石川啄木と妻・節子|歴史秘話ヒストリア

NHK総合テレビの「歴史秘話ヒストリア」で妻よ、私がバカだった 石川啄木と妻・節子が放送されました。

 

若きふたり 愛は永遠なり

節子は盛岡の女学校に通い、教育熱心な親のもとで何不自由ない生活を送っていました。特技はバイオリン。厳しく育てられた節子は礼儀も正しく申し分のない女性に育っていました。そんなある日のこと、盛岡中学校に通う文学青年・石川一(いしかわはじめ)と出会いました。節子は初めは消極的だったものの、石川啄木の言葉に次第に引きこまれていきました。

「夜静かにして 想ひの羽のみぞ北の空にかける 乙女の美しきを 恋しと思ひぬ」(啄木の日記「秋韷笛語」より)

「小百合ぞと袂に掩ふて一花は はなたざるべき世とも思ひし」(啄木の日記「秋韷笛語」より)

盛岡という日本の小さな町から世界を夢見る啄木。そんな男性は節子の周りにはいませんでした。ところが、文学に熱中するあまり勉強をおろそかにした石川啄木は試験でカンニング。16歳で中学を退学となりました。それもどこ吹く風。文学で身を立ててみせると石川啄木は自分の才能を信じて疑いませんでした。中学を退学し、決まった職もない男との恋に節子の親は娘を家に閉じ込め、石川啄木と別れるよう言い聞かせました。

「あのときの節子の熱心さには全くどうしようも仕方がありませんでした。周りから結婚を許してやらなければ若い者同志のことだから思いつめてどんな事をしでかすかわからないと説かれ仕方なく承諾したような次第でした」(節子の父の話「啄木の妻 節子」より)

節子と婚約した後、石川啄木は一人で東京へと旅立ちました。文学の道で節子と共に生きていけるかを探るためでした。節子は半年余りの間、愛する人の東京からの帰りを待ち続けました。

明治38年5月、節子のもとに結婚式のため石川啄木が東京をたったという知らせが届きました。ところが、石川啄木は結婚式に現れませんでした。結婚式に一人でのぞんだ節子ですが、その態度は堂々としたものだったと言います。

結婚式の10日前に石川啄木は東京を出発しました。しかし、心は苦渋に満ちていました。というのも父親が失業したため親の面倒をみなければならなくなったのです。現実を受け止めきれなかった石川啄木は盛岡行きの汽車を途中で下車。行方をくらませました。「こんな無責任な男とは即刻別れるべきだ」と友人たちは石川啄木と別れるようすすめました。

「私はあくまで愛の永遠性を信じています」(節子が友人に宛てた手紙)

結婚式から5日後、石川啄木は悪びれる様子もなく節子の前に現れました。

 

オレは天才だ!

明治40年、石川啄木は教員の仕事を見つけ節子と共に北海道に移り住みました。この頃、石川啄木の家には文学に魅せられた青年たちが連日集まっていました。その文才がかわれ、今度は小樽で新聞記者になった石川啄木。ささいな町ネタも石川啄木の手にかかると面白い読み物に。

「どんな魔法を身に着けているのか雲のごとく現れ雲のごとく隠れる出没自在の女がいる。どこの柳の影から出てきて人を驚かせるかわからない。行き当たりばったり知り合いであろうがなかろうが人の家を訪ねてでまかせを言っては一晩程世話になって行くのだそうだ。あるところでは看護婦、またあるところでは教師、さらには代議士の弟の息子の妻とぬかすため、もはや手のつけようがない話。この出没自在の美人は高下駄を履いた天狗が20世紀に化けて出ているのかもしれません。みなさんよくよく気を付けましょう」(「小樽日報」啄木が書いた記事より)

やがて石川啄木は「石川が書くと新聞が売れる」と言われるまでになりました。しかし、石川啄木は遅刻と無断欠勤を繰り返しました。そして明治41年1月、石川啄木はひとりで釧路へ。節子への仕送りはほとんどありませんでした。結婚して3年、もう身の回りのもの全てを質に入れ、借金するしかありませんでした。石川啄木は節子のことはよそに毎晩飲み歩いていました。節子を友人たちはとても心配しました。

「束髪が額にみだれて 痛々しく見え 頬のやせ 眼のくぼみ 一つとして精神の苦悩をかたらぬものはない」(昭和13年8月「中央公論」「啄木の妻」より)

釧路でも石川啄木は仕事を休むようになりました。そして明治41年春、小説家になるため一人東京へ。

 

啄木と節子 愛のうた

石川啄木はひと月で原稿用紙300枚、6つもの小説を書き上げました。東京の出版社に持ち込むものの出版できないと言われてしまいました。当時ベストセラーとなっていた小説は人間の本性や心の底をあらわに描いた作品でした。人間の愚かさに迫った夏目漱石や己の弱さや苦悩、醜さをさらけ出す島崎藤村などの文学が一般大衆の心を掴んでいました。一方、石川啄木が書いた小説「雲は天才である」はいわば理想の塊。現実味は乏しく読者の共感は得られませんでした。「自分は天才だ」と思っていた石川啄木は現実から目をそらし、逃げるように浅草の繁華街へ足を運ぶようになりました。

石川啄木が上京して半年余り、節子は働きに出るようになりました。石川啄木からは便りはおろか仕送りもほとんどありませんでした。明治41年の大晦日、節子の手元に残ったのはたった一枚の硬貨でした。明治42年6月、節子は意を決して東京へ向かいました。石川啄木とは一年ぶりの再会でした。

東京で石川啄木と暮らして4ヶ月、節子は娘を連れて家を出て行きました。

「私は実に一個の憐れなる卑怯なる空想家でした。あらゆる事実あらゆる正しい理を回避して自家の貧弱なる空想の中にかくれてゐたにすぎません。古い自分といふものを新しくして行きたく思ひます」(この頃 啄木が書いた手紙)

節子の家出によって目を覚ました石川啄木。これにより彼の文学は大きく変わりました。明治43年12月、歌集「一握の砂」を発表。

「はたらけど はたらけど猶わが生活楽にならざり ぢつと手を見る 友がみなわれよりえらく見ゆる日よ 花を買ひ来て 妻としたしむ」

石川啄木の歌は小さな一人の人間の正直な言葉で紡ぎ出されていました。「一握の砂」から一年余り後、石川啄木は結核におかされました。

「眼閉づれど、心にうかぶ何もなし。さびしくも、また、眼をあけるかな。」(啄木直筆の原稿より)

明治45年4月13日、石川啄木は亡くなりました。石川啄木と節子が初めて会ってから14年目の春でした。

「いのちなき砂のかなしさよ さらさらと 握れば指のあひだより落つ」(歌集「一握の砂」より)

 

亡くなる10ヶ月前、石川啄木は将来節子と叶えたいと願った夢を詩「家」につづっていました。

故郷の村外れに建てた西洋風の木造の家
そこには広い階段とバルコニー、そして座り心地の良い椅子がある
妻が泣いている子供に乳をあげるための一間ももうけよう
その幸せを思うと自然と笑みが浮かんでくる
広い庭の片隅には大きな木を植え白塗りの腰掛を置こう
そこで妻から食事の知らせがあるまでうつらうつらと過ごすのだ

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