春はあけぼの
やうやう白くなりゆく
山ぎは すこしあかりて
春の夜明けの美しさを見事にとらえた「枕草子」の一説です。国語の時間に誰もが習った「枕草子」ですが、その先にはどんなことが書かれているのでしょうか?実は平安女性の日常を綴ったブログのような内容だったのです。
枕草子 トキメキの旅へ!
今から1000年前、きらびやかな宮廷文化が花開いた平安時代。その新しい文化の担い手として活躍していたのは、清少納言など宮中につかえる女性たちでした。清少納言が日々見聞きしたことなどをまとめたエッセイが「枕草子」です。
「枕草子」は300あまりの章から成り立っています。大きく分けると日記のように出来事を記録した部分が3分の1、残りが心の向くままに思いついたこと、素敵だと感じたことなどを書き留めた部分。
「枕草子」は当時の最先端の女性が、何にときめいていたのかを知ることが出来る平安文化のカタログのような作品なのです。
「枕草子」を読むとまず目を引くのがファッションについての記述です。1000年前も今と同じで華やかな服に心を奪われていたのです。
「枕草子」によると、十二単の着こなしの鍵は華やかな上着ではなく、襲(かさね)がよく見える袖口や裾の部分だそう。この色の組み合わせを季節に合わせて選ぶことが平安女性のときめきポイントだったのです。
清少納言はその他にも恋愛や旅行など、沢山の心ときめくものを枕草子の中であげています。中でも食べ物の一押しはかき氷でした。甘いかき氷は当時大変な贅沢品だったため、人々にとって心惹かれるものでした。
清少納言 運命の出会い
華やかな平安文化の最先端に身をおいていた清少納言は、幼い頃から雅な生活をしていたと思いきや、実はそうではありません。
清少納言は山口県防府市で育ったと言われています。ここには、かつて周防の国の役所がありました。約1000年前、清少納言は周防に赴任する父に連れてこられたのです。
都の文化とは遠い地で少女時代を送った清少納言ですが、彼女が生まれた清原家は和歌の名門。清少納言も父から和歌や漢詩の英才教育を受け、文学の素養あふれる女性へと成長しました。
そんな清少納言に人生の転機が訪れたのは28歳の時。その才能を聞きつけ、宮中から宮仕えの誘いが来たのです。仕事は天皇の妃に仕える女房でした。
当時、天皇は複数の妃を持つことが常識で、妃たちは競って様々な才能を持つ女性を女房としてスカウトしていました。魅力的なサロンを作ることで天皇の寵愛を勝ち取ろうとしたのです。当時の女房の多くは10代から宮仕えをするためサロンは華やかなものでした。
悩んだ末、清少納言は遅咲きの宮中デビューを果たしました。しかし、宮仕えは簡単なものではありませんでした。落ちこぼれ女房だった清少納言は、宮中にいても人目につかぬよう引きこもってばかり。「いつになったら人並みに仕事ができる日が来るのだろうか」と弱音を書き残しています。
そんなある日、清少納言が主である定子(ていし)の目にとまる機会が訪れました。
雪が降り積もった日、定子が女房たちに「香炉峰の雪はどうなっているのでしょうね?」と謎かけをしたのです。香炉峰といえば中国の有名な山の名前。はるか海の向こうのことを分かるはずがないと他の女房が怪訝な顔をしていると、清少納言はにっこり笑って縁側に近づき御簾を持ち上げました。すると、定子は「お見事」と微笑んだのです。
これは有名な漢詩をふまえた謎かけでした。「香炉峰の雪はすだれをかかげて看る」という一説が元になっています。清少納言は、この漢詩をふまえ美しい庭の雪が定子に見えるよう機転を利かせたのです。
清少納言が仕えた定子は11歳下の17歳。文学好きで機知に富んだ姫様でした。2人は趣味も一致して意気投合。清少納言は定子のサロンで持ち前の才能を存分に発揮するようになりました。
ある日、定子のサロンに帝がやってきました。すると、定子は女房たちに今すぐ何か歌を詠むようにと命じました。突然のことに同僚の女房たちはなかなか良い歌がおもいつかず、気まずい空気が漂いました。
その場を救ったのが清少納言。清少納言は古今集の歌を引き、三十路間近な自分をユーモラスによみこみつつ帝の若さを歌い上げました。この歌に定子も帝も大満足。サロンはほっと明るくなったと言います。
帝にも才能を認められた清少納言は、定子のサロンを支える名物女房として欠かせない存在になっていきました。
清少納言というセンスの良い女房がいるらしいと、噂は宮中へ広まっていきました。すると、夜毎イケメン貴族たちがお忍びでやってくるように。お相手は名門・藤原家の御曹司をはじめ貴公子ぞろい。
美男子たちと甘い恋を楽しむ毎日が始まりましたが、それは長くは続きませんでした。
「枕草子」涙の誕生秘話
清少納言が宮仕えを始めて3年目、定子は初めての御子を懐妊しました。しかし、定子の父・藤原道隆が病死すると定子の父をライバル視していた藤原道長が次の権力者へ名乗りをあげました。
道長一族はライバルを追い落とそうと様々な陰謀を画策。定子の兄たちは謀反の罪に問われ、都を追放されてしまいました。
さらに、定子の屋敷も原因不明の火災で全焼。身重だった定子は仕方なく仮住まいを転々としました。しかし、用意された屋敷はどれも天皇の妃の住まいとは思えない、みすぼらしいものでした。
没落していく定子を懸命に支えようとする清少納言でしたが、彼女の身にも思わぬ出来事が。清少納言が部屋に入った途端、同僚がみな話しをやめそそくさと立ち去るように。清少納言は定子たちを陥れた藤原道長のスパイだという噂が流れていたのです。清少納言と恋仲になった貴族が道長の側近だったことが理由でした。
これ以上、定子のもとにいては迷惑がかかると清少納言は実家に引きこもるように。清少納言を失って、定子は次第に宮中で孤立していきました。女房たちは将来をみかねて次々と定子のもとを離れ、サロンからはかつての輝きが失われていきました。
それに代わって宮中で一大勢力となったのが、天皇に嫁いだ道長の娘のサロンでした。名門貴族の令嬢、後には紫式部や和泉式部を取り揃え帝の寵愛を受けていきました。
そんなおり、清少納言のもとへ定子から真っ白な紙が届きました。文章が好きな清少納言を元気づけようとする定子の心遣いでした。感激した清少納言は、紙に定子と宮中で過ごした楽しい日々の思い出を書き始めます。つらい毎日を送る定子にこれを読んでもらい、少しでも明るい気持ちになって欲しいという思いで綴られていったのが「枕草子」だったのです。
ほどなくして清少納言の書いたものが、定子のもとへ届けられました。感激した定子は清少納言に返事を用意。それは小さな包み紙で、中には山吹の花びらに「言わで思ふぞ」と書かれていました。定子は自分を必要としていると感じ、清少納言は宮仕えに戻る決意をしました。
宮中に戻った清少納言は各地の寺社を参拝して回るようになりました。参拝の理由は定子の健康と安産祈願だと考えられています。しかし、その祈りもむなしく定子は三度目のお産の直後24歳で亡くなりました。
定子を失った清少納言は、ほどなくして宮中から身を引き、かつて定子のために書き始めた文章を一つの作品として完成させました。それが「枕草子」です。
枕草子は、清少納言が定子と過ごした美しい思い出がつまった宝箱でした。1000年の時を経て読みつがれることになる名作は、たった一人の姫君のために捧げられた作品だったのです。
清少納言が宮中を去ったあと、「枕草子」は平安貴族の愛読書となりました。一方で、作者の清少納言は厳しい批判を浴びました。
「源氏物語」の作者である紫式部は日記に「清少納言は教養をひけらかし」と記しています。定子との機知に富んだ漢詩のやりとりなど、自分の自慢話ばかりを書いていると世の批判を浴びたのです。
しかし、それから200年後の鎌倉時代、清少納言への評価は「清少納言が定子を襲った悲劇やその後の衰えぶりを一切書かず、美しいことだけを書き残したことは主への素晴らしい心遣いだった」と変わっていきました。
悲劇の中でこの世を去った定子を最後まで明るく前向きに支えようとした清少納言を、人々は賞賛したのです。
「歴史秘話ヒストリア」
「春はあけぼの」の秘密~清少納言 悲しき愛の物語~
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