奈良の鹿 ここにシカない奇跡|歴史秘話ヒストリア

神鹿が奈良にやってきた

奈良の鹿の数は約1200頭。これだけの数の野生のシカが暮らす街は世界でも奈良だけです。観光客を見つけてはせんべいをおねだり。しかし、せんべいはほんのおやつ代わりです。主食は自然の植物。芝生の草やどんぐり。植物ならほとんど何でも食べてしまいます。

 

日が暮れると街外れの森の中に移動。野生動物の習性で人目につかない場所で夜を過ごし、一日を終えるのです。でも、どうして奈良のシカは街中で人と一緒に暮らすようになったのでしょうか?

 

 

710年(和銅3年)奈良の地に平城京と呼ばれる大きな都が作られました。都にはその地を守護する神様が欠かせません。そこで貴族たちは神様の中でも特に武勇の誉れ高い神をお招きすることにしました。それが武甕槌命(タケミカヅチノミコト)でした。

 

しかし、武甕槌命が住んでいたのは茨城の鹿島神宮でした。乗り物に選ばれたのが鹿島神宮の森に住んでいた一頭の白い鹿でした。武甕槌命は鹿の背にまたがって奈良へ向かう旅に出ました。その道中にはいくつもの伝説が残っています。

 

三重県の積田神社には、神様と鹿が休憩したという言い伝えがあります。さらに、奈良の夜支布山口神社には鹿の足跡が残っていると言います。神様と鹿はここで最後の休憩をとった後、都に向かったのです。こうして長い旅を経て奈良の地におりたった一頭の白い鹿。この最初の一頭が春日大社の森で子孫を増やしていきました。これが奈良の鹿のルーツだと伝えられています。

 

平安時代になって京都に都が移っても、貴族たちは奈良の鹿をありがたい神様の鹿として敬い続けました。当時の貴族の日記には、こんなエピソードが残されています。

 

「春日大社に参拝に行く途中、目の前に鹿が現れた。すぐに牛車をおり頭を下げた。何とありがたいことだろう。」(中右記より)

「春日大社に参拝するたび、いつも鹿に顔を舐めまわされる方がいた。まこと神のおぼえがめでたい方であった」(春日権現験記より)

奈良ではその後、貴族だけでなく庶民の間にも鹿を敬う信仰が広まっていきました。

 

奈良の鹿は誰のもの?

明治時代になると、文明開化の掛け声と共に奈良の街は様変わりしていきました。鹿を守ってきた奉行所は廃止され、代わりに明治政府から派遣された県令が街をおさめることになりました。

 

県令の四条隆平(しじょうたかとし)は鹿と暮らす奈良の伝統を真っ向から否定。四条は人々の目の前で鹿を射殺。見せしめに鹿をすき焼きにして食べたり、大きな鹿を無理やりつかまえ、馬車をひかせたり。神鹿を敬うなど時代遅れの迷信で近代化のさまたげになると考えた四条は、奈良市内の草原で暮らす鹿を排除して、そこに牛や羊を放牧する政策を打ち出しました。

 

奈良の鹿は一頭残らず捕獲され柵の中に閉じ込められてしまいました。収容された鹿は約700頭。エサはほとんど与えられず飢えで次々と命を落としました。

 

半年後、四条隆平が転勤したため放牧計画は頓挫。鹿は解放されたものの、その数は38頭にまで激減していました。この頃を境に、鹿を神鹿として守ってきた奈良の伝統は急速に廃れていきました。鹿は農作物を食い荒らす害獣と見なされるようになったのです。農家は作物を守るため鹿を罠にかけて捕獲するように。奈良の街から鹿の姿は目に見えて減っていきました。そんな中、鹿を守ろうと立ち上がった人たちがいました。

 

明治24年、街の人々により鹿の保護団体「春日神鹿保護会」が結成されました。中心になったのは丸尾萬治郎(まるおまんじろう)です。丸尾萬治郎は自分の仕事そっちのけで鹿を守るために奔走。向かった先は鹿がとらえられている農家でした。

 

丸尾萬治郎は、捕まえた鹿を放してやってほしいと粘り強く説得して回りました。しぶる農家には仲間とお金を出し合って保証金を出し、鹿を引き取る活動を始めました。さらに、丸尾萬治郎たちは明治に入って途絶えてしまっていた角切りを復活させました。よみがえった角切りに人々は大喜び。奈良の鹿を大切にしてきた長い伝統に人々は再び目を向け始めました。

 

しかし、春日大社が鹿をとらえ街から運び出そうとしていました。かけつけた丸尾萬治郎に春日大社は「鹿が増えすぎて農家が困っている。少しよその神社に送れば数が減ってちょうどいい」と言いました。さらに、春日大社が鹿を若返りの薬の原料として売却するという話が新聞に報じられました。

 

すぐに鹿を守るための市民大会が開かれることになりました。会場となった興福寺には、3000人もの奈良市民がかけつけました。市民大会の後、奈良の鹿は市民と行政、春日大社の三者が協力して守っていくことになりました。

 

奈良の街には長い間かけて生み出されてきた鹿と暮らしていくための知恵や工夫が今も息づいています。奈良公園で行われる鹿寄せは、もともと丸尾萬治郎たちが始めたもので、鹿を一か所に集めて保護するのが目的でした。

 

そして、鹿せんべいも鹿保護のためのものです。鹿せんべいは昔から10枚ずつ専用の証紙で巻くきまりになっています。丸尾萬治郎たちはこの証紙の売り上げが鹿の保護にあてられる仕組みを作りました。

 

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