狂気の戦場ペリリュー|NHKスペシャル

NHK総合テレビの「NHKスペシャル」で狂気の戦場ペリリュー~忘れられた島の記録~が放送されました。アメリカ・バージニア州にある海兵隊のクアンティコ基地は情報戦略の拠点です。その基地の奥深くにある地下倉庫にはアメリカ史上最悪の犠牲を払ったある戦いの記録が70年もの間眠っていました。太平洋戦争の激戦地ペリリュー島の戦いを記録した113ものフィルムです。そこには初めて実践で導入されたアメリカ軍最新鋭の殺戮兵器、日本兵の狙撃に倒れていくアメリカ兵たち、戦闘意欲を失った日本兵への容赦ない攻撃、過酷な戦場に耐え切れず錯乱状態に陥った兵士の姿が映されています。撮影したのは海兵隊の18人のカメラマンたち。勇猛果敢な兵士の姿を撮影しプロパガンダ映画を作るために送り込まれていました。ただ一人生き残ったカメラマンのグラント・ウルフキルさん(91歳)は「生き残れるかどうかは運だけでした。あの戦場のことは家族にさえ話せません。狂気が狂気を呼ぶ地獄の戦場、それがペリリューでした」と語っています。ペリリュー島は珊瑚礁に囲まれた周囲26kmの小さな島です。70年前、この島をめぐって日米が血で血を洗う死闘を繰り広げました。アメリカ海兵隊がこの戦場で記録した死傷率は歴史上最悪となりました。約1万人の日本兵のうち最後まで戦って生き残ったのはわずか34人。あまりの犠牲の多さと過酷さからその戦いはほとんど語られずにきました。ペリリュー島で一体何が起きていたのか?日米の兵士は何を見たのでしょうか?

 

日本の戦況が悪化していた1944年4月、ペリリュー島の防衛のため派遣されたのが中川州男(なかがわくにお)大佐率いる陸軍歩兵第2連隊。当時、満州に駐留していた関東軍の中でも最強の部隊と言われていました。この年、日本は絶対国防圏内のニューギニアの島々やサイパンなどをアメリカ軍に次々と奪われていました。一方アメリカ軍は最大の目標を南方戦線における日本の拠点フィリピン・レイテ島に定めていました。レイテ島攻略を有利に進めるためアメリカ軍はペリリュー島の飛行場に戦略的価値を見出していました。ここからなら直接レイテ島まで攻撃機を飛ばすことが可能だからです。これを察知した日本軍は関東軍の精鋭を島の防衛の主力として送り込んだのです。1994年9月、アメリカ軍がペリリュー島の攻略に向かいました。中心となっていたのは約1万7000人の第1海兵師団の将兵たち。海兵隊きっての精鋭部隊でした。師団長のウィリアム・ルパータス少将は「3日もあればペリリュー島を制圧できる」と豪語していました。第1海兵師団のカメラマンは海兵隊の活躍を記録するよう軍から特命を受けていました。

 

1944年9月15日、アメリカ軍の上陸作戦が始まりました。目指したのは飛行場に近い西側の海岸。日米の精鋭部隊同士の戦いが始まったのです。真っ先に上陸したのは師団の中でも最強とされる第1海兵連隊の将兵3000人。日本軍の攻撃で多数の上陸艇が破壊されました。島に上陸したアメリカ兵たちはバンザイ突撃と呼ぶ日本軍の攻撃に備えました。バンザイ突撃とは銃剣や軍刀を手に部隊ごと敵陣に切り込む日本軍の戦法です。これまで装備に勝るアメリカ軍は圧倒的な火力で制圧してきたため、ペリリューでもこれを撃破すれば3日間で戦いを終わらせることが出来ると考えていたのです。しかし、待てども待てどもバンザイ突撃はありませんでした。なぜバンザイ突撃はなかったのでしょうか?実はこの1ヶ月前、日本軍は戦術の大転換を行っていました。サイパンの玉砕を受け大本営が島嶼防衛に関し、いわゆるバンザイ突撃を禁止し戦いを長引かせることで多くの損害を与えるという戦術に切り替えたのです。その最初の戦いの場がペリリュー島でした。

 

中川守備隊長は大本営の指示を受け持久戦の準備を進めていました。珊瑚で出来た硬い石灰岩を掘り進め複雑に入り組んだトンネル陣地を構築していたのです。一度に1000人以上が立てこもれるものもありました。トンネル陣地は飛行場北部の岩山を中心に500ヶ所以上作られ、島の中央部は頑丈な軍事要塞と化していました。上陸から8時間後、アメリカ軍は最大の目的であった飛行場の制圧に取り掛かります。これにより飛行場防衛の要だった日本軍の戦車は初日で壊滅しました。飛行場を制圧するため前進を続けるアメリカ兵たちは、日本軍の岩山にある陣地からの攻撃に晒されました。上陸して3日目、アメリカ軍は飛行場付近の日本軍陣地を制圧。米などを保管していた備蓄倉庫もアメリカ軍の手に落ちました。3日間の戦いで日本軍の死者は少なくとも2400人。アメリカ軍もすでに2000人を超える死傷者を出していました。この時、ルパータス少将のもとには陸軍から援軍を得るべきだという意見が上がっていました。しかし「あと2日もあれば我々だけで制圧できる」と支援を断りました。陸軍をライバル視していたルパータス少将は海兵隊単独での勝利にこだわったのです。援軍を断った海兵隊は日本軍がトンネル陣地をはりめぐらした岩山での戦闘に引き込まれていきました。火力に劣る日本軍は接近戦以外に勝機はないと考えていました。

 

トンネル陣地をいかした日本軍のゲリラ戦で負傷者はさらに増え続けていきました。特にアメリカ側が恐れていたのはトンネルに潜む日本兵による狙撃です。いつ、どこから来るか分からない攻撃にアメリカ軍は常に緊張を強いられていました。逃げ場もない小さな島で入り乱れる接近戦により、もはやどこか前線になっているのかも分からなくなっていました。この頃になると映像は遺体ばかりが目立つように。遺体のことを「丸太」と呼ぶようになるほど感覚が麻痺していたとグラント・ウルフキルさんは言います。アメリカ海兵隊きっての最強部隊とされていた第1連隊3000人の将兵たちですが、上陸から1週間後には死傷率が60%近くにまで達していました。海兵隊創設以来、最悪の事態でした。最前線にいた第1海兵連隊は上陸から1週間で撤退を余儀なくされ、ペリリュー島をめぐる戦況は大きく変化していました。マッカーサー大将率いる陸軍6万人はペリリュー島の陥落を待たずにレイテ島に上陸することを決定。レイテ島攻略を支援するというペリリュー島の戦略的意義は失われつつあったのです。上陸から2週間、5000人近くの犠牲者を出していたアメリカ軍は最新の殺戮兵器を初めて投入。火炎放射器を搭載した装甲車は炎を130m先まで噴射することが出来ました。トンネル陣地に近づかずに日本兵を生きたまま焼き殺すのです。さらに上空からはナパーム弾を投下。1000℃の炎で日本兵が潜む岩山を丸ごと焼き尽くしました。新兵器の投入によって日本兵の死者は9000人を超え、生き残った日本兵はトンネル陣地に潜んでいるしかありませんでした。水も食料も底をつきました。10月になっても40℃を超える暑さのペリリュー島。小さな島は放置された遺体であふれ耐え難い臭いに満ちていました。一体何のために戦っているのか、目的さえ分からない戦いが続いていました。

 

持久戦が始まってから50日が過ぎた11月8日、中川大佐率いる守備隊の将兵は300人余りになっていました。この日、パラオ地区の司令官に緊急電報を送りました。武器・弾薬がない中、銃剣を手に敵に突撃したいと玉砕を申し出たのです。返信はその日のうちに来ました。指示を送ってきた参謀は国民の士気を高めるためにも持久戦を最後まで続けるよう命じました。一方、アメリカ側でもひとたび始まった作戦が見直されることはありませんでした。ペリリュー島は戦局から取り残されたにも関わらず、軍上層部は島の制圧にこだわり戦闘が続けられたのです。1ヶ月を過ぎた頃から常軌を逸した異常な戦いになっていきました。

 

第5海兵連隊のR・V・バーキン伍長は「ある日、木に縛りつけられた3人の海兵隊員の死体を見てしまいました。ペニスが切り取られ口に押し込まれていました。それを見たとき私はやつらを皆殺しにしてやりたいという怒りの気持ちが強烈に湧き上がってきました。やつらは仲間の死体を使って銃剣の練習をしていたに違いありません。3人とも体中に50ヶ所以上の刺し傷があったんです。怒りに震えたままその場にいると仲間が、あの中にジャップがいるぞ!と叫んだのです。私はゆっくりやつらのトンネル陣地に近寄りました。そこには通気孔があり中を覗き込んでみると日本兵がこちらを見ていました。私は銃をそいつの顔に突きつけて思いっきり引き金を引きました。そのまま銃口を振り回して8発の銃弾を撃ち込みました。やつらを蜂の巣のようにしてやりました。全部で17人の日本兵を皆殺しにしたのです」と語っていました。

 

ペリリュー島は憎しみが憎しみを呼ぶ狂気の戦場と化していきました。そうした戦いの様子はフィルムにも記録されていました。戦闘意欲を失った日本兵が容赦なく銃で撃たれ、持ち物を調べられた後、遺体が海に投棄される様子です。失っていた人間性をふと取り戻した時、兵士たちは耐え難い苦しみに襲われたと言います。頭を抱え座り込む1人の兵士の写真があります。日本兵を接近戦の末、殺した直後に撮影されたものです。その時の状況を彼は後に語っています。

 

「岩山での戦いのさなか日本兵が突然銃剣で襲いかかってきた。私は彼の腹に2発撃ち込んだ。倒れた彼の懐から1枚の写真がのぞいていた。手に取ってみると彼が両親と幼い妹と一緒に写っていた。一体何てことをしてしまったんだろう。私は大きなショックを受け言葉を失った」(ポムロイ1等兵の証言より)

 

兵士は顔を覆いうなだれたまま、いつまでもその場から動けなかったと言います。正気を保つことさえ出来ない兵士も続出しました。フィルムは錯乱状態に陥った兵士の姿も克明に記録しています。異常な戦場の中、殺戮は味方同士にまで及んでいきました。アメリカ兵の1人が「俺は殺される!やつらに殺される」と大声で喚き出し、大量のモルヒネを打ったものの効かず、わめき声が大きくなるばかりだったため塹壕用のシャベルで頭を殴り殺されたと言います。300m先には日本兵の陣地があったのです。多くの仲間が1人のために危険にさらされることを思えば仕方がなかったのだそうです。一方、日本側が味方の処刑を行っていた可能性のある映像も残っています。手足を縛られ首を切り落とされた遺体です。当時、日本軍では敵前逃亡や投降は死に値するとみなされていました。

 

ペリリュー島の戦いが始まって71日目の11月24日、守備隊本部以外はすでにアメリカ軍に制圧されていました。この時、日本軍の生き残りは120人。そのうち70人は身動きすら出来ない重傷者でした。長期持久戦を続けてきた守備隊長・中川大佐は「状況切迫 陣地保持ハ困難ニ至ル」という電報の後、自決しました。こうして74日に及んだペリリュー島の戦いが終結しました。日本軍がペリリュー島で初めて行った長期持久戦に初めて対峙したアメリカ軍。双方は長期に渡る殺し合いを経験しました。そしてそれは硫黄島、沖縄の戦いへと引き継がれ、さらに民間人をも巻き込んだ無差別な殺戮へと激化していきました。

 

戦いから70年、ペリリュー島では今もトンネル陣地の跡が新たに見つかっています。そこには旧日本軍の武器などが当時のまま残っています。島には2500人を超える日本軍将兵の遺骨がいまなお眠ったままです。




コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。

コメントは管理人の承認後に表示されますのでしばらくお待ち下さい。管理人からの返信はありませんのでご了承ください。