西郷隆盛の肖像画 消えた首に秘められた死の真相|たけしの新・世界七不思議大百科

テレビ東京の「たけしの新・世界七不思議大百科 第5巻」で西郷隆盛の肖像画 消えた首に秘められた死の真相について放送されました。

 

城山は日本史上最大の内戦・西南戦争最後の激戦地になった場所です。西郷隆盛は城山で自決し最期をむかえました。明治10年9月24日、西郷隆盛の遺体は発見されました。しかし、遺体には首がありませんでした。政府軍が必死に捜索した結果、屋敷の庭先に隠されていた首を発見。山県有朋らが確認し西郷隆盛の死が発表されました。ところが、人々はそれを信じようとはしませんでした。見つかった西郷隆盛の首は偽物、生き延びてシベリアにいる、さらには星の中に西郷隆盛の姿が見えるという噂が広がり、そのころ地球に接近していた火星が「西郷星」と呼ばれ大騒ぎになりました。西郷隆盛の首の真贋論争はつい最近まで続きました。2014年、西郷隆盛の首を発見した将校の履歴書が発見されました。履歴書に書かれていたのは西郷隆盛の首を見つけた時の詳細。死後、100年以上を経てようやく首を発見した経緯が証明されたのです。長きに渡り首にまつわるミステリーが語り継がれてきた原因は西郷隆盛の写真がない、彼の本当の顔が知られていないことにありました。

 

西郷隆盛は写真を撮ることを極端に嫌っていました。そのため、彼の死後様々な肖像画や彫像が遺族や彼を慕う人たちによって作られました。上野にある西郷隆盛像ですが、妻からは「こげんなお人じゃなかった」と酷評されました。その後、鹿児島にも銅像が作られましたが、西郷隆盛と顔つきや体つきがそっくりだと言われた石澤宏太郎さんをモデルに作られています。

 

最も有名で教科書にも載っている西郷隆盛の肖像画は、当時日本に招かれていたイタリア人画家エドアルド・キヨッソーネが息子の菊次郎の依頼で描いたもの。実は、顔の上半分を弟、下半分を従弟の顔をモデルに彼の顔を知る親族の助言をもとに描かれました。

 

伊東潤さんは、西郷隆盛は自決ではなく殺された可能性があると言います。疑惑の舞台は明治10年の西南戦争。この戦いを仕組んだのは大久保利通です。当時、政権のトップに君臨していました。大久保たち新政府の改革に不満を持つ士族たちが各地で反乱を起こしていました。そのリーダーに期待されていたのが西郷隆盛だったのです。その頃、西郷隆盛は意見の対立から政府を離れたばかりで、大久保利通は政府に不満を持つ西郷隆盛に挙兵させ討ち果たせば全国の不平士族の反乱も抑えることができると考えました。そこで、西郷隆盛が鹿児島に作った私学校という軍事学校に揺さぶりをかけました。大久保は23人もの警視庁の巡査を密偵に仕立て鹿児島に放ちました。しかし、真の狙いは別にありました。大久保らが西郷隆盛の暗殺を企てているという情報をあえて流し蜂起させることが狙いだったのです。計画通り、私学校の若者たちはいきりたち挙兵を西郷隆盛に促しました。しかし、西郷隆盛は立ちませんでした。大久保たちは次なる手をうちました。薩摩藩の時代から戦のために用意していた火薬庫から武器・弾薬を取り上げ、運び出させたのです。これに激怒した私学校の若者たちは西郷隆盛の指示もあおがず暴動を起こしてしまいました。西郷隆盛は決断を迫られました。首謀者の引き渡しか全面戦争かです。西郷隆盛はついに挙兵を決意しました。

 

なぜ西郷隆盛と大久保利通は敵対してしまったのでしょうか?西郷隆盛と大久保利通は薩摩藩の下加治屋町で育ちました。貧しい下級武士の家に生まれた二人。西郷隆盛は3つ下の大久保利通をとてもかわいがり、二人は兄弟のような間柄だったと言います。明治維新という奇跡の原動力となった二人の絶妙なパートナーシップ。しかし、二人の間に思わぬことが起こりました。明治4年11月、大久保利通は海外使節団の一員として欧米諸国の視察と不平等条約の解消のため旅立つことになりました。西郷隆盛が留守政府を預かりました。二人の間では、留守の間に内政には手をつけないという約束が交わされていました。しかし、産声を上げたばかりの日本を1年半も放っておくわけにはいきませんでした。西郷隆盛は廃藩置県という一大改革を軌道に乗せると司法制度を整え、学制や徴兵制、地租改正などを次々と実行しました。帰国した大久保利通はこれに激怒しました。そして明治6年、朝鮮に使節を派遣する外交をめぐり2人は衝突。大久保利通は策略をめぐらせ西郷隆盛を政府から排除。世にいう明治6年の政変です。西郷隆盛はこれを機に鹿児島へと戻りました。そして、大久保利通にとって最も危険な存在になったのです。

 

西南戦争がはじまりました。西郷隆盛の首を狙う政府軍と、必死に守る薩摩軍の戦いは激戦をきわめ日本史上最大の内戦となりました。記録によれば明治10年9月24日未明、城山に立て籠もった薩摩軍は政府軍から総攻撃を受けました。その最中、西郷隆盛は敵の銃弾を2発うけ動けなくなりました。西郷隆盛はその場で介錯を求め自決したと言われています。しかし、このとき西郷隆盛が受けた銃弾こそ疑惑の銃弾だと伊東潤さんは言います。

「西郷は政府軍に投降しようとしていたのではないかと思うんですね。投降によって自分たちの決起の意義を国民に問うつもりでいたんではないかと思っているんですね。ただし、それを許せなかった男がいるんですよ。その男は桐野利秋だと思うんですね。」(伊東潤さん)

桐野利秋は西南戦争を実質指揮した西郷隆盛の側近。年上の西郷隆盛を神のように崇めていました。伊東潤さんによれば、最初の銃弾は桐野だったと言います。そして2発目を撃ったのは、もう一人の側近である村田新八でした。彼は桐野の気持ちを理解していました。西郷隆盛を敵の手には決して渡したくなかったのです。

「西郷隆盛に対する崇敬の念は彼らの心の中に刷り込まれているわけですね。ですから、彼らは彼らで西郷の取り合いを演じてきたわけですし、それが最終的に積もりに積もって西郷先生の死は薩摩の国の故郷で、しかも自分たちの手で葬りさらなければいけないという、そういう考えにまでいってしまったんだと思います。桐野の村田も最終的には『俺の西郷さん』を渡したくなかったのです。」(伊東潤さん)

そんな思いが最も強かった人物こそ大久保利通でした。彼は西郷隆盛の死の知らせを聞き号泣したと言います。

 

西南戦争の翌年、大久保利通は不平士族の一人に暗殺されました。実はこのとき大事に身に着けていたのは、かつて西郷隆盛から受け取った手紙でした。海外の視察先から自分の写真を送ったことへの返事でした。

「醜態を極まる。もう写真を撮るのなどやめなさい。」

手紙にはそう書かれていました。




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