小林千登勢の壮絶な晩年「多発性骨髄腫&残された山本耕一は今…」|爆報!THEフライデー

TBSテレビの「爆報!THEフライデー(ばくほうザフライデー)」で小林千登勢さんの晩年について放送されました。小林千登勢(こばやしちとせ)さんは1958年にNHK専属女優としてデビュー。80年代にはワイドショーの司会者やクイズ番組のパネラーなどマルチに活躍し、「おっかさん」の愛称で親しまれました。一方、プライベートでは28歳の時にドラマでの共演がきっかけで2歳年上の俳優・山本耕一(やまもとこういち)さんと結婚。一人娘を授かった二人は夫婦で度々テレビに出演。ドラマでも夫婦役を演じるなど芸能界一のおしどり夫婦と憧れられました。しかし2003年11月26日、小林千登勢さんが亡くなりました。

 

38年連れ添った妻を亡くした山本耕一さんは、多くを語らず口を閉ざしてきました。しかし今回、11年の沈黙を破り知られざる妻との闘病生活を初激白していました。

 

1997年、当時60歳ながら仕事で多忙を極めていた小林千登勢さんはちょっとした疲労もあり病院で血液検査を受けました。すると骨が溶ける病・多発性骨髄腫(たはつせいこつずいしゅ)にかかっていることが発覚。いわゆる血液のがんです。多発性骨髄腫は脊髄や骨盤など骨髄の中の細胞ががん細胞化することで起こります。がん化した形成細胞は骨髄のいたるところで増え腫瘍の塊を作ります。その際がん細胞が骨を破壊しながら増え続けるために強烈な骨の痛みを伴うという恐ろしい病です。また感染症や肺炎、意識障害など多くの合併症を引き起こすことから死に至る可能性が極めて高いと言われています。そのため、がんの中でも最も完治させるのが難しいと言われ発症年齢は60代以降が多く原因は不明です。そして山本耕一さんは医師から妻が余命5年と伝えられました。山本耕一さんは小林千登勢さんに血液のがんであることだけを伝え余命5年であることは隠しました。

 

多発性骨髄腫の宣告から2ヵ月後、貧血や倦怠感が頻繁に起こるようになりましたが、小林千登勢さんは病気であることを公表せずテレビに出続けました。医師は小林千登勢さんに抗がん剤を勧めましたが、女優として生きるために拒否。別の投薬での治療を続けました。しかし病気は徐々に進行していきました。

 

多発性骨髄腫の宣告から5年8ヶ月、腰に強烈な痛みを感じ自分で靴も履けなくなり、杖なしで歩くことも困難に。さらに車のブレーキのショックだけで骨折。病が進行すると日常の動作でも加重により骨が圧迫され骨折してしまうほど骨が脆くなってしまうのです。それでも小林千登勢さんはカメラの前で本当の病名は明かさず、ぎっくり腰と言い張り決して仕事を休もうとはしませんでした。

 

多発性骨髄腫の宣告から5年11ヶ月、急激に病は悪化していきました。胸水がたまり肺を圧迫し呼吸困難になり、自分一人の力で排泄が出来ない状態に。もはや満身創痍で体はボロボロでした。それでもつらいそぶりを見せず死の2週間前までテレビや講演活動を引き受けていた小林千登勢さんは2003年11月26日に亡くなりました。

 

妻の死後、立ち直れないほどのショックを受けた山本耕一さんは体重が10kgも激減。睡眠導入剤が手放せなくなったと言います。生きる気力を失いもぬけの殻になった山本耕一さんは引きこもりぎみに。その間なんと10年。しかし、最近山本耕一さんはあることがきっかけでようやく前を向けるようになったといいます。それが生前の小林千登勢さんが映っているホームビデオです。妻が亡くなって以来なかなか観ることができなかったそうですが、久しぶりに観たのだと言います。そこには末期がんにおかされながらも笑顔を絶やさない妻の姿がありました。「つらい時こそ笑って」と山本耕一さんにエールを送っているように感じられたそうです。夫婦寄り添って38年、常にその笑顔に支えられ助けられてきました。塞ぎがちだった山本耕一さんはまたしてもその笑顔に救われました。そして現在では悲しみを共に乗り越えるため娘の麻利央さん家族が同じマンションに住み身の回りの世話をしてくれています。


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