20世紀は数千万の人々が祖国を追われた難民の世紀でもありました。そして21世紀の今も悲劇は続いています。世界は100年以上もこの難問を解決できないでいます。
難民の父の苦悩 ソビエトの大飢饉
1917年、ロシア革命によってロマノフ王朝は崩壊。史上初の社会主義政権ソビエトが成立しました。革命から3年後、ソビエトは未曽有の難民危機にみまわれました。
1920年、干ばつが引き金となって深刻な飢饉が発生し、3000万もの人々が食料を求めて難民化。ソビエト政府は飢饉に対する解決策を打ち出せませんでした。
難民救済のために国際連盟はフリチョフ・ナンセンを指名。ナンセンはノルウェーの探検家でした。探検家としての抜きんでた実績と、困難にも動じない精神力が国際連盟に見込まれたのです。
ナンセンはソビエトに入り、飢えた人々のもとを訪ね歩いて惨状を詳しく調べました。人々は村を捨て、あてもなく彷徨っていました。そこへ記録的な大寒波が追い打ちをかけました。飢えと寒さ、伝染病によって多くの人々が命を落としていきました。
私はこの目で見てきました。ソビエトの市場では公然と塩漬けにされた人肉が売られています。数百万もの人間が飢えと寒さで残酷なほどゆっくりと死を迎えているのです。今、我々はひとりになって考えるべきです。何もしないで黙ってみていることが果たして許されるのでしょうか。
(ナンセンの証言)
ナンセンはソビエトへ5000万ドルの援助を送るよう国際連盟に提案。しかし、その提案は却下されました。国際連盟は難民へ支援がソビエト政府に流れる事でヨーロッパの政治的均衡が揺らぐことを恐れていたのです。
人々が餓死するのはソビエト政府の失政のためである。国際連盟は彼らを援助すべきではない。
(ユーゴスラビア代表の発言より)
これに対してナンセンはあくまで人道的観点からの救済を訴え続けました。
これ以上何カ月もかけて議論するのはやめていただきたい。こうしている間にも人々は息絶えているのです。皆さんにも家族がおられることでしょう。自分の妻や子供たちが飢えて死ぬのを見るのはどんな気持ちでしょうか。それでもソビエト政府を助けるぐらいなら数千万の人々が餓死した方がいいと言い切れる人がいるでしょうか。そうだというのなら、この場ではっきり申し出ていただきたい。
(ナンセンの発言より)
しかし、国際連盟の結論は変わりませんでした。
ナンセンは新たな計画を実行に移しました。それは、難民の惨状を記録した映画を製作し、民間からの寄付金集めに使うことでした。
納屋と倉庫は空っぽだ。人間のためにも、また家畜のためにも穀物やエサはない。屋根のかやぶきは消えた。牛のために、そして人間のために、食料として使われたのだ。
ファラー博士とイギリスの特派員が泥からできたパンを試食する。ファラー博士はその後、発疹チフスに襲われ1921年12月28日にモスクワで死亡した。死亡率は前代未聞のひどさだ。死者の埋葬が追い付かない。
今は永遠に閉ざされてしまった彼らの唇があなたの同情を呼び起こしますように。我々は助けなければならない。
(映画の字幕より)
この映画は欧米だけでなく日本でも公開され、現在の価値で4000万ドル以上の寄付を集めました。
民間だけでなくアメリカはナンセンの活動に賛同しました。商務長官ハーバート・フーバーのもとでソビエトへの救援活動が開始されました。フーバーは6000万ドル以上をつぎ込み、トウモロコシや小麦、牛乳をアメリカ全土から集めソビエトに送りました。支援物資の総量は1000万人分にのぼりました。
しかし、フーバーの動機はナンセンの掲げる人道精神とは別のところにありました。
我々がソビエトに持って行こうとしている食料は全てアメリカ国内で余っているものであり、世界中どこにも買い手のないものである。我々は豚に余った牛乳を飲ませ、ボイラーでは余ったコーンを燃やしている。現在アメリカは深刻な経済不況に直面している。支援が人道的であるかどうかと自問するのも良いが、我々には我が国にとっての経済効果という面から考える権利もある。
(フーバーの会議での発言より)
当時、アメリカでは過剰に生産された食料が値崩れを起こし深刻な不況を引き起こしていました。フーバーは余った食料を国外に放出することで食料価格の下落を食い止め、経済の立て直しをはかったのです。フーバーの支援は1000万に及ぶソビエトの人々を飢餓から救うことになりました。
しかし、ソビエト政府は感謝を示すことはなく、アメリカの支援はソビエトの内情を探るためだと国民に伝えました。結局、民間からの寄付にアメリカからの支援を加えてもソビエトの飢餓難民全てを救うことはできませんでした。
1922年、難民救済への尽力が評価されナンセンはノーベル平和賞を受賞。しかし、その受賞の弁は怒りにあふれていました。
(フルシチョフ・ナンセン)
私はいつもボルガのある村のことを思い出します。その村は住民が3分の1になってしまいました。しかし、どんなに先行きが暗くとも人々はまだ未来を信じていました。なぜ彼らを助けようとしなかったのでしょうか。政治の影でぐずぐずし、苦しみながら死んでいく数百万の人類に何も与えないような連中はヨーロッパの惨劇そのものです。
この大飢饉で亡くなった人々は約900万とも言われています。ソビエトの農業生産が回復し、飢餓状態が収束するまでには2年の歳月を要しました。
それから17年後の1939年、国際政治はまたしても無数の難民を見捨てる悲劇を起こしました。
世界から見捨てられた人々 スペイン内戦
1936年、スペイン全土で内戦の火の手が上がりました。スペイン内戦は世界各国のジャーナリストが最前線に入り、本格的な戦場報道が行われた初めての戦争でした。
スペイン内戦では2つの勢力が国を二分して戦っていました。共和国政府は社会主義の流れをくむ左派政権。この共和国に反旗を翻し、内戦を引き起こしたのがフランシスコ・フランコ率いる軍部です。フランコにはヒトラーという大きな後ろ盾がありました。ヒトラーは社会主義の拡大を防ぐという名目で内戦に介入。各都市に激しい爆撃を行いました。
共和国の窮状に国際社会は冷淡でした。イギリス、フランスなどの国々は戦火の飛び火を恐れて傍観をきめこみました。
そんな中で発表された一枚の報道写真が反ファシズムのシンボルとなりました。アメリカの雑誌に掲載された「崩れ落ちる兵士」(1936年)です。今日では撮影状況について疑問もていされていますが、共和国の民兵が撃たれた瞬間をとらえた写真は世界にセンセーションを巻き起こしました。
撮影者はロバート・キャパと名乗るカメラマン。その正体は貧しいユダヤ難民でした。本名はエンドレ・フリードマン。ハンガリーで洋服店を営むユダヤ人の家庭に生まれました。
ベルリンでカメラマンとして働き始めた20歳の頃、ユダヤ人迫害から逃れヨーロッパを放浪する身となりました。
その矢先に起きたのがスペイン内戦でした。ファシズムに抗う人々に自らを重ねキャパは戦場に身を投じました。恋人のゲルダ・タローも女性カメラマンでドイツ生まれのユダヤ人でした。キャパの名は反ファシズムの象徴として世界中に広がりました。ところが、恋人のゲルダが取材中に戦車に轢かれ命を落としました。
ゲルダの死の翌年、共和国の首都バルセロナにはフランコ軍が迫り、内戦はフランコ軍勝利に決しつつありました。共和国軍が敗れていく中でキャパは新しい被写体に出会いました。難民です。
バルセロナの陥落が迫ると大勢の人々がフランスへの亡命を目指しました。キャパの被写体は兵士から難民へと移っていきました。
バルセロナからフランス国境までの100マイルの道は脱走する人々で黒く埋められていた。知識人、労働者、百姓、小商人それに母親、妻、子供たち。新聞記者はその記事を書き、私は彼らの悲惨な姿をカメラにとらえた。
(キャパの手記より)
しかし、戦場の劇的さに欠ける難民の写真は「崩れ落ちる兵士」のようなセンセーションを巻き起こすことはありませんでした。
バルセロナが陥落しても、ヨーロッパ各国は不干渉政策を貫き救いの手を差し伸べることはありませんでした。多くの難民が冬のピレネー山脈を徒歩で越えフランスへと逃れました。寒さに耐えきれず命を落とす者もいました。命からがらフランスに辿り着いても、待っていたのは邪魔者として扱われる日々でした。
不干渉政策をとるフランス政府は、難民キャンプに人々を押し込めました。難民キャンプには水道もなく食料も不足していました。難民は次々と疫病にかかり命を落としていきました。
3年に渡って続いたスペイン内戦は、ファシズムを掲げるフランコ将軍の勝利に終わりました。この内戦が生んだ難民は約50万。多くの人は祖国スペインの土を二度と踏むことはありませんでした。
世界は何をしたのか ユダヤ難民
国家を持たず世界各地に離散して暮らすユダヤ人は長きに渡って社会で差別される存在でした。人々のその差別意識につけこんだのがヒトラーです。ヒトラーはユダヤ人の財産を没収し、公職からも追放。人種差別政策を徹底していきました。
こうしたナチスの迫害に対し、声を上げたのがアルバート・アインシュタインです。
選ぶ余地があるかぎり市民的自由、寛容、すべての市民が法の前で平等であることが原則である国にのみとどまりたい。しかし、こうした条件は現在ドイツでは満たされていない。
(アインシュタインの手記より)
新聞はナチスがアインシュタインの首に5000ドルの懸賞金をかけたと報じました。ヒトラー政権下で国外へ逃れたユダヤ人は34万にのぼりました。アインシュタインはアメリカに亡命。ユダヤ難民の救済を世界に訴えました。
しかし、国際社会はユダヤ難民を放置しました。1939年、ドイツを出航した豪華客船セントルイス号は900人のユダヤ難民を乗せていました。アメリカへの亡命を目指したのです。まずはキューバに上陸し、そこでアメリカから入国許可が下りるのを待つ手筈になっていました。
しかし、キューバに着いた彼らを待っていたのは信じられない知らせでした。キューバ政府は乗客1人あたり500ドルの保証金を払わない限り、上陸を拒否すると通告してきたのです。アメリカ政府も手を差し伸べることはありませんでした。彼らはヨーロッパに引き返すしかありませんでした。
アメリカのユダヤ人団体による必死の陳情もあり900人余りの乗客はイギリス、フランス、オランダ、ベルギーの4カ国に受け入れられ、ドイツへの帰国を免れました。
しかし、運命は残酷でした。3カ月後に始まった第二次世界大戦によってイギリスを除く3カ国はヒトラーの支配下に入ったのです。セントルイス号の乗客の大部分は強制収容所で最期をむかえました。
ナチスのユダヤ人迫害に行動を起こさなかった世界が、その実態を知ったのは戦後になってからでした。同胞を救うことが出来なかったアインシュタインは、ホロコーストについてこう書き残しています。
近代史が物語らねばならない最も恐るべき大量犯罪から数年の歳月がたちました。この犯罪は熱狂的な暴徒が犯したものではなく強国の政府によって冷酷に計算されたものです。生き残った人々の苦しみは人類の良心がどれほど弱まってしまったかということの証しです。
(アインシュタインの手記より)
大戦の終結は新たな難民を生み出しました。ヒトラー亡き後のヨーロッパでは前代未聞の難民の大移動が始まっていました。この混乱を収拾するために、連合国は大規模な難民送還事業を展開。ドイツに砲弾や大砲を運びこんできた貨物列車に難民を乗せ、故郷へと送り返しました。あまりの難民の多さに軍用輸送機まで駆り出されました。1500機が毎日3万6000人をピストン輸送しました。
しかし、最も過酷な運命をたどったのは戦争を始めたドイツ人自身でした。ナチスの領土拡大と共にヨーロッパ各地に移住していたドイツ人は、敗戦と同時に熾烈な報復を受けました。しかし、連合国はこの迫害を黙認しました。
ドイツ人にはあらゆる手段を使ってこの完全で明白な敗北を思い知らせるべきだ。
(イギリス首相アトリーの言葉より)
ドイツ国外にいた1000万人以上のドイツ人が難民となり、飢えと病に苦しみながら祖国を目指しました。彼らは道中でも地元の人々や兵士による凄惨な暴力にさらされました。
こんなにみじめな人々の群れを見た者がいるだろうか。どの人もぼろをまとっていたが、そのぼろが以前はきちんとした服装だったことを見せつけているようだった。髪はくしゃくしゃにたれさがり、どの人の顔もやつれ疲労で青白かった。さもなければあざがあるか腫れ上がって内出血していた。女のひとりはシャツしか身に着けておらず腕に真っ裸の子供を抱いていた。
(ドイツ難民の手記より)
多くのドイツ難民が故郷に戻るまでに命を落としました。その数は200万にのぼるとも言われています。例え生きて帰れたとしても、待っていたのは廃墟と化した故郷でした。
ホロコーストを生き延びたユダヤ人は、地中海に船を走らせました。目指したのは旧約聖書に「約束の地」と書かれたパレスチナでした。しかし、彼らの悲願の実現が新たな難民を生み出すことになりました。
新たな悲劇の始まり パレスチナ難民
世界各地に散らばっていたユダヤ人は、19世紀末からパレスチナに移住を始めていました。ユダヤ教の聖地シオンから名前を取り、この移住運動は「シオニズム」と呼ばれました。
当時、パレスチナに暮らしていたのはイスラム教を信じるアラブ人。シオニズムは初めは緩やかな移住運動でした。アラブ人もユダヤ人を警戒せずに新たな隣人として受け入れていました。
初期のシオニズムを後押しした人物の一人がアインシュタインです。ユダヤ人とアラブ人が共存する未来をアインシュタインは思い描いていました。
シオニズムはユダヤ人の自信を強める。また、ユダヤ人ではない人々と正常に共存していくうえでも有益だと考えている。私がシオニズム運動に加わった最大の動機はそこにあった。
(アインシュタインの手記より)
しかし、やがてシオニズムの中でパレスチナからアラブ人を排除しユダヤ人だけの国家を作ろうという強硬派の考えが台頭。その急先鋒だったのが、後にイスラエル初代首相となるダヴィド・ベングリオンです。
数千年にわたって世界中を放浪し苦難を続けた末にユダヤ人は自らの郷土に民族的再興を始めた。ユダヤを幽囚の枷から解き放ち他人への従属から立ち上がるための運動を引き起こしたのである。
(ベングリオンの手記より)
1930年代、ユダヤ人の入植が急増。ヒトラーの迫害が始まり、ユダヤ人が我先にとパレスチナに押し寄せたのです。ベングリオンはロスチャイルドなどユダヤ系財閥の援助を得て、貧しいアラブ人から土地を買い上げ街を拡大させていきました。
この1930年代にアラブ人とユダヤ人の対立は一気に加速。パレスチナを統治していたイギリスが、ユダヤとアラブの双方にここに国家の建設を約束していたのです。争いは泥沼の様相を呈しました。
神は我々にジハード(聖戦)をお与えになりました。我々の土地と我々の尊厳を守るために!ユダヤ人は皆さんの国を埋めつくし、皆さんの土地を盗み取っているのです。
(アラブ人指導者の演説より)
事態の収束をはかろうとイギリス政府は1939年2月、両民族の代表をロンドンに呼び和解を提案しました。アラブ側が移民の禁止を求める一方で、ユダヤ側は移民を無制限に受け入れるよう要求。交渉は決裂しました。
イギリスはパレスチナ統治に関する新たな方針を発表。それはユダヤ人の入植を厳しく制限するものでした。世界大戦の危機が再び迫る中、イギリスはアラブ諸国の支持を取り付け、戦争に備えようとしたのです。
パレスチナはアラブ人の意思に反してユダヤ人国家に作り変えられてはならない。パレスチナへの移住が可能なユダヤ人の数は今後5年間で7万5000人に制限する。
(イギリス政府の白書より)
パレスチナの移住制限は第二次世界大戦中も続き、ホロコーストの犠牲者を増やす一因となりました。しかし、戦後ベングリオンはホロコーストの惨劇を逆にユダヤ国家建設への足掛かりにしようとしました。ベングリオンは被害者の立場を強調し、パレスチナをユダヤ人に与えるよう国際社会に求めたのです。
ベングリオンは輸入制限を超える数のユダヤ人をパレスチナに送り込みました。イギリスはユダヤ難民をヨーロッパに送り返し、鉄条網で囲まれた難民収容所に閉じ込めました。ベングリオンはそうした映像を撮影させることで、ユダヤ人への同情論を世界中に巻き起こそうとしました。
多くの収容所での状況が、とりわけユダヤ人については実質的にナチスのもとにあったときと同じくらいひどいという。悲惨な状態をそのままにしておくわけにはいかない。
(アメリカ大統領ハリー・トルーマン)
トルーマンはイギリスに対し、ヨーロッパからのユダヤ難民10万をパレスチナに入国させるよう要請。しかし、その裏には政治的な思惑が隠されていました。大統領選挙で再選を勝ち取るためにのユダヤ系アメリカ人の支持をつかむ必要があったのです。
私はシオニズムの成功を切望している何十万もの人々に応えなければならないのだ。私の有権者に何十万ものアラブ人はいない
(トルーマンの言葉より)
国際社会を味方につけたベングリオンの主張をかわしきれなくなったイギリスはパレスチナ統治を放棄。問題解決を国連に委ねました。
1947年、国連総会でパレスチナを分割してユダヤ人の国家を作る案が採決にかけられました。
議事堂での最終会議はシオニストの聴衆で埋めつくされた。彼らはシオニズム支持を表明する宣言に拍手を送った。彼らはアラブ人がアウェイチームであるサッカーの試合みたいな雰囲気を生み出したのだ。
(イギリス外交官の証言)
結果は賛成33、反対13、棄権10。パレスチナ分割案は採決されました。
この分割案の成立でパレスチナの人口の3分の1に満たないユダヤ人に国土の半分を超える土地が与えられることになりました。1948年5月14日、ベングリオンはイスラエルの建国を宣言。初代首相となりました。
その直後、エジプトをはじめとする周辺のアラブ諸国はイスラエルに宣戦布告。第一次中東戦争が始まりました。しかし、欧米から大量の兵器を買い付けていたイスラエルはアラブ軍を押し返し、逆に領土を広げました。ガザとヨルダン川西岸を除くほぼ全ての土地がイスラエルに支配されることになったのです。
今度は70万人のアラブ人が周辺諸国におわれ難民となりました。パレスチナ難民です。
ユダヤ人によって半年の間に500以上の町や村が破壊され多くのアラブ人が殺されました。生き延びた者は追放され難民となりました。
ユダヤ人はトラックに囚人を積み込んで、目隠しをさせて国境線まで運んだ。到着すると一人を選び我々の目の前で射殺した。それから「振り返らず国境の向こう側へ全力で走れ」と命令されユダヤ人たちが空に向けて銃を撃ち続ける中を死に物狂いで走った。
(パレスチナ難民の証言)
第一次中東戦争に勝利した後、首相ベングリオンはアメリカに住むアインシュタインを表敬訪問。翌年、ベングリオンはアインシュタインに大統領への就任を要請。しかし、アインシュタインは断りました。彼が望んでいたのはアラブ人とユダヤ人が共存する国家でした。
イスラエルがもっとも重視すべきなのは、アラブ人に完全な平等を保障したいという願望を常に抱き、それを明確に表し続けることでなければなりません。アラブ人に対してどんな態度を取るかが民族としての私たちの道徳水準が試される本当の試金石になります。
(イスラエルの政治家に宛てた手紙より)
しかし、その願いが叶うことはありませんでした。
そして、新たな事態が生まれました。テロリズムです。
1960年代~70年代にかけてイスラエル以外の国家をも巻き込むテロ事件が世界各地で発生。パレスチナ難民が結成したゲリラ組織は、テロによって自らの主張を国際社会に訴えました。
我々は難民を戦士という新しい人間に変えるのです。これが重要なのです。家のない難民が自由の戦士になるのです。次なるステージを見ていてください。
(ゲリラ指導者ヤセル・アラファト)
そして、1972年のミュンヘンオリンピックで起きた悲劇は世界に戦慄を与えました。ドイツでの大会はイスラエルにとってユダヤ人の国家再興を印象付ける絶好の機会でした。しかし、大会10日目の1972年9月5日、イスラエル選手の宿舎に8人のパレスチナゲリラが侵入。2人を殺害し9人を人質にとって立て籠もりました。ゲリラはパレスチナ難民の叫びを世界に訴えました。
我々の作戦がオリンピックに参加した青年の心を傷つけたとしたら謝る。だが24年間もその土地を占領され自尊心を踏みにじられ苦しみ続けている者のいることを思い起こしてほしい。なぜテロと脅迫によって占領を続けているイスラエルが参加を許され我々の旗は会場のどこにもないのか。世界中の人々が競技を楽しんでいる時に我々は苦しみ戦っている。それなのに、誰も我々の抗議には耳を貸そうともしない。
(パレスチナゲリラの言葉より)
事件は銃撃戦の末に人質全員が死亡するという最悪の結末を迎えました。この事件によってパレスチナ難民の苦境が救われることもありませんでした。
現在、パレスチナ難民の数は約500万。解決の道筋は今も見えていません。
正義が生んだ難民 ベトナム戦争
アメリカは自由主義を掲げて南ベトナムを支援し、社会主義国家の北ベトナムと戦っていました。当初の報道は戦争を肯定する内容が大半で、アメリカ国内は戦争支持の空気に包まれていました。
そんな中で発表された異色の報道写真が世界に衝撃を与えました。「安全への逃避」(1965年)戦火から逃れるベトナム人の家族をとらえた写真はピュリッツァー賞を受賞。撮影したのは日本人カメラマンの沢田教一です。ベトナムに入った動機は「写真展を開けるような写真を撮りたい」という素朴なものだったと言います。
しかし、アメリカ軍に従軍する中で目の当たりにしたのは罪なき人々が犠牲となる戦場の不条理でした。彼らが逃げているのは敵のベトコンからではありません。味方であるはずのアメリカ兵からでした。
アメリカ軍はベトコンが潜んでいるかもしれないという理由で、同じ陣営の南ベトナムの人々の集落を丸ごと破壊していたのです。「安全への逃避」で沢田教一が撮影した親子はアメリカ軍によって住処を追われた人々でした。
朝の9時か10時頃に米軍の攻撃が始まり、村に入ってきた兵士に「向こうへ行け」と言われ川を渡ったのです。深いところで大人の胸くらいまでありました。途中で対岸に男が立っていたのを覚えています。それが沢田さんだったんです。
(撮影された少年の証言)
家を失い難民となった人々は、アメリカ軍が設営した難民キャンプに送られました。劣悪な環境での生活を余儀なくされたベトナム人は約500万にのぼりました。
当初はアメリカ政府寄りだったメディアも次第に犠牲になった人々の姿を配信するようになりました。難民の写真を掲げる市民たち。難民の姿は世界に反戦運動のうねりを巻き起こす力となりました。
1973年1月、世論を無視できなくなったアメリカは和平協定に調印。事実上の敗戦でした。しかし、アメリカ軍の撤退が決まったことによって南ベトナムの混乱は最高潮に達しました。
北ベトナム軍が来ると皆殺しにされるという噂を信じた南ベトナムの人々が一斉に国外脱出を試みたのです。首都サイゴンではアメリカ人が出国するヘリコプターに難民が殺到。しかし、搭乗できたのはアメリカ政府にコネを持つ限られたベトナム人だけでした。
国をおわれたベトナム難民は80万人以上になりました。
港についたとき目にしたのは空港よりさらに恐ろしい眺めでした。人々はボートに飛び乗ろうとし、そして水の中に落ちていました。ボートに体を砕かれてしまった人たちもいました。みな泣き叫んでいました。親を失った子供たちが走り回っていました。まるで映画を見ているようでした。
(ベトナム難民の証言)
その後も、世界から戦火が消えることはありませんでした。そして無数の難民が生まれ続けています。
2011年に始まったシリア内戦では第二次世界大戦後最悪と言われる難民問題が発生。100万を超える難民がヨーロッパを目指しました。世界が100年以上も抱える難問は今も解決されていません。
写真家の沢田教一は「安全への逃避」を撮影した5年後、戦場の取材中に銃弾によって命を落としました。生前、沢田教一はあの家族を探し出し、ピュリッツァー賞の賞金と写真を送りました。それは受賞した時からの沢田教一の念願でした。
当時、14歳だった被写体の少年グエン・バン・アインさんは故郷の村で農業を営みながら平穏な日々を送っています。
「映像の世紀プレミアム」
第10集「難民 希望への旅路」
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