大島渚を支えた妻・小山明子の壮絶介護生活&介護うつ|爆報!THEフライデー

2013年1月、映画監督の大島渚(おおしまなぎさ)さんが亡くなりました。

大島渚さんと小山明子(こやまあきこ)さんが出会ったのは1955年。20歳で映画デビューを飾った小山明子さんは清楚な美貌でお嬢様女優として世の男性を魅了しました。

そんな小山明子さんと撮影現場で出会ったのが当時、助監督の大島渚さんでした。小山明子さんに一目惚れして猛アタック。5年間で360通の手紙を送り口説き落としたと言います。そんな大島渚さんのプロポーズの言葉は…

「監督になったら貴女をカンヌへ連れて行く。」

こうして1960年に2人は結婚。小山明子さんは家庭に入り、2人の子宝にも恵まれました。そして「戦場のメリークリスマス」が世界中から大絶賛をあび、カンヌ映画祭に招待されました。結婚から23年で妻との約束を果たしたのです。

公私共に順風満帆だった大島夫妻ですが、1996年に大島渚さんが脳出血で倒れてしまいました。大島渚さんは半身不随となり言語障害も出てしまいました。

この頃から小山明子さんは精神を病んでしまったと言います。息子に連れられた精神科で医師から告げられた診断は重度のうつ病。小山明子さんは精神科の閉鎖病棟へ強制入院させられました。

1ヵ月後、精神科を退院した小山明子さんは自宅に戻りました。大島渚さんの容態も回復し自宅に。しかし、大島渚さんはお風呂や下の世話など24時間介護が必要でした。小山明子さんの体重は15キロも減少。在宅介護によって身も心も限界に達していたのです。そのため、小山明子さんは精神科病棟へ4度も入退院を繰り返しました。

そんな時、小山明子さんに転機が訪れました。それは大島渚さんがリハビリで行っていた歩行訓練。医師から「治りたいという事にとってもハングリーなんでしょうね」と言われ、大島渚さんがもう一度映画を撮るため苦しいリハビリに耐えていたことに気づきました。懸命な夫の姿を見て小山明子さんは「監督・大島渚を絶対に支え続ける」と決意。そして、自分の生活を一新しようと決めました。

美人女優と呼ばれた美貌は見る影もない状態になっていたことに気づき、大島渚さんの前では必ずオシャレをしてリハビリを支え続けました。そして手の空いた時間には水泳や講談、ボイストレーニングに励み、介護に縛られることなく自分の人生を楽しみました。小山明子さんの変化は、リハビリに励む大島渚さんの心も勇気づけました。

大島渚さんが倒れてから3年、復活を果たし映画「御法度」を完成させました。この映画は興行成績10億円の大ヒットとなりました。2人は幸せの絶頂に。

しかし2001年11月、大島渚さんは十二指腸潰瘍穿孔(じゅうにしちょうかいようせんこう)になってしまいました。一命はとりとめたものの、もはや自力では動くことが出来ないほど体が衰弱。余命は数年と言われる状況でした。

そして2013年1月15日に大島渚さんは亡くなりました。小山明子さんは介護をした17年が夫婦として一番濃密な時間を過ごせたと話していました。

「爆報!THEフライデー」

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