曲直瀬道三 戦国スーパードクター|歴史秘話ヒストリア

NHK総合テレビの「歴史秘話ヒストリア」で戦のない世を目指して~戦国スーパードクター曲直瀬道三~が放送されました。曲直瀬道三(まなせどうさん)は戦国時代、医療に革命を起こし人の命を救うことに生涯をかけました。織田信長や豊臣秀吉といった天下人から信頼された戦国のスーパードクターです。その武器は患者一人一人に合わせた治療です。曲直瀬道三は身分を問わず病に苦しむ人は誰でも診療しました。

 

誕生!戦国スーパードクター

永正4年(1507年)、応仁の乱以来40年に渡って続く戦乱で都は焦土と化し多くの人々が命を失っていました。こうした中、曲直瀬道三は武士の家に生まれました。しかし母は曲直瀬道三を産んだ翌日に亡くなりました。そして同じ年のうちに父も戦乱で亡くなりました。両親の顔すら思い出すことができない自らの境遇に、幼い曲直瀬道三は言いようがない怒りを抱いていました。

 

22歳になった曲直瀬道三はもっと学問をつもうと都から関東へ。やってきたのは当時日本で最も優れた学校として知られた足利学校。全国から約3000人の僧が集まり学んでいたと言われています。学問は儒学や易学、兵学などが中心でした。当時の教科書には病の見極め方や治療法などが書かれ、初歩の医学を学ぶことができたようです。曲直瀬道三もこうした環境の中、医学と出会ったと考えられています。足利学校にはそこで学ぶ者が病気やケガをした時のための療養施設もありました。看病をするのは同窓の仲間たち。医学を実践することの出来る貴重な場でした。しかし重病人は治療をしても命を落としてしまうことが少なくありませんでした。そんな中、曲直瀬道三は田代三喜(たしろさんき)と出会いました。田代三喜は足利学校の出身で、関東の名医と呼ばれ学校にも時々顔を出していたと言われています。

 

当時の薬は植物や動物、鉱物など1700あまりの生薬を使い、中国から伝わった本に書かれている通りの量で調合し、それを病人に飲ませるというものでした。ところが田代三喜は患者一人一人の年齢や性別、体質などに合わせて生薬の量を決め薬を処方したのです。曲直瀬道三の自伝には田代三喜との出会いが本格的に医学を学ぶ始まりだったと書かれています。

 

そして曲直瀬道三は田代三喜のもとで薬草の採取や栽培を手伝いました。薬草の名前や特徴、効能などを詳しく学んでいきました。往診にも同行。田代三喜は身分に関わらず誰でも治療したと言われています。田代三喜が診察の時に特に重視したのが脈です。脈を詳しくみることで患者一人一人の状態をつかみ最適な治療を行っていました。田代三喜の治療を間近でみながら曲直瀬道三は、その医術と精神を懸命に学びました。田代三喜もまた、そんな曲直瀬道三に信頼を寄せていくように。天文5年(1536年)、曲直瀬道三はようやく一人前として認められました。しかし田代三喜は73年の生涯を閉じました。曲直瀬道三は師から受け継いだ医術を深め、広めることに生涯をかけようと決意しました。

 

毛利元就を救え!

曲直瀬道三は39歳のとき生まれ故郷の京都に帰り、医者として活動を始めました。師匠である田代三喜と同様に、一人一人にあった薬を処方しました。曲直瀬道三の薬はよく効くと評判になり都の人たちがこぞって診療を受けに来るように。町人でも武士でも苦しんでいる者は誰であっても診察しました。お金のない人からは魚や酒を代わりにもらうことも。曲直瀬道三は名医としてその名を広く知られるようになりました。

 

永禄9年(1566年)、60歳となった曲直瀬道三に転機が訪れました。西国の大名である毛利元就(もうりもとなり)は中国地方統一を目指し出雲の大名・尼子氏と戦っていました。次々と出城を落とし本城を包囲、落城まであと一歩という時に病に倒れてしまいました。曲直瀬道三は毛利元就の治療を頼まれ出雲へ旅立ちまちた。しかし心中は複雑でした。病の者を捨ててはおけないものの、戦を仕掛ける毛利元就を助ければ逆に多くの命を奪うことになるのではないかと思ったからです。躊躇する曲直瀬道三の心を見透かしたように毛利元就は「血にまみれた命は救えぬか」と言いました。しかし「わしが死ねばもっと多くの血が流れよう。生きながらえて戦を無くしたい」と言ったのです。毛利元就の病は脳卒中による半身まひでした。当時70歳の高齢だったことを考えると命も危ぶまれる容態でした。この時、曲直瀬道三が行った治療の一つがお灸です。お灸の治療を数か月間行いました。曲直瀬道三の治療によって毛利元就の病状は次第に良くなり体を動かせるまでに。危機を脱した毛利元就は月山富田城を総攻撃。そして11月、尼子氏は降伏しました。この時、毛利元就は降伏した敵の大将をはじめ、その一族の命を助けました。これは曲直瀬道三の進言によるものだと考えられています。

 

その後、曲直瀬道三は都に戻り他の戦国大名の求めにも応じて、積極的に診察するようになりました。医者として戦のない世を目指す曲直瀬道三の挑戦が始まったのです。

 

師弟 それぞれの道

曲直瀬道三は自宅に医術を教える学校を開き、本を使って講義を行いました。沢山の人が曲直瀬道三の門をたたき、多い時には100人もの生徒が学んだと言われています。中でも曲直瀬道三が目をかけていたのが全宗(ぜんそう)という僧侶。もともと比叡山延暦寺で薬に関わる仕事をしていました。しかし、織田信長の焼き討ちで全てを失い、医者として再出発しようと弟子入りしたのです。すでに薬に関する基礎知識は身につけていた全宗でしたが、少しでも新しい医術を学ぼうと人一倍熱心に曲直瀬道三の診療を手伝いました。曲直瀬道三は優秀で努力家でもある全宗をどこへ行くにも連れていきました。織田信長をはじめ都にやってきた大名のもとへも二人で通い診察を行いました。ところが、織田信長が亡くなり後継者として秀吉が台頭してくると曲直瀬道三と全宗の関係に変化が現れました。積極的に政治に関わろうとする全宗と、あくまで医者としての本文を守ろうとする曲直瀬道三。二人はいつしか違う道を歩み始めていました。

 

積極的に秀吉に近づいた全宗は、すっかり気に入られまもなく侍医として秀吉に仕えることに。そして秀吉の許しを得て帝のいる御所の近くに施薬院(やくいん)という病人の治療を無償で行う施設を開きました。早朝から夕方まで、その場で診察するだけでなく重病人には往診もしました。

 

一方、曲直瀬道三にも転機が訪れました。78歳になった曲直瀬道三のもとに外国人宣教師ベルショール・デ・フィゲイレドが治療を受けにやってきました。フィゲイレドは結石を患っていたと考えられています。フィゲイレドは九州で布教活動を行っていました。そこには病気や貧困で苦しむ人々を治療し保護する施設があり、キリスト教の信者たちがボランティアで運営していました。同じ施設を都でも始めようと協力者を探していたと言われています。曲直瀬道三は何度も教会に通い話を聞くように。そしてキリスト教に入信。信者たちと協力し合い、貧しい人々を治療する新たな施設の建設を進めました。ところが天正15年(1587年)秀吉がバテレン(外国人宣教師)の国外追放を決定。このとき、命令文を書いたのが全宗だったと言われています。バテレン追放令によって都にあった教会や曲直瀬道三が力を注いでいた治療のための施設は壊されてしまいました。

 

天正16年(1588年)82歳になった曲直瀬道三は都の人々の間で盛んに行われていた俳諧を始めました。俳諧によってこれまで自分が培ってきた医学の知識を世の中に広め、一人でも多くの人を健康にしようと考えたのです。曲直瀬道三は心や体が丈夫になる秘訣をうたった俳諧を120首つくり「養生俳諧」という本にまとめました。

 

曲直瀬道三は文禄3年1月4日、88歳で亡くなりました。曲直瀬道三の医学はその後、弟子たちによって受け継がれていきました。現在でもツボに注目した治療は行われています。子供の病気の予防によく使われる「ちりけ(身柱)」というツボを特定したのも曲直瀬道三です。曲直瀬道三の医学は時代を超え世代を超えて、今も人々の健康を支えています。




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