青春時代とワルの香り
明和年間(1765年頃)長谷川平蔵は本所(墨田区)で400石の旗本の家に生まれ青春時代を過ごしました。20代の長谷川平蔵について書かれた記録にはこうあります。
遊里へと通い悪友と席を同じくしている
欲望が渦巻く歓楽街を学びの場としていたのです。例えば、賭場では人の欲望や心の動きを学び、先読みする術を身に着けました。やがて、この特殊な技術を幕臣としての仕事の中で発揮していきました。
欲望と心を先読みする男
ある日、老中・田沼意次の屋敷近くで家事が起きました。田沼の奥方を守るため、長谷川平蔵は仕事を放り出して田沼の屋敷へ急行。別の安全な屋敷へと誘導しました。
さらに、長谷川平蔵は田沼屋敷に向かうにあたって部下に餅菓子を買って避難先の奥方に届けるように命令しました。急いで駆け付けるばかりか、非常時でも忘れない気配り。これを知った田沼意次は、こんなに手が回ることに感心したと長谷川平蔵を評価しました。
実録!火付盗賊改
42歳になった長谷川平蔵は、江戸の特殊警察「火付盗賊改」に就任。火付盗賊改とは、武術に秀でた者で組織されるため特に凶悪な犯罪者の逮捕を期待されました。
当時、江戸の街を最も騒がせていた凶悪犯が真刀徳次郎。関東近郊100か所以上で窃盗、殺人を重ね、部下は数百人という大盗賊集団でした。
長谷川平蔵たちが真刀徳次郎たちを捕まえることは絶望的に厳しい状況でした。関東広域を逃げ回る相手に対して捜査に動ける部下は14人しかいなかったのです。
知恵その一
隠れた味方を見つけ出せ!
長谷川平蔵は大盗賊逮捕にすぐに取り掛からずに、じっくり味方探しから始めました。目をつけたのは江戸の庶民。
実は、前任者の時まで火付盗賊改は横暴だったため庶民から好かれていませんでした。しかもサービスも悪く、庶民が夜に泥棒をとらえても夜は営業時間外だからと犯人を引き取ってくれませんでした。
ところが、長谷川平蔵は24時間屋敷を開き、いつでも犯罪者を引き取るようにしたのです。さらに、庶民が犯罪者を引き渡しにくると蕎麦までふるまってもてなしました。
先頃まで評判は決して良くなかったが町方で受けが良くなり、平蔵さまさまとうれしがっている。
こうして長谷川平蔵が人々を味方につけていったのは、盗賊たちの潜伏先など情報収集に役立てるためでした。
さらに、長谷川平蔵が味方にすべく目をつけたのは犯罪者たち。かつての火付盗賊改では容疑者の自白を引き出す方法は拷問も含めた力づく。それを長谷川平蔵は拷問よりもあくまで尋問中心に切り替えたのです。
就任から1年後、長谷川平蔵が情報戦略を進めていく中で事態は動きました。
麹町で捕らえた盗人も徳次郎の手下だった。
部下たちを逮捕することで徳次郎への包囲網は徐々に狭められていきました。そして、ついに長谷川平蔵はわずかな部下しかいないにも関わらず広域犯罪の親玉逮捕に成功しました。
長谷川平蔵は、一見関係なさそうな人たちを味方にしていくことで困難な使命達成に成功したのです。
犯罪防止の大役に挑む
寛政元年、長谷川平蔵は老中・松平定信に呼び出され、重要な大役を任されました。それは治安対策。多発する犯罪に対して根本から手をうち犯罪そのものを減らそうというものでした。
当時、江戸近辺は社会不安の真っただ中。天明の大飢饉がきっかけで農村から食料を求める人々が江戸へと流れ込んでいました。ところが、彼らは働くための技能を持たず仕事には就けませんでした。そこで貧しさゆえの窃盗など犯罪に手を染めがち。そんな彼らは無宿人と呼ばれました。
この無宿人対策には、かつて幕府でも職業訓練施設を作ったことがありました。入所者には社会復帰ができるよう大工や鍛冶などの技術を身に着けさせたのです。ところが、施設は年間1000人もの病死者でるほど劣悪な環境だったため脱走者も相次ぎ、施設は7年で閉鎖しました。幕府は無宿人を粗末に扱い、無宿人は幕府を信用しない。うまくいくはずがありませんでした。
長谷川平蔵が新たな施設の設置場所に選んだのは石川島(豊洲)です。石川島にかつてと同じような職業訓練施設「人足寄場」を作りました。
知恵その二
相手の気持ちに寄り添い段階を踏め!
まず、長谷川平蔵が心がけたのが収容者の安心です。敷地には病人が静養するための長屋を作り、医師を定期的に巡回させました。さらに、こうした病人たちの心のケアにも気を配りました。
長谷川平蔵はただ医療を行うだけでなく、病人と同じ故郷の者を看病につけました。収容者たちは次第に長谷川平蔵に心を開き始めました。
府中刑務所には石川島から移された神社が今も大切に残されています。長谷川平蔵が人足の病気平癒を祈願する目的で建てられたものと言われています。
病気の者には見張りをつけずに人足だけで遠方まで湯治に行かせました。長谷川平蔵と収容者たちの信用の絆があってこそできたことでした。
こうして収容者たちから反発された以前の施設とは異なり、人足寄場は順調に運営されていきました。その結果、施設は明治にいたるまで続き、毎年数百人の無宿人が社会復帰を果たしました。
再会!悲しみの無宿人
寛政5年、火付盗賊改を続けていた長谷川平蔵に悔しい出来事が起こりました。
新助はかつて人足寄場に収容され働いていました。やがて、新助は出所して武家の奉公人として勤め始めました。ところが、新助は奉公先から金1両を盗み逃走し捕まってしまいました。
当時、火付盗賊改は捕らえた容疑者に適切な刑罰を「伺い」として老中に提出。その伺いをもとに判決を話し合うのは「評定所」でした。幕府の重役で構成されるいわば最高裁判所です。窃盗は、先例通り裁かれれば江戸からの退去を命じられます。しかし、一度江戸から退去を命じられれば新助は奉公先との繋がりがなくなり無宿人になります。これでは元の木阿弥です。
そこで、長谷川平蔵は江戸から退去させる前に奉公先の主人と新助を引き合わせたいと伺いを出しました。奉公先の主人のツテが残れば、将来無宿人に戻らずに済むからです。新助は毎月300文ずつ返済することを約束。奉公先の主人も「新助を許す」と発言。情状酌量の余地は十分でした。しかし、幕府上層部の判決は江戸追放。無宿に逆戻りでした。
幕府の方針は、窃盗における先例をほぼそのまま踏襲していただけでした。
知恵その三
先例は疑うためにある!
老女せん 賭博黙認容疑で逮捕!
老女せんの家の2階で博打をした者たちが逮捕されました。せん自身は賭博をしていませんが、先例に従えば博打を注意しなかった罪で罰金刑になるはずでした。
ところが、長谷川平蔵の取り調べでせんは足腰が弱っていたため2階に上がれないことが分かりました。せんは2階の博打に気づかなかったはずと伺いに書いて提出。その結果、判決は罰金刑よりも軽い「きついお叱り」になりました。
長谷川平蔵の現場の状況を考慮した伺いのおかげで先例主義が覆されたのです。
同情すべきか?集団賭博犯の意外な行動
長谷川平蔵の屋敷に犯罪者が3人自首してきました。博打行為の自首という江戸時代には滅多にないケースでした。
先例主義にのっとれば、自首か否かに関わらず博打犯には百敲きという重い刑。しかし、長谷川平蔵は自ら罪を認める3人は「更生の望みあり」と判断。伺いで情状酌量を求めました。
判例は「手錠をして五十日の自宅謹慎」という先例とは異なる軽い処分となりました。
長谷川平蔵は様々な任務で多忙な日々の中、一つ一つの事件に丁寧に向き合い、幕府上層部のこりかたまった裁きを変えていったのです。
まさか!?知られざる悩み
長谷川平蔵には意外な悩みがありました。
どれだけ職務に励んでも昇進の声がかからないので、もうおれも力が抜けた。これでは酒ばかり飲んで死ぬことになるだろう。
長谷川平蔵は幕府の重役・町奉行への出世を願いながら、その夢は叶いませんでした。
実は長谷川平蔵は、同僚の役人たちに「山師」「謀計者」「まかり間違うと危ない」と噂されていました。幕府の上層部の長谷川平蔵への評価はそれほど良くありませんでした。長谷川平蔵は何かと新しいことを行うため先例主義の上層部からは疎まれていたのです。
江戸庶民の心の中に…
寛政7年5月、長谷川平蔵は突然の病に倒れ息を引き取りました。50歳でした。まだ火付盗賊改の任期中でした。
役人たちとは違い、町の人たちは長谷川平蔵をこう称えました。
長谷川平蔵は賞罰正しく慈悲の心も深くて、時にとんちのきいた裁きもする。本所の平蔵様はどこに出したって恥ずかしくない自慢のお方だ。
「先人たちの底力 知恵泉」
任された大役を果たすには
~鬼平 長谷川平蔵 無理難題に挑む~
この記事のコメント