ザビエル はるかなる冒険の旅へ
フランシスコ・ザビエルの生まれ故郷は、スペイン北東部のバスク地方です。ザビエル家はかつてこの地を治めていたナバラ王国の名門貴族でした。ザビエルの父はナバラ王国の宰相までつとめた王国の重鎮。5人兄弟の末っ子だったザビエルは、家族の愛情を一身に受け何不自由のない幸せな子供時代を送りました。
フランシスコ・ザビエル
ところがザイエルが6歳の時、ナバラ王国はスペインの攻撃を受けて滅亡。混乱の中、父は病に倒れ命を落としました。その後、ザビエル家は没落の一途を辿りました。落ちぶれたザビエル家を再興させるのが幼いザビエルに課された使命でした。
当時、ヨーロッパの貴族の多くは騎士として主君に仕え軍人として手柄をあげることで出世を目指しました。しかし、主君を失ったザビエルは学問の道に進みました。勉強して大学で学問をおさめれば位の高い聖職者になることもできます。大司教にまで出世すれば貴族に匹敵する富と権力を持つことも夢ではありませんでした。
ザビエルは19歳でヨーロッパ一の名門パリ大学へ入学。専攻は哲学。これは教会で出世するには欠かせない学問でした。ザビエルは入学から5年で学位を取得。その後も一族再興のため大学で勉強に明け暮れる毎日を過ごしました。
そんなザビエルに転機が訪れました。大学の寮にイグナティウス・ロヨラがやってきたのです。ロヨラは戦争で足を負傷し軍人の道を諦め、宣教師になることを夢見て大学にやってきました。ロヨラはザビエルに「海の向こうに布教の旅に出よう」と言ってきました。
当時は大航海時代の真っ只中。人々の間で読まれていた書物には首なし人間や鳥の王様、武器を持った猿のような人間など、まだ見ぬ東の国の不思議な様子が描かれていました。こうしたものに触発され多くの若者が危険とロマンに満ちた冒険の旅へと乗り出していました。
ロヨラはその後も事あるごとに説得を続け、ザビエルの心は少しずつ揺らいでいきました。そして3年半が過ぎたある日、ザビエルは宣教師として海外に飛び出すことを決意しました。
1541年4月、ザビエルはインドでの布教を目指しリスボンを出航。目的地であるインドのゴアに着いたのは出発から395日目でした。当時ゴアには貿易商や船乗りなど数千人の西洋人が暮らしていました。ザビエルはゴアを拠点にインド各地をまわり布教を始めました。そして行く先々で多くの人に洗礼を施すことに成功しました。
ところが、しばらくして同じ村を訪ねてみると人々は洗礼を受けたことを忘れ、神への祈りを行っていませんでした。インドの人々はもともと関心がなかったのです。リスボンを出て6年、ザビエルは布教に行き詰まりを感じ始めていました。
そんなある日、ザビエルが教会で結婚式を執り行っていた時のこと、見慣れない姿の東洋人がやってきました。それは逃亡中の殺人犯アンジロー。彼がザビエルが出会った人生最初の日本人でした。
ザビエル 未知の国ニッポンへ!
アンジローは自分が犯した罪に苦しみ、ひどく思い詰めていました。「例え罪人であっても救われる。だから一緒に祈ろう」というザビエルにアンジローは深く心をうたれたと言われています。その翌日からザビエルの生活は一変。アンジローが毎日熱心に教会に通ってくるようになったのです。
もともと薩摩で貿易の仕事をしていたアンジローは、ポルトガル語が理解できました。ザビエルは日本でなら理想の布教ができるに違いないと未知の国ニッポンへ向かうことを決意しました。
1549年8月15日、ザビエルとアンジローは日本に到着。ザビエルは薩摩の大名である島津氏に面会し、領内で布教の許しを得ました。早速町へ出て布教を始めるザビエル。この時、ザビエルが説いた神の教えは大変ユニークなものだったと言われています。「大日(大日如来)を拝みあれ!」と呼びかけていたのです。
ザビエルは、キリスト教の神デウスを日本人に馴染みのある大日如来に置き換えて説明することで文化の壁を乗り越えようとしたのです。他にも観音菩薩や極楽浄土など日本人にわかりやすいように聖書の言葉を次々に仏教用語で説明したと考えられています。ザビエルたちはインドからやってきた仏教の一派「天竺宗」と呼ばれ日本人に親しみを持って受け入れられました。
日本に来て1年、信者も順調に増え100人を超えた頃、島津氏が布教を禁止しました。急速に広がりをみせるキリスト教に危機感を抱いた仏教僧たちが、布教を禁じるよう島津氏に働きかけたのです。
すると、ザビエルは天皇に直訴すると言い出しました。この時、日本は戦国時代の只中。毛利元就や織田信長、武田信玄といった名だたる戦国大名が各地で激しい戦いを繰り広げていました。ザビエルは信頼するアンジローを薩摩に残し信者を守ることを託し、京の都を目指しました。
ザビエル 知られざる戦国の大冒険
1550年の秋、ザビエルは薩摩に立ち寄っていたポルトガル船で出発。船の目的地は平戸。ザビエルたちはここから徒歩で都を目指しました。道中、民家に泊めてもらい托鉢で食料を入手しながら都まで600キロの道のりを数ヶ月かけて踏破する予定でした。
12月、一行は山口にさしかかりました。身なりはいつしかボロボロになり、子供たちに石を投げつけられることもあったと言います。それでも見かねた村人が食べ物を分けてくれました。貧しくとも困った人には手を差し伸べる人々との出会いにザビエルは元気を取り戻しました。
岩国では親切な侍の一団の申し出で堺まで船に乗せてもらえることに。さらに、船では知らない町で困らないよう知り合いを紹介してくれる人も現れました。堺に到着してその家を訪ねてみると、豪商・日比谷了慶の屋敷でした。長旅で疲れきった一行を待っていたのは心のこもったおもてなしでした。
そして1551年1月、ザビエルはついに都へ辿り着きました。しかし、そこでザビエルが見たのは荒れ果てた都の姿でした。当時の都は戦乱によって多くの建物が焼失。焼け出された人々は通りに溢れていました。治安も悪化し略奪も横行。都は無政府状態に陥っていたのです。
ザビエルが頼みの綱だと考えていた天皇は、大名や民衆を従わせる力をすでに失っていました。それでもザビエルは御所を訪ねますが天皇と面会することはかないませんでした。戦国の厳しい現実を知ったザビエルは都をあとにしました。
その後、ザビエルは九州の豊後(大分)に向かいました。豊後の地を治めていたのは南蛮文化やキリスト教に理解のある大友義鎮(のちの宗麟)ザビエルは義鎮から布教を許され屋敷まで与えられました。心機一転、ザビエルは布教を再開。義鎮の後ろ盾もあって1ヶ月の間に100人近い信者が集まりました。
そして1551年11月、ザビエルは希望を胸に日本を後にしました。それから1年後の1552年12月3日、ザビエルは旅の途中に病に倒れ命を落としました。46歳でした。再び日本に戻り神の教えを説くという夢が叶うことはありませんでした。ザビエルは日本を離れた後こう書き残しています。
私は日本人への感謝の気持ちを書き尽くすことができません。
ザビエルの心は日本で確かに受け継がれていった…
ザビエルの死後、大友義鎮はキリスト教に入信。豊後は1万人以上の信者が暮らすキリシタン王国となりました。ザビエルとの約束で薩摩に残ったアンジローは、キリスト教を嫌う島津氏から激しい迫害を受けました。故郷を追われたアンジローは、海賊船に身を投じ東シナ海で命を落としたと伝わっています。
ザビエルが日本を去って70年後、江戸幕府による徹底的なキリシタン弾圧が始まりました。この時、歴史の表舞台からキリシタンは完全に姿を消しました。
それから300年後の大正時代、大阪府茨木市の民家から「聖フランシスコ・ザビエル像」が見つかりました。この絵は隠れキリシタンの一族が人知れず受け継いできたものでした。厳しい弾圧の中、それでも人々は密かに信仰を守り続けていたのです。その時、心の支えとなったのがザビエル像でした。
日本を愛したフランシスコ・ザビエルは、その死後も彼を慕う人々をずっと見守り続けていたのです。
「歴史秘話ヒストリア」
ザビエル 戦国を行く
~知られざるニッポン3万キロの旅~
この記事のコメント