フジタ(F)・スケールとは竜巻の強さを風速と被害状況から分類する単位です。地震の震度にあたるこの世界的基準を考案したのが日本人気象学者・藤田哲也(ふじたてつや)でした。
航空機事故の謎に挑む
1975年12月、藤田哲也はある航空機事故の謎に挑もうとしていました。それは半年前の6月24日の夕方に起こりました。イースタン航空66便が午後4時1分、滑走路に向けて最終アプローチに入り着陸に失敗して墜落したのです。乗員・乗客115人が死亡しました。
墜落の原因は謎に包まれていました。イースタン66便の事故調査報告書には、墜落直前の不可解な無線通信が残されています。墜落事故の5分前に着陸した便は管制塔にある異変を訴えていました。
滑走路を変え北西方向に着陸することを強く勧めます。進入経路の地上付近にウインドシアー(風の急変)があります。
(161便 機長)
しかし、その時空港で観測されていた風はごくわずかでした。管制官は着陸をやり直していた別の便に「着陸をやり直したのは風のせいか」と尋ねました。その便はその後無事に着陸するも「機を右下に引っ張る強烈なウインドシアーに遭遇」と報告していました。
この無線のやり取りを直後に墜落するイースタン航空66便も聞いていました。しかし…
「あんなことを言うのはばかげてないか?」(66便 機長)
「着陸をやり直した言い訳なんですかね?」(66便 副機長)
この会話の直後、イースタン航空66便は風の急変に巻き込まれ墜落しました。
当時は、誰も謎の風の正体が分かりませんでした。
藤田哲也は晩年になるまで自身の過去について多くを語ることはありませんでした。
1945年8月20日、藤田哲也は長崎にいました。8月9日に原子爆弾が投下され、わずか10日余り。
焼け残った立ち木の下からグリース状の液体が流れ出し、その原点には息絶えた人が横たわっていた(中略)一体ごとに合掌をして冥福を祈り下山した。
(藤田哲也の回顧録より)
日本とアメリカ、2つの国で2つの人生を歩んだ藤田哲也。
70歳で退官するさいに記した回顧録「The Mystery of servere Storms(強力な嵐の神秘)」にはこんな一文があります。
私の人生は幸運と書かれた石の上を歩いているようなものだった
32歳の時、嵐の神秘に導かれるように藤田哲也はアメリカへ。そのきっかけはゴミ箱の中にありました。
独学で始めた気象学 アメリカへ
戦後、藤田哲也は背振山の山頂の観測所に足しげく通っていました。
雷雲に下降気流が存在することを発見をし論文を発表しましたが、日本の気象界で注目されることはありませんでした。当時、すでに気象庁によって雷雲の下降気流の存在は確認されていたからです。
当時、藤田哲也は明治専門学校の物理学の助教授で、気象学は独学ではじめたものでした。
ある日、観測所の隣にあった米軍レーダー基地のゴミ箱にシカゴ大学の論文が捨てられていました。
その論文を目にして藤田哲也は驚きました。自分の発見と同じことが書いてあったからです。
ゴミ箱にあった論文はシカゴ大学のホーレス・バイヤース教授が書いたものでした。日本の無名研究者が送ってきた論文にバイヤースは強い衝撃を受けました。雷雲の下降気流の発見は、軍の支援と莫大な予算を投じて成し遂げられたものだったからです。バイヤース教授から藤田哲也のもとに手紙が届きました。
1953年8月、独学で始めた気象研究が思わぬ縁を生みアメリカへわたりました。
竜巻研究
渡米して4年が過ぎた頃、バイヤース教授が新たな研究テーマを持ち掛けてきました。それは竜巻。竜巻が発生する地域は人口もまばら。情報も集まらず被害の実態をつかむことすら困難でした。
そこで藤田哲也は誰もやっていない方法を試しました。メディアを通じて竜巻の目撃情報を集めたのです。
200枚近くの写真を測量によって分析。町を襲った竜巻の全貌を明らかにしました。これにより藤田哲也の名は一躍脚光を浴びることになりました。
研究に必要な装置は自らデザインし作らせました。多彩な顔を持ち気象学の常識を次々と覆す異色の日本人気象学者。その原点は故郷にありました。
藤田哲也の原点
藤田哲也は1920年10月23日、福岡県北九州市小倉南区で生まれました。父親は中学生の時に亡くなり、幼い弟と妹を支えなければなりませんでした。そんな時、母親も亡くなりました。
大学へ進むことを諦めていましたが、中学の校長が明治専門学校(現 九州工業大学)に藤田哲也の進学を願い出てくれました。入った学科は気象学とは無縁の機械科。しかし、その時身に着けた設計の知識が後に竜巻発生装置などの開発へと結びつくこととなりました。
入学したものの生活は苦しいままでした。家計を支えるため学業のかたわら地質学の教授の研究助手につきました。20歳の時には地質調査をもとに自ら立体鳥瞰図を完成させました。藤田哲也の原点は、苦しい家計を支えながら培われたものだったのです。
そして、教授の地質調査に同行した藤田哲也はその姿に感銘を受けました。
驚いたのは教授は地図を見ながら歩くのではなく、地図の誤りを訂正しながら地質調査をしていることだった。
(藤田哲也の回顧録より)
なんでも鵜呑みにせず疑い、徹底的な観察を通して物事の本質に迫る。日本で学んだ研究姿勢をアメリカへ渡っても貫いていました。
航空機事故の謎と向き合う
そして1975年12月、藤田哲也は航空機事故の謎と向き合いました。なぜイースタン66便は墜落したのか。当日の気象データ、無線通信を一つ一つ丹念に分析しました。
1年前のある光景を思い出しました。1974年4月、当時史上最大と言われた竜巻が発生。被害状況を上空から撮影した写真の中に妙なものが含まれていました。それは木が何本も吹き倒され、しかも風が回転した形跡がないもの。
原爆投下から10日余り、藤田哲也は母校が派遣した長崎への原爆調査に参加しました。
到着してみると駅は消えて(中略)「ものすごい」が我々の第一声だった。
(藤田の回顧録より)
そして被害状況を1枚の地図にまとめました。3日間、焼け野原を歩き、現場に残るわずかな痕跡から原爆の衝撃派の実態を明らかにしたのです。
思い出したのは私が1945年に長崎の原爆被害を調査した時に見た放射状に倒れていた無数の木。
(藤田の回顧録より)
雷雲から吹き下ろし爆風のように広がる衝撃派。そんな気象現象が局地的に発生したのではないかと藤田哲也は考えました。そして、これを「ダウンバースト」と名付けました。
藤田哲也の仮説
- 向かい風にあい機体が持ち上げられる
- 強烈な下降気流が機体を地面へと押さえつける
- 直後、追い風が揚力を奪い急降下
藤田哲也はイースタン航空66便の墜落原因を「ダウンバースト」によるものと発表。しかし、賛同する気象学者はほとんどいませんでした。
私は常に論争の中に身を置いている。慎重な研究者なら立証に10年を費やすだろう。でも、この飛行機事故の件は緊急を要した。緊急だったこと、1945年の原爆調査などの経験から私は勇気をもって「原因はダウンバースト」と言い切った。「ダウンバースト」は大きな脅威です。でも、一番怖いのは「小さなダウンバースト」それを私は「マイクロバースト」と呼んでいる。
(藤田哲也)
「ダウンバースト」と「マイクロバースト」の違いは大きさだけではありません。マイクロバーストは小型で飛行機にとっては一層危険。課題はマイクロバーストの存在を立証できるかでした。
マイクロバーストの存在を立証
マイクロバーストの存在を証明するため、藤田哲也は大規模な観測計画を実行することにしました。アメリカ国立大気研究所のロバート・セラフィン博士は、最新の観測レーダーを提供。そして1978年5月19日、イリノイ州シカゴ郊外にドップラーレーダーを設置し「NIMROD観測計画」が開始されました。
観測が始まって11日目の夜、すぐ近くに雷雲が現れました。すると突如、秒速31mという台風並みの突風が出現。世界で初めてマイクロバーストを観測した瞬間でした。
しかし、これで論争に終止符が打たれたわけではありませんでした。レーダーの観測網が広すぎて現象の詳細まで捉えられなかったからです。
4年後、コロラド州デンバーで再び大規模な観測が行われました。「JAWS観測計画」でした。今度はレーダーの観測網を狭くして詳細な観測データを得ることにしました。しかし、大きな嵐が来ているのに1台のレーダーが故障。すると、藤田哲也はレーダーを垂直方向にすることを提案。藤田哲也のひらめきがついに決定的な証拠を引き寄せました。
その時レーダーがとらえたのはマイクロバーストが上空から吹き下ろす瞬間でした。この調査で観測されたマイクロバーストの数は200近くにものぼりました。
「マイクロバースト」が頻繁に発生している事実は多くの研究者に衝撃を与えた。
(JAWS観測計画に参加したリタ・ロバーツ)
そんな中、1982年7月9日にパンアメリカン航空759便が離陸直後に墜落。原因はマイクロバーストによるものと結論づけられました。さらに1985年8月2日、デルタ航空191便がマイクロバーストにより墜落。135人が死亡しました。突然発生するマイクロバーストの恐ろしさを藤田哲也は訴え続けました。
パイロットたちは藤田哲也の説を支持し、早急な対策を求めました。アメリカ政府の航空機事故調査委員会も危機感をつのらせていました。航空業界はパイロットへの訓練を強化。航空機には風の急変を知らせる警報装置が搭載されました。
またマイクロバーストの発生を数分前に探知するシステム「ターミナル・ドップラーレーダーシステム」が開発され、世界中の主要な空港に導入されました。
1989年、藤田哲也は気象界のノーベル賞とよばれるフランス国立航空宇宙アカデミー金メダルを受賞しました。
藤田哲也は70歳で定年をむかえた後もシカゴ大学名誉教授に就任し、研究を続けました。
晩年の藤田哲也
藤田哲也は74歳の時に糖尿病を発症して以来、ベッドからほとんど起きられなくなってしまいました。
藤田哲也は自身の病状を丹念に記録しアビー博士へ送りました。
1998年11月19日、藤田哲也はシカゴの自宅で亡くなりました。
私の人生は気象学の世界にあった。厳しい自然現象を目の当たりにしてきた。自然はいつもやりたい放題で時に不可思議なことをする。私はどんな時も原爆調査のことを忘れることはない。
私は確証を得る前に人にものを言う。まぁ否定されるのは覚悟の上ですが。私は多くの論争を巻き起こしたけど、少なくとも一つ二つは解決できましたね。私の命が尽きる前に。ともあれ、より多くの考えを発表し論争を生み出したい。見極めるのは君たちだ。
特に若い人は恥ずかしがらず言いたいことを言うべきです。半分は間違っているかもしれない。だが、残りの半分は正しいかもしれない。もし、50%が正しければ価値ある人生を送ったということです。幸運を祈ります。
(藤田哲也)
「ブレイブ 勇敢なる者」
Mr.トルネード ~気象学で世界を救った男~
この記事のコメント
録画してあったのを夏休みに見ました、
日本人として誇れる人なのに還暦すぎた私も全く知りませんでした。
藤田博士の様な偉人がお膝元の日本ではあまりにも知名度が低すぎます。
日本の商業や政治に貢献した人は頻繁にドラマや関連番組で取り上げられますが
世界的に貢献した人では話題が国外の為か、総じて冷めた扱いに思われます。
国もNHK、各マスコミもっと広く伝えるべきです、ヨーロッパやアメリカでは世界的な
自国の偉人を知らない事自体が恥、教養不足等と、とらえられます。
大河、朝ドラ等で広く国民に伝えるべきと思いますが如何でしょうか?