高橋是清|知恵泉

NHK・Eテレの「先人たちの底力 知恵泉」で人生七転び八起き ~どん底から神様へ 高橋是清~が放送されました。転んでも転んでもまた起き上がるダルマ。人生七転び八起き、それが愛称となった男がダルマ宰相・高橋是清(たかはしこれきよ)です。明治から昭和初期の経済界で活躍。大蔵大臣を7回、日銀総裁や総理大臣もつとめ、見事な手腕で財政の神様と呼ばれました。しかし、その人生は失敗だらけでした。

 

天性のラッキーボーイ

嘉永6年(1853年)黒船が来航。いわゆる鎖国の時代から日本人の関心が海外へ向かう時代へと変わり始めました。その翌年に高橋是清は江戸の絵描きの家に生まれ、すぐに仙台藩の下級武士の家に養子に出されました。

「私は子供の頃から自分は幸せ者だ運のいい者だと深く思い込んでおった。それが私を生来の楽天家にした原因じゃないかと思う」(「高橋是清自伝」より)

高橋是清の楽天的な性格は彼の一生を支える大きな力になっていきました。

 

アメリカで大失敗!?

慶応3年(1867年)、12歳になった高橋是清は仙台藩がアメリカに派遣する留学生の一人に抜擢されました。アメリカ・サンフランシスコにやってきた高橋是清は、まず語学学校に通うことになっていました。ところが、高橋是清はとんでもない失敗をしでかしてしまうのです。高橋是清は仙台藩が契約したヴァンリードという役人のもとに下宿。ある日、ヴァンリードは高橋是清を役場に連れて行き書類を差し出し、署名するように言われました。この頃の高橋是清はまだ英語力が乏しく、契約の詳細が分からないまま署名してしまいました。こうして高橋是清は農場を持つ富豪の屋敷に住むことになりました。ところが、屋敷の主人ブラウンは高橋是清を学校に行かせていれませんでした。かわりに毎日雑用を命じられたのです。薪挽きや家畜の毛繕い、餌やり、炊事など。本来、楽天的な高橋是清も精神的にまいってしまいました。

「私は疲れた体をベッドに横たえる時これから一体どうなってしまうのだろうと泣き明かしたことが度々あった」(高橋是清「立身の経路」より)

 

契約サインでどん底に!

実は、高橋是清が署名したのは住み込み働きの承諾書だったのです。奴隷のような扱いを認めてしまったのです。ヴァンリードは高橋是清の渡航費をたてかえていると主張し、その分を回収するため高橋是清を労働力として売り払ったのです。見知らぬ国で内容の分からない書類に安易にサインしてしまった高橋是清の失敗でした。わずか13歳で陥った逆境ですが、ここで挫けないのが高橋是清でした。

 

知恵その1 全身全霊でジタバタせよ!

高橋是清は状況を改善するために何が必要か考え抜きました。

「もし私が逃げ出したりしたら、それは契約違反だ。事態は一段と難しくなって周りにも迷惑をかけてしまう」(「高橋是清自伝」より)

結論はあらゆる手を使い、向こうに契約を解除させること。高橋是清がとった行動は家のランプや皿を手当たり次第破壊。主人のブラウンが自分を解雇するよう仕向けたのです。しかし、いくらやっても宥められるだけで、いっこうに解雇される気配はありませんでした。実は高橋是清はいつの間にかブラウンの妻に気に入られていたのです。

数か月後、高橋是清は次の行動に出ました。ついに逃げ出してしまったのです。しかし、それは単なる脱走ではありませんでした。一緒に留学した仙台藩士と合流し、日本の領事に話をつけ味方につけるためでした。高橋是清は大人たちと共に契約書を持つヴァンリードに破棄を迫りました。結局、たてかえた渡航費を仙台藩が返すことと引き換えに、ヴァンリードは契約破棄に同意しました。

「私の言う楽天の意味はそのうちどうにかなるであろうとか棚からぼた餅式に幸運が落ちてくるのを漫然と待っているとかいうような意味の楽天ではない。自分の全身全霊を傾けて最善を尽くす。あとは天に任せるのみである」(高橋是清「随想録」より)

 

”経済の神様”は失敗から

明治元年に帰国した高橋是清は、その後英語の専門家として大活躍しました。まだ英語を使いこなせる人材がまれな時代、高橋是清は10代を翻訳業や英語の教師をして過ごしました。しかし、ある失敗がきっかけとなり経済へ深い興味を抱くようになりました。

明治13年(1880年)26歳の時、知人からうまい儲け話が転がり込んできました。釆野と名乗る男は銀の売買を仲介する仲買店の従業員でした。釆野のもちかけた銀取引のやり方は、銀の将来の値段を予想し、実際の値段との差額で儲けるもの。釆野は銀は今後必ず値下がりするので、今のうちに参加しておけば必ず儲かると言うのです。当時、高橋是清は経済の知識はほぼゼロでした。よく分からないままうまい話に乗ってしまいました。数か月後、釆野から損失が出たという連絡が来ました。値下がりが予想された銀が全く下がらなかったというのです。高橋是清は仲買店に証拠金と損失分を合わせた5000円(現在の約2000万円)を回収されてしまいました。ところが、この失敗から高橋是清は意外な行動を始めました。

 

知恵その2 失敗こそ学ぶのチャンスと捉えよ!

「ひどい目にあった。そこでひとつ相場というものを研究してみたいという考えが起こった」(高橋是清自伝より)

損をした相場から手を引くのではなく、逆に相場の仕組みをとことん学ぼうと考えたのです。そこで、高橋是清は自ら銀相場に似た米相場の仲買店を立ち上げ経営を始めました。毎日熱心に店に顔を出すものの、自分の儲けには無関心。相場の仕組みを貪るように分析しました。その結果、相場の裏にある興味深い事実に気づきました。日々小刻みに変動する米の価格を、月単位・年単位で大きく見てみると大きな流れが見てとれます。この流れは農家の生産力や景気などの経済状況が様々な状況で複雑に絡み合って生まれていました。高橋是清は一つ一つの相場よりも国全体の経済の仕組みを読み解くことに興味を持ち始めました。世界各国の経済や流通を分析した海外の雑誌まで取り寄せ、熱心に分析。あっという間に経済の専門家へと成長していきました。こうして高橋是清は自分の失敗を大きなことを学ぶチャンスに変えて、自分の力にしていったのです。

 

南米の銀で大勝負!

明治17年、日本は富国強兵、殖産興業を掲げ、近代化を強力に推し進めていました。29歳の高橋是清は、高い英語力をかわれ農商務省の一部門の所長になりました。その後、34歳の時またもやうまい話が飛び込んできました。それは先輩が持ち掛けてきたペルーの銀山開拓の話でした。高橋是清は国の経済成長のためにと、この話に飛びつきました。高橋是清は日本ペルー鉱山会社の社長に就任。自ら借金をして運転資金を捻出しまいた。その額は現在の約8000万円でした。ところが、いざペルーの鉱山についてみると廃抗であることが判明。全部、現場ででっちあげられたデマだったのです。現場を知らずに手を出したことが失敗でした。高橋是清の手元に残ったのは多額の借金だけでした。

 

知恵その3 ヒントはすべて現場にあり

明治25年、高橋是清は日本銀行で働いていました。この頃、日銀は日本の近代化の象徴となるような本店ビルの建築に着手。高橋是清の役職はこの建築現場の事務員でした。高橋是清はあえて華々しい経歴から程遠い仕事を選んだのです。

「私は役人を長年やっていたので実業界に転じるにあたっては丁稚奉公からたたき上げねばならぬと考えております」(高橋是清自伝より)

見知らぬ分野に乗り出す時は、現場から学び直すべきだ。鉱山経営で失敗した高橋是清が見出した教訓でした。

「元来、仕事そのものに軽い重いはないものであるが虚栄の心があると、それが分からなくなってしまうのである。どんなささいな仕事でもおろそかにしてはならぬ」(高橋是清「随想録」より)

こうして一からやり直すことを選んだ高橋是清は、実際の現場のとんでもない状況に気づきました。ある日のこと、骨組みの鉄棒が足りなくなり現場の職人たちは大慌てで大量に注文。しかし、高橋是清が倉庫を確認してみると全く同じ鉄棒が沢山余っていたのです。日銀ですら在庫管理という基本的なシステムが機能していないことに気づいたのです。さらに、高橋是清は経営陣が近代化を焦るあまり現場の状況が目に入っていない有様にも驚かされました。この頃、日銀ビル建設の現場で明らかになっていたのは深刻な予算不足でした。建築家の辰野金吾は予算を抑えるため、設計の変更を迫られました。設計段階ではすべて石造りの予定でしたが、予算がもたないと見越した辰野は高くつく石造りは1階のみ、2階以上は安上がりなレンガ造りにしようとしました。しかし、当時の日銀総裁は激怒。国家の威信をかけた建築は、欧米のようにすべて石造りでないといけないと言うのです。かたくなに近代化の理想を掲げ現場の意見を理解しない上層部と、困惑するだけの現場。両方を経験した高橋是清には、双方の事情が理解できました。ここで、高橋是清の頭に妙案が浮かびました。

まずは辰野のアイディア通り、1階は石造りで2階より上はレンガで造ります。その後、レンガ部分に薄い石をはりつけ、まるで総石造りのような重厚感を出そうというのです。この石の外壁を使うアイディアで日銀本店ビルは無事予算内で完成しました。レンガ造りとは思えない立派な見た目も実現しました。この日銀本店ビルでみせた高橋是清の手腕が認められ、わずか7年で日銀副総裁に。その後、総裁にまで上りつめることになりました。

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