終わったかと思うと今度は家康が亡くなってしまい、徳川家は喪に服しました。こうした徳川家の事情により和子の嫁入りはどんどん延期されていきました。そして入内が決定してから4年が経ち、ようやく落ち着いて準備に入ろうとした矢先、思わぬ事実が判明。徳川家がもたもたしている間に後水尾天皇は他の女性と恋に落ち、子供をもうけていたのです。それも皇位継承者となりうる男の子でした。

徳川の意を踏みにじるような後水尾天皇の行為に和子の父で将軍の秀忠は激怒。天皇が信頼する側近たちを様々な言いがかりをつけて処罰し、女性や子供たちも天皇から引き離されたと考えられています。近しい人々を失った後水尾天皇は孤独においやられ、譲位をほのめかし、その知らせは幕府にも届きました。

しかし、天皇が譲位すれば和子に次の天皇を産ませるという徳川の野望は根底から覆ってしまいます。事態を重くみた秀忠は配下の大名・藤堂高虎を都に送り、朝廷の公家たちを相手に「幕府のすることにこれ以上逆らうというのなら帝を島へ流し、その責をおって自分は腹を切る」と言いました。藤堂高虎の恫喝に恐れをなした公家衆は後水尾天皇を説得。結局、譲位は行われず再び和子の入内話が進むことになりました。天皇家と徳川家に険悪な雰囲気が漂う中、動き出した嫁入り話。和子はこの時13歳となっていました。

そして元和6年(1620年)、江戸から京都に向かった和子は後水尾天皇のもとに嫁ぎました。華やかに執り行われた嫁入りの儀式でしたが、その裏で武家と公家双方の不信感は増す一方でした。

牛車に乗って内裏へと入った和子に身分の高い女官が「婚礼の際はお車の物見を開いてまず私どもにお顔をお見せいただくのが慣例となっています」と言いました。そこに現れたのが藤堂高虎。大きな声で「控えられませい。今のお言葉無礼千万」と言いました。そして刀の柄に手をかけ女官を追い払ってしまいました。

公家衆にとってこうした武家の荒々しい行為はあまりにも野蛮に映りました。表向きはつつがなく行われた入内の儀式ですが、和子と後水尾天皇の間には深い溝が横たわり、夫婦の行く末には暗雲がたれこめていました。

夫を陰で支えたいプリンセス和子の覚悟

遠く離れた京の都へ嫁いだ和子は入内した後も宮中に馴染めない日々が続いていました。どうすれば夫と仲良くなれるのか、そして公家や女官たちともうまくやっていけるのか和子は悩みました。

そこで和子が始めたのは宮中の女性たちを自分の味方にすることでした。和子は沢山の美しい着物を惜しげもなく女性たちにプレゼント。身に着けるものを贈るという行為は親しみの情を表します。天皇のお后様からの思わぬ豪華な贈り物に女性たちの心も華やぎ、和らいだことでしょう。

さらに、和子は御所の中で能の会を開き、公家たちをもてなしました。能は武家に伝わる文化。特に徳川家では大切にされてきたものです。武家の伝統に少しでも親しんでもらいたいという気持ちで和子は会を催したのかもしれません。

やがて、宮中の人々は和子の素直で前向きな姿勢に少しずつ心を開いていきました。後水尾天皇もそんな和子に惹かれていくようになりました。

入内から6年が経った寛永3年(1626年)、幕府による大イベントが開かれることになりました。二条城行幸です。徳川の城である二条城に後水尾天皇を招き天皇家と徳川家の親密な関係を世間に知らしめようというものでした。

しかし、幕府は天皇家との親密な関係をアピールする裏で、天皇の行動を制限する様々な掟を定め、天皇から実権を奪っていきました。禁中並公家諸法度では天皇の主な仕事は学問であると規定して、政治への関与を禁じました。

さらに、勅許紫衣法度では寺院における天皇の権力を奪いました。徳の高い僧侶のみが許された紫色の法衣・紫衣を授けるのは古来、天皇の役割でした。しかし、幕府はその授与には事前に幕府の承認が必要だと定め天皇の実権を取り上げたのです。

天皇にとって屈辱的な幕府の仕打ちでしたが、経済力も実権も失った朝廷は幕府に逆らうことも出来ず、ただ言いなりになるしかありませんでした。権力を奪われた天皇に課された唯一の使命は徳川の血を引く男子をもうけることでした。

後水尾天皇と和子は無言の圧力に苦しみ続けていました。しかし、2人の間に出来る子供は女の子が続き、天皇となるべき男の子はなかなか生まれませんでした。その間、和子以外の女性が後水尾天皇の子供をもうけても、その子供たちは全て殺されていたと言われています。

そして入内してから7年、和子にようやく念願の男の子が誕生し子供は高仁親王と名づけられました。2人はやっと徳川家に繋がる男の子の誕生をという重圧から開放されたのです。

しかし2年後、高仁親王が病のため亡くなってしまいました。気力を失った後水尾天皇に対し幕府は権威剥奪の手を緩めることはありませんでした。やがて、追い詰められた天皇は思い切った行動に出ました。

寛永6年11月8日、突然公家に対し内裏に集まるよう命令が出されたのです。そして幕府に何の相談もせず天皇の位を下りると宣言。次の天皇には和子との娘・女一宮を指名。幕府の望み通り、徳川の血を引く人物が天皇となったかに見えました。

しかし、女帝は生涯独身で子供は産めない決まり。徳川と血の繋がりのある者が代々天皇になるという目論見に対する抵抗だったのかもしれません。後水尾天皇譲位の知らせに秀忠は激怒。そして天皇を島流しにするとまで言い出しました。

和子は父・秀忠にあてて筆をとりました。娘からの切なる手紙に秀忠の心は動き「帝のお考えどおりになさればよい」と返事を出しています。こうして後水尾天皇の譲位は無事に幕府に認められました。

ふたりで庭を歩きたい修学院離宮 誕生物語

政治の世界から離れた後水尾院と和子ですが、譲位したとはいえ幕府の監視が緩むことはなく少しの外出さえ自由にならない生活が続きました。そうした中、2人は新たに文化の世界で生きる道を見出します。

後水尾院が力を注いだのは立花。花瓶の中で自然のありさまを表現するもので、現在の生け花にも伝承されています。後水尾院は立花の会を御所で年に数十回も催し、花の世界を公家や一般庶民にまで広げました。

晩年を迎えるころ、2人は幕府の監視の目が光る御所を飛び出し自由な空気を味わえる夫婦の楽園を築くことを夢に見ました。そして修学院離宮の設計にとりかかりました。設計やデザインは全て後水尾院が手がけ、和子は徳川の姫という立場を使って幕府に財政支援を懇願。

そして万治2年(1659年)に修学院離宮は完成しました。修学院離宮には内と外を隔てる柵や塀がなく一般の民衆も立ち入ることが許されていました。ごく普通の人々の日常とともにあることが2人が夢見た夫婦の楽園だったのです。

延宝6年(1678年)、波乱の人生を送りながらも静かな晩年をすごした和子は72歳で亡くなりました。最愛の伴侶となっていた和子の死をいたみ後水尾院は歌を残しています。

かかる時 ぬれぬ袖やは ありそ海の はまの真砂の あめのした人

和子の死後、後水尾院は外出が減りふさぎがちになったと言われています。

そして3ヵ月後、後水尾院は御所を出て修学院離宮に向かいました。一人で離宮を訪ねた後水尾院は和子との日々を思い返していたのでしょうか。

そして和子の死から2年後、後水尾院も亡くなりました。

「歴史秘話ヒストリア」
美しき夫婦の物語
~後水尾天皇と和子 愛の軌跡~

この記事のコメント

  1. 加藤 由雄 より:

    昔から、天皇の後継問題は、たいへんでしたね。平成の今も正に同じ問題があります!それだからこそ天皇の存在感はすごい。日本が世界に誇るべき万世1系な制度です。