ロシアの子供たち800人を救った日本人 茅原基治と勝田銀次郎|ありえへん世界

テレビ東京の「ありえへん世界」世界と日本の知られざる絆SPでロシアで数千万円の私財を投じ命がけの大航海で800人のロシアの子供を救った日本人について放送されました。勝田銀次郎(かつだぎんじろう)さんは1873年に愛媛県松山市で生まれました。18歳の時、現在の青山学院にあたる東京英和学校に入学。その後、海運業の世界に飛び込みました。そして27歳にして独立し、貿易会社「勝田商会」を設立。1918年、海運業界で活躍していた勝田銀次郎さんですが、ロシアではロシア革命が起こっていました。ペトログラードは革命により治安が悪化し深刻な食糧不足に。そこで親は子供たちを遠く離れた田舎ウラル地方へ疎開させました。しかし、避難した田舎町にも戦火が襲い、幼い子供たちは難民のような状態に。その数800人。そんな中、米国赤十字が800人の子供たちを保護し、ウラジオストクの施設に移送しました。さらに800人の子供たちの救出計画を立てました。それは一旦ロシアを離れ子供たちを故郷ペトログラードに近い安全なヨーロッパへ海路で移送し、その後ロシアの混乱が落ち着いたのを見計らい親元に帰すという計画。米国赤十字は関係各国の船舶会社に難民となった800人の子供たちの移送を依頼。しかし船舶会社の返事は全てNOでした。世界中のどの国の会社も子供たちの移送を引き受けてはくれませんでした。アメリカ、イギリス、フランスなど資本主義を掲げる各国はロシア革命により新たな社会主義を掲げるロシアに脅威を感じ敵対していたからです。そんな中、米国赤十字は最後の望みをかけ子供たちの移送の依頼を日本の海運会社にも送りました。その中の一つが勝田銀次郎さんの会社でした。

 

その申し出が届いた1920年は、日露戦争が終結してから十数年。さらに革命によって世界初の社会主義確立を目指したロシアと資本主義を掲げる日本は敵対関係にありました。勝田銀次郎さんは苦悩しました。もし日本と敵対関係にあるロシアの子供たちを助ければ日本中から非難され、彼の会社は倒産へと追い込まれかねない状況だったからです。さらに勝田銀次郎さんの会社は物資を運ぶ海運会社だったため800人もの子供が寝泊り出来る客船はありませんでした。それでも勝田銀次郎さんは800人のロシアの子供を助けることにしました。この決断に反対する社員は誰一人いなかったと言います。そして会社で一番新しい貨物船「陽明丸」を客船に改造。800人もの子供が長期間移動できるよう洗面所・トイレ・寝る部屋などを増築。しかも、その船の改造費は会社のお金ではなく、その多くを勝田銀次郎さんが自らの私財を投げ打ち払いました。その金額は現在の通貨価値で数千万円に。通常なら1年はかかる大掛かりな客船への改造でしたが、約1ヶ月という短期間で船を仕上げました。

 

しかし、勝田銀次郎さんにはまだ解決しなくてはいけない問題がありました。それは陽明丸を運航する船長を決めること。様々な船乗りに船長を依頼しましたが、「ロシア」「800人の子供」という言葉にみな乗船を拒否。さらに子供を移送する航路には第一次世界大戦中に仕掛けられた機雷が多く残っていました。しかし茅原基治(かやはらもとじ)さんが名乗りを上げました。茅原基治さんはこれまで数々の航海の実績があり、伝説の船長として名を馳せた人物でした。

 

1920年7月、陽明丸は神戸を出発し、子供たちのいるロシア・ウラジオストクに到着。しかし、茅原基治さんに向けられたのは子供たちの戸惑いの表情でした。日露戦争の記憶がまだ強く残っていた当時、日本にとってロシアがそうだったように、ロシアにとっても日本はかつての敵国だったのです。ロシアの子供たちは自分たちを助けるといって現れた日本人を前に、どう接すれば良いのか分からなかったのです。茅原基治さんはロシアの子供たちと信頼関係を築きたいと考えていました。航海の途中、日本へ寄り少しでも日本を知ってもらいたいと思ったのです。しかし、敵対関係にあったロシアの子供たちに日本への上陸許可は下りていませんでした。そこで、日本の北海道室蘭に寄航。全ての責任を自らが取るという条件でロシアの子供たちの日本上陸許可を得ました。日本上陸を許可された子供たちと向かったのは室蘭にある小学校でした。茅原基治さんは役所にお願いしロシアと日本の子供が触れ合う機会を設けてもらいました。言葉は通じなくても子供同士。仲良くなるのにそう時間はかかりませんでした。こうして日本人の温かさがロシアの子供たちの心の雪を溶かしてくれたのです。そして室蘭を出港した陽明丸はフィンランドへ。本格的な大航海が始まりました。そして茅原基治さんと子供たちの関係にも変化が。茅原基治さんは子供たちのためにハーモニカを演奏し、子供たちも音楽に合わせて踊り楽しい時間を過ごしたと言います。子供たちは茅原基治さんのことを「ニイサン」と日本語で呼んでいました。

 

ところが多くの子供たちが日射病で倒れてしまいました。寒いロシア育ちの子供たちを赤道直下の太平洋の暑さが苦しめていたのです。茅原基治さんは子供たちを夜を徹して必死に看病し支え続けたと言います。看病のかいもあり子供たちの病状は快方へ。そして数ヵ月後、船はフィンランド近くにまで到着。しかし、当時のヨーロッパの海には第一次世界大戦中に海に仕掛けられた機雷が数多く残っていました。それでもフィンランドに子供たちを届けるためには、この海を通るしかありませんでした。茅原基治さんは細心の注意を払い機雷が浮かぶ危険海域を進みました。そして命懸けの航海を始めてから3ヶ月、フィンランドに到着しました。その後、子供たちは無事に故郷ペトログラードへ戻り親との再会を果たしました。

 

なぜこの物語は約90年もの間、世に出ることが無かったのでしょうか?それは航海に関わった日本人乗組員が勝田銀次郎さんと茅原基治さんが非国民扱いされないよう固く口を閉ざしてきたからです。ところが祖父母が日本人に助けられたオルガ・モルキナさんによって、この物語が世に知られることに。命の恩人である2人の日本人にお礼が言いたいと考えていたオルガさんは2009年、北室南苑さんという日本人とロシアで出会いました。そこで当時の救出劇を語り、初めて奇跡の物語は日本に伝えられたのです。北室さんは日本に帰国後、オルガさんのために2人の日本人の消息を知ろうと尽力。勝田銀次郎さんと茅原基治さんのお墓を突き止めました。するとオルガさんは2011年に日本へ。祖父母の遺志を継ぎ感謝を意を伝えることが出来たのです。