森永ヒ素ミルク中毒事件60年 ~母と子 あの日から~|ETV特集

鈴本雪枝さん(84歳)の娘は月に1~2度、障害者施設から帰ってきます。娘の郁己さん(61歳)は赤ちゃんの時に飲んだ粉ミルクが原因で重い知的障害があります。さらに、手足に震えが残り、時にてんかんの発作を起こします。

 

60年前、母が我が子に飲ませたミルクには、猛毒のヒ素が入っていました。2年前に亡くなった父親の松夫さんは郁己さんの一番の理解者でした。重い障害の原因となった粉ミルクを買ってきたのは父親の松夫さんでした。松夫さんは郁己さんの行く末を最期の時まで心配していました。

 

昭和30年3月、鈴本家の長女として生まれた郁己さん。親戚から「健康優良児が育つ」とすすめられ、雪枝さんは森永乳業の粉ミルクを飲ませ始めました。ところが、その粉ミルクに猛毒ヒ素が混入していたのです。森永ヒ素ミルク中毒事件です。

 

 

当時、森永乳業は粉ミルクを溶けやすくする添加物を使っていました。当初は規格品でしたが、価格の安い工業用に転換。その安全性は検査していませんでした。

 

全国で少なくとも130人の乳幼児が死亡。被害者は西日本を中心に1万3000人を超えました。被害者の親たちはその後救済を求めて闘いました。森永と国が恒久的な救済に合意したのは18年後のことです。

 

雪枝さんが郁己さんを施設に預けたのは10歳の時。洗濯物を汚したり靴を舐めたりして周囲からうとまれ苦しい毎日が続いていました。被害者である郁己さんが、事件のことをどこまで理解しているかは分かりません。今、雪枝さんが気がかりなのは自分が倒れた後のことです。

 

郁己さんが暮らすのは障害者支援施設「六方学園」です。郁己さんがこの施設に来た当初、しばらくは帰りたいと泣いていました。その日から50年の歳月を六方学園で過ごしてきました。毎週土曜日の夜、郁己さんが心待ちにしていることがあります。母・雪枝さんからの電話です。郁己さんが自立できるように雪枝さんは電話は週に1回と決めています。

 

今も母と子を苦しめている後遺症。ミルクを飲んだ時の急性症状がおさまっても、子供の体には様々な異変が続きました。事件直後、国が設置した第三者委員会は小児科の権威などから意見を聞き見解を示しました。成人のヒ素中毒の事例などを根拠にして、ほとんど後遺症は心配する必要はないと結論づけられました。後遺症だと疑われているものは、もともとかかっていた病気もしくは先天性の病気だとしたのです。

 

事件の翌年の精密検診も親たちの不安を取り除くことを目的に行われ、ほとんどの赤ちゃんが治癒したと診断されました。郁己さんの知的障害やてんかんの症状も、先天性の病気だとされました。しかし、雪枝さんは納得できませんでした。ミルクを飲む前、郁己さんは丈夫な子どもだったからです。

 

石川宗二さん(61歳)も被害者の一人です。1歳になる前にヒ素の入ったミルクを飲み、そのあと脳性麻痺になりました。施設に入って今年で39年になります。両親はここ10年で相次いで亡くなりました。

 

石川さんの母は母乳が出にくかったことから、医師にすすめられて森永の粉ミルクを飲ませていました。産まれたばかりの時は健康でしたが、徐々に手足の機能が衰えていきました。医師からは先天性の症状だと言われました。

 

石川さんには毎年必ず訪れる思い出の場所があります。施設に入るまで長い間両親と暮らした家です。外に出る機会が少なかった石川さんには、あまり友達もいませんでした。母親の手料理が何よりの楽しみでした。少年時代、重い障害があった石川さんは公立学校にも入学できませんでした。読み書きや礼儀など、教えてくれたのは全て母親でした。

 

事件発生から14年、親子の苦しみがようやく世に知らされました。きっかけは養護教諭や保健師たちによる調査でした。被害者の健康実態を親たちから聞き取った14年目の訪問です。

 

当時、養護教諭をしていた大塚睦子さんは勤務先で一人の被害者と出会い、親から話を聞いてみることにしました。親たちからの聞き取りは67人分になりました。報告書は大きく報道され、事件への注目を再び集めるきっかけになりました。

 

その一方で、この報告書は激しい論争を引き起こしました。かつて後遺症の有無を検討した医師や森永は、科学的な裏付けがないと反論したのです。しかし、被害者の親たちは心の奥に封印していた疑念が真実だと確信しました。

 

学術調査

この論争に終止符をうつ学術調査が専門家たちによって行われました。調査の中心となった元岡山大学医学部衛生学教授の青山英康さんは、疫学調査が必要だと考えていました。森永のミルクを飲んだ集団と飲まなかった集団とを比較し、統計的に原因を明らかにする方法です。

 

青山さんたちは2つの集団を適切に比較できる地域を探し始めました。辿り着いたのは広島市郊外の瀬野川地区です。一定数の被害者が地域で暮らし続けていた上、母乳か粉ミルクかの育児記録が地域の保育所に残されていたのです。

 

青山さんたちは、この記録をもとに健康状態について詳細な調査を行いました。その結果、森永の粉ミルクを飲んだ集団では発育・発達の遅延、病気になりやすい歯や骨格の異常など10項目で明らかな差がでました。被害者の家族たちは国や森永乳業に後遺症の存在を認めるよう強く訴えました。その活動は世論を動かし、森永製品の不買運動も広がりました。

 

恒久救済

昭和48年12月、森永乳業は恒久救済を受け入れ、国・被害者団体との合意書に調印しました。後遺症に対する因果関係を全面的に認め、さらに当時ヒ素ミルクを飲んだ全員を救済する画期的なものでした。

 

恒久救済では生活の援助に加えて、教育や就労の支援、さらにヒ素中毒の後遺症について生涯に渡って調査を続けていくことなどが約束されました。

 

石川さんにも救済が始まりました。生活のための手当てが支給され、教育の支援も受けられるようになったのです。しかし、母親の表情が晴れることはありませんでした。ミルクを飲ませた自責の念に苦しみ続けていたのです。その後、体調を崩し石川さんを施設に預けた母。その直後は精神的に不安定な時期が続きました。

 

60年経った今も被害者と家族の不安は消えていません。ヒ素には強い発がん性があるからです。これまで後遺症がなかった被害者の中にも、健康への不安を抱える人がいます。救済事業ではがんの発症率などの疫学調査を実施し、検討を続けています。

 

一方、親の世代はすでに亡くなった人が多くなりました。60年という節目を迎えても、母親たちの心の区切りはつきません。

 

「ETV特集」
~母と子 あの日から~
森永ヒ素ミルク中毒事件60年

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