福岡県警は2015年、指定暴力団を離脱支援により離脱した県内の組員は127人で、前年の65人からほぼ倍増し過去最多だったと発表しました。暴力団対策法や暴力団排除条例により暴力団が今までのように稼げなくなったのだと言います。
そうした煽りを受けて足を洗う組員たち、いわゆる「ヤメ暴」が続出しています。
辞めたくても辞められない実態
「新宿駆け込み餃子」は、出所者やヤメ暴たちを積極的に雇用して社会復帰のための支援を行っています。
ここに、ほんの1ヶ月前まで暴力団員だった男性がいます。Aさん(28歳)が暴力団を辞めて新宿駆け込み餃子で働けるようになるまでには幾多の苦難がありました。
Aさんが暴力団に入ったきっかけは、20歳の時に田舎から上京してきた当日に傷害事件を起こし留置所に入り、そこで知り合った暴力団関係者に誘われたことでした。仕事は覚せい剤の売買で、月収は300万円だったと言います。金回りも良くノリノリだったAさん、自分も覚せい剤におぼれ3年10ヶ月の実刑判決を受けることになりました。
刑務所に入って初めて家族や周囲に迷惑をかけていたことに気づき、刑務所の中で暴力団を離脱するため「離脱届」を出すことを決意。しかし警察から「偽装離脱の疑いあり」とされ支援してもらうことは出来ませんでした。
離脱の意思を本気と認めてもらえなかったAさんは、職権消除もされてしまいました。
主に住民税の未納や家賃の滞納などをきっかけに役所の職員の実態調査により執り行われ、これによってAさんは知らぬ間に住所不定になってしまったのです。
こうしてAさんは暴力団を辞められないまま刑期を満了し出所。これでようやく暴力団を辞められると意気込んで警察に向かうと、離脱届を出すために住所と仕事が必要と言われてしまいました。しかし、暴力団を辞めないと部屋も借りられないし仕事も見つけられません。
出所後1ヶ月程でお金がつきたAさんは新宿歌舞伎町にある公益社団法人「日本駆け込み寺」へ。代表をつとめるのは在日韓国人として生まれ、生き抜くために様々な職業を経験し裏社会の事情にも正通する玄秀盛(げんひでもり)さんです。
Aさんは日本駆け込み寺での寮生活を経て、玄さんの支援のもと一人暮らしをはじめました。住所を得たことで職権消除で削除された住民票を取得し、玄さんが運営に関わり出所者の受け入れも行っている「新宿駆け込み餃子」でアルバイトも始められました。
そして2016年1月、暴力団を離脱することができました。嬉しくて今では口座作りが趣味になっていると言います。
軽い気持ちで入ってしまった暴力団ですが、そこから離脱するには多くの困難が待ち受けているのです。
ヤメ暴を救い続けるヤメ暴
香川県に住むBさん(41歳)は、18歳で暴力団に入り25歳で傷害などの罪で刑務所へ。2度の服役の後36歳で暴力団を離脱しました。Bさんは中学の先輩に誘われて暴力団へ。覚せい剤もやっていたと言います。その後21歳で組を逃げ出しとび職人に、23歳で結婚し子供もできました。
しかし24歳の時にたまたま知り合った組関係者の誘いにのり再び暴力団員に。傷害などの罪で逮捕され妻とも離婚しました。暴力団に戻ったことで全てを失ったのです。
足を洗うことを決めたBさんに支援の手を差し伸べたのがNPO法人 日本青少年更生社代表理事の西山俊一さんです。日本青少年更生社は服役を終えた出所者らの社会復帰と自立支援を行っています。現在ここに身を寄せているのは27~71歳までの14人。そのうちヤメ暴は10人います。
基本は寮生活です。朝は6時に起床し、朝食後にミーティング。全員で清掃を済ませたあと建設や土木作業現場に向かいます。仕事で得られる給料は平均月22万円。寮費は食事や光熱費込みで月7万円です。
実は西山俊一さんは関西指定暴力団の二次団体に属する組の元組長です。35年前、内部抗争で組を解散させたヤメ暴だったのです。西山さんのもとには毎月10通以上、全国のヤメ暴希望者から手紙が届きます。Bさんも西山さんに手紙を送った一人です。しかし、全てがうまくいっているわけではありません。
多くの場合、暴力団離脱者は裸一貫で来るため寮での受け入れとなりますが現在空き部屋にゆとりはありません。急ピッチで施設の増設を進めていますが追いついていないのが現状です。
さらに、問題は更生の割合。年間で100通以上の手紙を受け取りますが、受け入れにいたるのは3~4人程度です。さらに更生の過程で挫折してやめてしまう者もいると言います。
暴対法や排除条例により今後も増えていくとみられるヤメ暴ですが、ヤメ暴を受け入れる仕組みはまだ十分ではありません。再起の道は多難です。
「ビートたけしのTVタックル」
ヤメ暴たちの第二の人生
この記事のコメント
振り込め詐欺に使われる口座は、
こうやって作られるのですね。