太平洋戦争で、日米双方が敵に対する憎しみを煽る互いの人間性を否定するプロパガンダを繰り返しました。日本は国民全員が国のために命を捧げるよう鼓舞。一方、アメリカも日本人に対する敵対心を植えつけていきました。憎しみはどのように生み出されエスカレートしていったのでしょうか?
1941年12月、日本による真珠湾攻撃で太平洋戦争が始まりました。この年、対日戦の主力を担う海兵隊に、戦争を記録する映像部が初めて設立されました。その創設メンバーの一人が、ノーマン・ハッチ氏です。ハッチ氏らには重要な任務が与えられていました。戦場の最前線をつぶさに記録し、国民の戦意向上につなげることです。
当初、破竹の勢いで勢力圏を拡大した日本ですが、ミッドウェー海戦での大敗を機に戦局が大きく転換しました。戦いの中心は、太平洋の島々へと移っていきました。
1943年11月、アメリカ軍は当時日本が守備する島の中で最も東に位置するタラワに迫りました。タラワは、海兵隊が上陸から地上戦までを最前線で撮影した初めての戦場となりました。3日間の戦闘で、日米合わせて約7800人が死傷。この映像をアメリカ政府は戦費調達のプロパガンダに利用しました。
その中心となったのが、財務省のモーゲンソウ長官です。この時アメリカは、ヨーロッパと太平洋の2つの戦線を戦うために790億ドルに及ぶ戦費を必要としていました。これは開戦前の国家予算の6倍に相当する莫大な額です。
モーゲンソウ長官は、戦時国債を大々的に売り出しました。「It’s Everybody War(私たちの戦争)」は、タラワの戦いの前に財務省が戦時国債を売るために利用した映画ですが、国債は思うように売れませんでした。当時の映画は、ドラマ仕立ての現実味のないものだったからです。国民の多くにとって太平洋での戦争はまだアメリカ本国から遠く離れた出来事でした。
開戦から約2年後のアメリカの世論調査では、戦争を深刻に考えていないとする国民が54%もいました。そこで財務省は、タラワでの実践の映像を見せることで国民の危機感を煽り、国債の販売につなげようとしたのです。映画はハリウッドで活躍するナレーターや編集、音響効果など一流のスタッフによって制作されました。この映像は、戦争に関心を持っていなかった国民と戦場との距離を一気に近づけました。
財務省はこの映画を戦費調達のため、全米の映画館や学校などで大々的に上映。撮影したハッチ氏も戦時国債の販売キャンペーンに一役買いました。このキャンペーンでは、1ヶ月で167億ドルの国債を販売。これは第二次世界大戦における日本の戦費の約3割に当たる額でした。タラワの映画はアカデミー賞を受賞しました。
劣勢が続く日本も、プロパガンダで対抗しました。1943年10月、兵力不足を補うため学徒出陣が始まりました。戦地へ赴く学生は約10万人。若者たちの勇壮な姿を強調し、国民の戦意を高揚させました。全ての国民に対し戦争にむけて立ち上がるよう鼓舞。アメリカは血も涙もない鬼であると繰り返し宣伝しました。
1944年6月、日本の戦況はさらに悪化。絶対国防圏の内側に位置するサイパンにアメリカ軍が侵攻しました。サイパンの戦いを機に、アメリカの日本人に対する認識が大きく変わっていきました。
島には日本の民間人2万2000人が暮らしていました。当時、人々の間では捕虜になれば男性は八つ裂きにされ、女性は辱めを受けると信じられていました。海兵隊が撮影したフィルムには、多くの民間人が自ら命を絶つ様子が記録されています。サイパン島における民間人の死をめぐって、日米双方はプロパガンダを加速。日本では民間人の自決をたたえました。
一方、アメリカは撮影した映像を日本人が異常だというイメージに繋げていきました。しかし、映画に使われることなく隠されてきたフィルムもあります。女性や子供の遺体など、日本人への同情心を呼び起こす映像は、アメリカ国民の目に触れることはありませんでした。
サイパン陥落後、アメリカは日本本土への空襲のため新型爆撃機B29の生産を急ピッチで進めていきました。生産力を高めるため、アメリカ政府は軍需工場向けのプロパガンダ映画も制作していました。日本人を人間と見なさず、哀れみは無用という考えを国民に広く浸透させていったのです。
1944年9月、アメリカのプロパガンダ政策を変えた戦いが生まれます。ペリリュー島の戦いを描いた映画「Fury in the Pacific(太平洋の怒り)」では、アメリカ軍が日本軍を圧倒する場面を強調しています。しかし、勇猛果敢な映画の裏で疲弊しきった兵士たちの姿も映っていました。この戦いで、アメリカ軍は約1万人の死傷者を出していましたが、こうした映像は全て封印されていました。ペリリュー島の戦いを機に、軍は不都合な映像を検閲し厳しく管理するようになっていきました。
1945年2月、アメリカはついに戦前からの日本の領土である硫黄島に迫りました。硫黄島の戦いの直前、連合国の首脳が集まり、戦後処理の枠組みが話し合われていました。その一方で、アメリカ政府は終戦は近いと国民の間に楽観ムードが広がることを危惧していました。
硫黄島では、これまでで最大の100人からなる撮影部隊をハッチ氏が率いることになりました。上陸5日目、アメリカ軍は星条旗を掲げました。戦闘が続く中、撮影できたのは写真のみで旗も小さなものでした。それを見た長官に、より大きな旗を改めて掲げなおす命令が出されました。こうして、実際にすり鉢山を制圧したのとは別の兵士たちが集められ、星条旗を改めて掲げました。
2日後、アメリカ各地の新聞が一斉にこの姿を掲載。続いて映画「To the Shores of Iwo Jima(硫黄島を目指せ)」も公開されました。映像は国民を熱狂させ、戦争を継続していく原動力となりました。硫黄島の映像で国債の販売額は過去最高を記録。こうして、アメリカは全戦費の6割にあたる額を国債で調達したのです。
アメリカ本土で人々が熱狂していたころ、硫黄島では血で血を洗う戦闘が続いていました。死傷者は日に日に増え続け、2万人を超える事態になっていました。
アメリカ軍の日本本土侵攻作戦の計画書にはこう書かれています。
日本人は兵士だけでなく民間人も狂信的で敵意に満ちている。
この前提のもと、民間人を巻き込んだ攻撃が始まりました。沖縄戦では海から60万発を超える砲弾を発射し民間人10万人が犠牲となりました。さらに、国内200都市への空襲が繰り返されました。いわゆる無差別攻撃によって、女性や子供も含む約20万人が命を落としました。
その最中にアメリカで作られていたプロパガンダ映画「Know Your Enemy-Japan(敵を知れ)」は、占領地などで入手した日本の映像で作られています。日本では兵器の生産を一般市民が担っているとし、都市への爆撃の正当性を訴えました。日用品を作る民間人と兵器の映像を組み合わせ、イメージを操作しました。
そして1945年8月、広島と長崎に相次いで原爆を投下。アメリカ軍が映画「敵を知れ」を公開したのは、長崎が焦土と化した8月9日のことでした。
原爆投下から1ヶ月後、ハッチ氏は撮影舞台を率いて長崎に入りました。想像を超えた原爆の被害、被爆者にカメラを向けることはできなかったと言います。
「NHKスペシャル」
憎しみはこうして激化した~戦争とプロパガンダ~
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