藤真利子(ふじまりこ)さんは1955年、東京・阿佐ヶ谷で生まれました。幼い頃から家庭環境は複雑でした。
父親は直木賞作家・藤原審爾(ふじわらしんじ)さんですが、藤真利子さんは3歳の頃から母と2人だけの生活でした。売れっ子作家の父は自宅には弟子を住まわせ、住み込みでお手伝いさんを何人も雇っていました。そのため、母は作家業の邪魔にならないよう別居生活を選んだのです。
藤真利子さんの家庭は裕福と思いきや支出もかなり多く、母はそんな家計を助けるため小料理店を開くなどして女手一つで藤真利子さんを育てあげました。
やんちゃだった藤真利子さんは、30代になると毎晩のように遊び歩きました。そんな藤真利子さんを母はいつも優しく「おかえり」と迎えてくれたと言います。父が亡くなった後も母と親子二人、海外旅行に行ったり大好きなユーミンのコンサートに行ったり、まるで姉妹のように仲良く2人きりの時間を重ねてきました。
ところが2005年6月、藤真利子さんが帰宅すると母が倒れていました。脳梗塞でした。命はとりとめたものの右半身に麻痺が残り日常生活は困難な状態になってしまいました。さらに後遺症で喋ることができなくなってしまいました。
当時の藤真利子さんは50代に入りドラマの仕事が殺到。家を空けることも多かったため、母をリハビリ施設の充実した病院に入れました。個室に入院させたため費用は月に70万円もかかりました。そのため藤真利子さんは在宅介護を選びました。自宅をバリアフリーに改修し100万円近いお金がかかりました。
ある時、藤真利子さんに女優として大きな仕事がまいこみました。しかし、拘束時間の長い女優の仕事と在宅介護の両立は不可能でした。藤真利子さんは女優を休業しました。
在宅介護から1年、休業したことで収入はストップ。貯金はみるみる減っていきました。そのため、完全休業から1年で女優の仕事を再開しました。生きていくためには決断を覆すしかありませんでした。
仕事で介護できない時間は介護ヘルパーにお願いしようと思ったものの、希望の条件に合うヘルパーがなかなか見つかりませんでした。見つかっても月額最高70万円でした。実は、当時は今以上に介護ヘルパーの人手不足が深刻でした。ヘルパー費用を節約するため藤真利子さんは拘束時間の少ない小さい役を選ぶしかありませんでした。
そんな藤真利子さんは支援費制度に救われました。3年分のスケジュールを書き起こし、この制度を申請。その結果、ヘルパー代金月100時間以上の負担が減ったと言います。どうにかお金の問題を乗り越えヘルパーと協力して介護を続けることができました。
藤真利子さんは母の誕生日やクリスマスパーティー、お祝い事など刺激を与え続けました。またオシャレだった母のためによくマニキュアを塗ってあげたと言います。後悔をしないように11年もの間、女優人生をなげうって精一杯介護を続けました。
そして2016年11月7日、母は亡くなりました。享年92。
しかし、母を亡くして四十九日が経った頃、もっと母のために気を付けて介護をやれたんじゃないかという後悔の気持ちが生まれてきたと言います。このような思いを抱くのは藤真利子さんだけでなく、在宅介護を選択した人に多く見られる悲しい現実だといいます。
そんな藤真利子さんを救うものが発見されました。それは生前の母の動画です。藤真利子さんが留守の時にヘルパーが撮影してくれたものでした。そこには喋れないはずの母が「おかえり まり」と喋っていたのです。介護をしながら女優として働く娘に感謝と愛を込めた言葉でした。
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