今から約1800年前、紀元3世紀の中国大陸は群雄が割拠する戦乱の時代をむかえていました。400年に渡って君臨した漢王朝は黄巾の乱で衰退。魏・呉・蜀の三国が天下を分ける三国時代の幕開けです。
乱世を舞台に活躍したのは、魏の国の礎を築いた曹操、蜀の軍師・諸葛孔明などの英雄たち。近年、中国大陸での発掘などで新しい事実が次々と明らかになりつつあります。
曹操の墓
2009年、中国の考古学界を驚かせる大きな発見がありました。曹操の墓が発見されたのです。墓は一部が盗掘されていましたが、曹操の意外な素顔を物語る副葬品が数多く残されていました。
墓が発見されたのは河南省安陽。魏の国の都・洛陽から300km程北東にあります。曹操墓は安陽の郊外にある西高穴村の小麦畑の一角で発見されました。墓の広さは740平方メートル。約40メートルの長い墓道を地下に下ると遺体がおさめられた墓室があります。墓室は全部で6室あり、後室には墓の主や妃などの棺が、前室には副葬品がおさめられたと考えられています。
見つかった副葬品の数は400を超えます。その中に墓が曹操のものであることを示す決定的な証拠がありました。副葬品を記録した石牌です。副葬品そのものは失われていましたが、石牌からかつて何があったかが分かったのです。石牌には「魏武王常所用大戟」と書かれています。曹操が普段用いていた武器を副葬していたことを示しています。
墓からは頭蓋骨も見つかりました。鑑定の結果、60歳代の男性のものだと分かりました。66歳で亡くなった曹操とほぼ一致しています。
しかし、そこには奇妙な点がありました。頭蓋骨はバラバラで、発見された場所は本来あるべきところではなかったのです。頭蓋骨が発見されたのは墓室の前室。しかし、曹操の遺体は後室にあった棺の中に埋葬されていたはずです。頭蓋骨をよく見ると後頭部と側頭部は残されているものの顔の部分が失われています。その一部は頭蓋骨の傍らに粉々になった状態で発見されました。
曹操の素顔
曹操には長い間、悪役の印象がつきまとってきました。200年程前から人々に親しまれてきた大衆演劇の中で、曹操は助けてくれた恩人の一家を皆殺しにします。こうした演劇などが曹操の極悪非道な悪人としての側面を強調してきたのです。
一方、「正史三国志」には演劇や物語とは大きく異なる評価が記されています。曹操は時代を超越した英傑だというのです。さらに、曹操の墓を少し前の時代の墓と比べると意外な実像が浮かび上がります。
前漢時代の皇帝の兄が葬られた満城漢墓の遺体は、2500枚にも及ぶ玉で覆われ、玉と玉は金の糸で縫い合わされています。豪華な副葬品で墓を飾り立てるのは、漢の貴族の習慣でした。漢王朝は国を安定させるために、目上の人に従順であることを説く儒教を国の教えとしました。親を葬るにあたっても、その墓を豪華に飾る厚葬が奨励されたのです。厚葬は曹操の時代まで続いていたと考えられています。
漢の貴族に比べ、曹操墓の副葬品は極めて質素であることが分かっています。現在400点以上の副葬品が見つかっていますが、陶器などどれをとっても華美なものはありません。「正史三国志」の中に曹操の言葉が記されています。
遺体を包むには平服をもってし、金玉珍宝をおさむることなかれ。
曹操は生前、自らを質素に葬るよう言い残していたのです。
魏という新しい国を築こうとした曹操。400年にわたって安定を維持してきた漢王朝から新しい時代に変わろうとする転換期を生きていました。
さらなる勢力の拡大を目指す曹操は、大軍を長江流域へと進め、呉などの連合軍と対峙。紀元208年、赤壁の戦いです。このとき、曹操に対立する英雄が歴史の表舞台に登場します。名軍師・諸葛孔明です。
諸葛孔明
孔明は藁で覆った船を使って矢を集めるなどの奇策を次々に繰り出し、曹操軍を翻弄しました。孔明はここで曹操に屈辱的な敗北を味あわせたのです。この戦いをきっかけに曹操の勢力はいったん後退。孔明の蜀、曹操の魏などが天下を目指して激しい争いを繰り広げました。
ところが、赤壁の戦いには大きな謎があります。「正史三国志」には曹操の敗戦が記されているものの、孔明の軍略については何も記されていないのです。さらに「正史三国志」には孔明の軍師としての才能を疑う記述まであります。
孔明は臨機応変の軍略は得意でなかった。
諸葛孔明とは一体どんな人物だったのでしょう?
蜀は険しい山々が広がり、三国の中では最も国力の低い国でした。その南にある四川省・雷波にはイ族が暮らしています。イ族は4000年以上昔からこの地に住みついてきたと言われています。
三国時代、孔明が仕えた蜀は大きな困難に直面していました。南方で反乱が起こったのです。そこに王として君臨していたのが孟獲(もうかく)でした。
紀元225年、孔明は孟獲の反乱を鎮圧するため大軍を率いて出陣しました。孔明は圧倒的な力で孟獲の軍を破り、孟獲を捕えました。しかし、生け捕りにした孟獲をすぐに釈放。孟獲は布陣を知ったので次は簡単に勝てると言い放ちました。孔明は再び孟獲を捕えますが、このときも笑って釈放しました。こうして、捕えては釈放することを7度繰り返すと最後に孟獲は屈服したと言います。
孔明はなぜ孟獲を何度も釈放したのでしょうか?「正史三国志」はその理由を記しています。
孟獲を許し、もって南方を服す。心を攻めるを上策とする。
「心を攻める」これこそ孔明の秘策だったのです。この後、孟獲が離反することはありませんでした。これによりインドにまで通じる交易ルートが開かれ、蜀の国は大きな富を獲得したのです。
孔明はその後、蜀の軍を率いて何度も魏に戦いを挑みました。しかし、魏の力は強大で、いずれも決定的な打撃を与えることはできませんでした。
やがて戦いのさなか、孔明は戦場で病に倒れ命を落としました。志半ばで世を去った孔明。やがて蜀は魏によって滅ぼされました。その魏の後をついだ秦によって三国は統一されたのです。
「正史三国志」は孔明の生涯を記した後、その人物像をこう評しています。
諸葛孔明は誠実さをもって公正に政治を行った。蜀の民はみな敬愛した。
三国の中で最も弱小だった蜀の国を支えた孔明。魏の国を後に天下を統一する強国に育て上げた曹操。2人の生き方は、新たな時代を切り開くには何が必要かを問いかけています。
「古代中国 英雄伝説」
曹操と孔明
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