レオナルド・ダ・ヴィンチの幻の戦争画大作「アンギアーリの戦い」|日曜美術館

レオナルド・ダ・ヴィンチが「アンギアーリの戦い」の壁画に取り組んだのは1503年。しかし、完成することはなく歴史の闇に消えた大作です。その謎に満ちた絵は、今でも多くの人たちを惹きつけています。

 

フィレンツェのヴェッキオ宮殿は昔から政治や行政が行われてきました。この大広間の壁に描かれるはずだったのが大作「アンギアーリの戦い」です。今は別の画家の戦争画が描かれています。レオナルドが挑戦した戦争画とはどのようなものだったのでしょうか?

 

 

レオナルド・ダ・ヴィンチが約20年ぶりにミラノからフィレンツェに戻ったのは、50歳近くになった1500年。すでに「最後の晩餐」で高い名声を得て、画家としての円熟期をむかえていました。

 

当時のフィレンツェは、それまで権力を握っていたメディチ家が追放され市民たちの手による自由で民主的な新しい国作りを目指していました。

 

議長に就任したピエロ・ソデリーニは、ヴェッキオ宮殿の大広間の壁に民主的国家の象徴としての壁画をレオナルドに依頼したのです。選んだテーマは約60年前にフィレンツェが宿敵ミラノに勝利したアンギアーリの戦いです。

 

そして、その横にもう一枚の壁画が発注されました。引き受けたのは当時注目され始めた若手芸術家ミケランジェロ・ブオナローティ。互いにライバル心を燃やしていた2人の天才の対決は、大きな話題となりました。

 

ミケランジェロ

 

レオナルドは、サンタ・マリア・ノヴェッラ教会の教皇の間で下絵の制作をはじめました。戦争画の大作を描くのは初めての挑戦で、半年以上経っても遅々として絵が進みませんでした。共和国政府はレオナルドに督促状を出しました。

 

1502年、レオナルドはイタリア中部を支配しようとしていたチェーザレ・ボルジアの下で軍事技師として働いていました。チェーザレは野心に満ちた若き指導者で、勇猛な戦いぶりで支配地域を拡大していました。彼はレオナルドを信頼し武器や要塞の設計をまかせ、常に行動を共にしていたと言います。この時、レオナルドは戦争の現実を目の当たりにしていたのです。

 

アンギアーリの戦いを描いていた時、レオナルドはサンタ・マリア・ヌオーヴォ病院の地下室に通っていました。人体解剖をしていたのです。人はどのようにして手足を自由に動かせるのか、人間そのものを徹底的に見つめようとしていました。レオナルドの人間への飽くなき探究心と好奇心は彼独特のものでした。

 

「最後の晩餐」

 

「最後の晩餐」を描いていた頃、レオナルドは街へ出ては様々な人物の表情や仕草をスケッチしています。「最後の晩餐」はレオナルドにとって新しい実験でした。「アンギアーリの戦い」と同じように登場人物たちの一瞬の心の動きを的確に演劇的な手法で表現しようと試みています。

 

「モナ・リザ」

 

「モナ・リザ」が描かれたのは「アンギアーリの戦い」とほぼ同じ時期です。肖像画を描く一方、20m近くもある壁面に激しい感情の渦巻く戦いのドラマを描こうとしていました。レオナルドは静と動という2つの異なる世界に挑戦していたのです。

 

未完に終わる

しかし「アンギアーリの戦い」は未完に終わりました。レオナルドは未完の原因に天候の異変をあげています。さらに、技法にも問題がありました。絵の具を壁の漆喰に染み込ませるため、火を入れた桶で炙っていると絵の具が流れ出してしまったのです。こうして「アンギアーリの戦い」は幻となりました。

 

しかし、レオナルドの戦争画大作への挑戦は後の多くの画家に影響を与えました。

 

「アンギアーリの戦い」が未完に終わった後、レオナルドはミラノ、ローマ、フランスへと旅を続け67歳の生涯を閉じました。人間を見つめ自然の本質を探ろうとしたレオナルドの美へと向かう精神は、最後まで衰えることはありませんでした。

 

「日曜美術館」
レオナルド・ダ・ヴィンチの幻の戦争画大作

この記事のコメント