ロシア革命 100年後の真実|ETV特集

NHK・Eテレの「ETV特集」でロシア革命 100年後の真実が放送されました。ロシア革命は世界初の社会主義革命です。建国されたソビエトは20世紀の世界をアメリカと二分しました。そのソビエトが崩壊した今、ロシア革命への評価は割れています。1917年10月25日、レーニンが指揮した労働者兵士は宮殿を襲撃しました。10月革命です。レーニンは搾取のない平等な労働者の国を作ろうと呼びかけました。工場を国有化し、土地を分配、働く者のユートピアを作ろうとしたのです。実は、この革命の裏に外国からの支援があったことが明らかになりました。ドイツがロシア革命に100万ルーブルの資金援助をしていたのです。当初は革命を歓迎していた農村ですが、レーニンが強制的な穀物徴収を行うと反乱がおこりました。抵抗する農民への過酷な弾圧を示す資料が初めて公開されました。毒ガスの使用命令書です。この事実は長い間隠されてきました。貧困のない労働者の国を目指したレーニン。なぜ革命はテロへと向かっていったのでしょうか。

 

20世紀初頭、ロシアではロマノフ王朝の支配が300年続いていました。一握りの貴族や大地主が国中の富を握り優雅な宮廷生活を送っていました。その中心にいたのは皇帝ニコライ2世でした。一方、国民の大多数を占める農民や労働者は貧しい暮らしを強いられていました。青年たちは圧政を続ける帝政を打倒し新しい社会を作ろう革命を目指しました。1904年、日露戦争が始まりました。日本軍の猛攻に旅順が陥落。ロシアは劣勢に追い込まれていきました。首都では戦争に反対する人々がデモを行い軍隊が発砲。多数の死者を出しました。当時、ウラジーミル・イリイチ・レーニンは革命運動で国を追われスイスに亡命していました。下級貴族の家に生まれたレーニンは虐げられた人々を解放したいと学生時代に革命運動に飛び込みました。そして、亡命先から祖国の人々に呼びかけたのです。

「旅順陥落。専制政治は弱体化した。革命を最も信じていなかった人でさえ、それを信じ始めている。ロシアのプロレタリアートは革命の攻撃を広げるよう努力しなくてはいけない。」

レーニンの呼びかけにロシアの労働者たちは戦争反対、帝政打倒の声を強めていきました。実は、この革命の動きに日本が関わっていました。ロシア警察は一人の日本軍人の行動を追っていました。明石元二郎(あかしもとじろう)大佐です。明石元二郎はヨーロッパを中心に密かにロシアの革命家たちと連絡を取り支援していたのです。明石は参謀本部の謀略工作として革命派に資金を提供していました。革命派はそれを宣伝活動にあてストライキなどを組織していきました。結局、皇帝ニコライ2世は民衆の要求に応え国会開設を約束。革命運動は収束しました。

 

スイスで亡命生活を送っていたレーニンは次の革命の計画を練りました。レーニンの革命理論の基礎となったのはマルクス理論です。マルクスは資本主義の後に労働者が国の主人になる社会主義の国家が登場すると説いていました。世界でまだ誰も見たことのない社会の形がレーニンの心を捉えたのです。

 

1914年、レーニンに新たな革命の機会が訪れました。第一次世界大戦です。ヨーロッパ全土に広がり、ロシアは連合国側に立ちドイツと戦いを繰り広げました。ロシアの損害は大きく、開戦2年半で250万人の兵士が戦死。兵士たちの不満は戦争を続ける皇帝へと向かっていきました。レーニンは急進的な労働者を中心にボリシェビキ党を立ち上げました。そんなレーニンに敵国ドイツの支援者が現れました。ドイツ財務省の電報に「ゲリファンドに100万ルーブル支払うように」と残されています。イズラエル・ゲリファンドは当時ロシアからドイツに亡命してレーニンと共に革命を目指していました。なぜドイツは多額の資金を送ったのでしょうか。ゲリファンドはドイツ外務省にロシアに革命を起こして戦争から離脱させるための行動計画を送っていました。一方、ドイツのウィルヘルム2世はロシアを内部から崩壊させようと考えました。ゲリファンドの要望に応え、レーニンら革命派への支援を決定したのです。

 

ロシア国内では戦争への不満が増大し、帝政打倒の動きが強まっていきました。しかし、ニコライ2世は戦争に勝利すればおさまると対策をとらずにいました。1917年にはいると都市の労働者たちによるストライキが各地で頻発。首都ではパンが不足し長い行列ができました。女性たちがパンを求めてデモを行い、労働者がゼネストにはいり首都は混乱状態に陥りました。皇帝はデモ隊に発砲。非常事態を宣言しました。しかし、民衆の争乱をおさえきれずロマノフ王朝は崩壊しました。2月革命です。皇帝一家は逮捕され後に銃殺されました。

 

人々は300年続いたロマノフ王朝の圧政から解放されたと革命を歓迎しました。3月、臨時政府が成立。ロシアの民主的ブルジョアジーの政党カデットを中心とした連立政権でした。レーニンが率いるボリシェビキ党はまだ勢力が弱く参加できませんでした。臨時政府は言論や集会の自由、憲法制定会議の招集を約束しました。しかし、人々が最も望んだ戦争の終結は行わず継続を決めたのです。レーニンは資本家が力を持つ臨時政府が国民の期待に応えられないとみていました。

「もっと広範に新しい層を立ち上がらせよ。武装した労働者ソビエトが権力を奪取した時のみ平和は訪れると証明せよ」

レーニンは亡命先から労働者の組織ソビエトに新たな革命を準備せよと命じました。一方、戦況が思わしくないドイツは焦っていました。ウィルヘルム2世はレーニンをロシアに一刻も早く返し革命を起こさせようとしました。レーニンはドイツの誘いに応じ、帰国を決意しました。1917年3月末、レーニンを乗せた列車はチューリッヒを出発しました。秘密裏に敵国ドイツ領内を通過するため列車は封印されました。レーニンは32人の革命家を引き連れドイツを走り抜けたのです。その後、戦場を避けてスカンジナビア半島に渡りロシアに入りました。4月3日、ペテログラードの駅に到着。人々は熱狂的に出迎えました。到着後すぐにレーニンは列車の中で書いた「4月テーゼ」を発表。10項目の革命の指針でした。人々が待ち望んでいた終戦が約束されました。前線ではレーニンの戦争を辞めようという呼びかけに数百万の兵士が自ら戦線を離脱していきました。

 

一方、首都のペトログラードでは7月、労働者と兵士40万人のデモが行われました。人々は臨時政府打倒、全ての権力をソビエトへと叫びました。このデモに臨時政府が発砲。人々の怒りはピークに達しました。このとき、レーニンは自らの革命理論を確立し、来るべき社会主義国家を構想していました。「国家と革命」を執筆。革命は暴力をもってのみ遂行されると訴えました。レーニンは革命の機は熟したとボリシェビキ党に武装蜂起を命じました。1917年10月25日、橋・駅・鉄道・電信電話局・銀行など国の要所をおさえました。その夜、戦艦オーロラ号の砲撃を合図に臨時政府が置かれた宮殿を襲撃。当時、宮殿を守っていたのはユンケル(青年部隊)でしたが、抵抗はほとんどありませんでした。レーニンはボリシェビキ党が政権を奪取したと宣言しました。そして翌日、2つの布告を出し人々の期待にこたえました。平和に関する布告で、全ての交戦国に講和を呼びかけました。翌年3月、ドイツとブレストリトフスク条約を結び戦争を終結させました。もう一つは土地に関する布告です。土地は全人民の所有となり私有が禁止されました。地主から土地が没収され農民に均等に分け与えられました。

 

この10月革命は、学校でどのように教えられているのでしょうか。ロシア革命の名称は歴史の中で変化してきました。ソビエト時代は「偉大なる10月社会主義革命」と呼ばれていました。しかし、現在は「1917年10月の出来事」と教えられています。生徒たちにとってロシア革命は曾祖父母たちの時代の出来事です。レーニンの名前も街中の銅像で知っているくらいです。家庭でもほとんど話題にのぼることはないと言います。

 

10月革命で権力を掌握したレーニンですが、生まれたばかりのボリシェビキ政権は脆弱でした。ブルジョアや官僚たちは新政権に抵抗しました。これに対しレーニンは1917年12月、非常委員会チェカ、後のKGBを設置。反革命の活動を厳しく取り締まっていきました。

「障害物は払いのけねばならない。そのために過去の価値あるものを破壊しなければならないなら涙も感傷もなしにそうしよう。そしてさらにすばらしいものを打ち立てよう。」(トロツキー著「レーニン」より)

社会主義国家建設が急速に進められ835の工場が国有化されました。資本家は国外に去り、名実共に労働者の国が作られていきました。1917年11月、レーニンが国民に約束した憲法制定議会選挙が行われました。しかし、選挙の結果はレーニンの期待を裏切るものでした。第一党になったのは農村で力を持っていた革命勢力エスエルで410議席。都会の労働者を中心とするボリシェビキは175で第一党をとることができなかったのです。レーニンは議会初日に強硬な手段に出ました。ボリシェビキは強制的に議会を封鎖。議会制民主主義を否定したのです。そもそもレーニンは議会制について懐疑的でした。

「ブルジョア議会制の本質は支配階級の誰が人民を抑圧し蹂躙するのか数年に一度決めるものである。国家に関わる仕事は省庁や官房などで行われており議会では庶民の目を欺くことを目的に駄弁を弄しているに過ぎない。」(レーニン著「国家と革命」より)

レーニンはこれから予想されるボリシェビキへの攻撃に対し、断固として戦う姿勢をうちだしました。

「プロレタリアートは搾取者の抵抗を抑えこむために中央集権的な権力組織、暴力組織を必要とする。」(レーニン著「国家と革命」より)

革命の翌年、反革命勢力はロシア各地で独立政府を次々に宣言。勢力を拡大していきました。このとき、ボリシェビキ政党の統治下にあったのは国土の10分の1程でした。さらに、社会主義の波及を恐れた各国は干渉軍を送りました。イギリス、ドイツ、フランスは西から、トルコは南から、日本とアメリカは東からシベリアに派兵しました。ボリシェビキ政権は反革命の輪に囲まれていきました。これに対してレーニンは労働者、農民などによる赤軍を組織。内戦が始まり瞬く間に全土に広がっていきました。さらに、飢饉が襲いました。革命で地主から解放された農民は都市への穀物の供給をストップさせました。首都では食糧が不足し闇屋が横行。飢餓がはじまり馬や犬、猫までいなくなる状況に陥っていきました。レーニンは事態を打開するため、食糧徴発部隊を農村に派遣。強制的に穀物や畜産物を徴収しました。種もみまで持っていかれ農村にも飢えが広がっていきました。ようやく自分の土地を得た農民たちは激しく反発しました。これに対してレーニンは農民を富農・中農・貧農に分け抵抗の強い富農の追放に力を注ぎました。

 

ロシアの中でも富農が多かったタンボフには食糧徴発部隊が50も派遣されました。しかし、タンボフでも日照りが続き農村は飢えに苦しんでいました。1920年、小さな村から始まった農民の反乱は、やがてタンボフ県全体に広がり反乱軍は3万人に膨れ上がりました。レーニンは10万人の赤軍部隊をタンボフへ派遣しました。タンボフの反乱はソビエト時代タブーとされてきました。2005年になってようやく博物館に展示室が作られました。当時、カザン男子修道院は赤軍の本部が置かれていました。蜂起した農民たちの家族がここに連行されました。取り調べでは拷問も行われたと言います。そして裁判なしで銃殺されました。それでも農民たちの激しい抵抗はやみませんでした。赤軍の司令官は過酷な命令を出しました。

 

1921年6月21日「タンボフの反乱に参加した者に毒ガスを使用する」というものです。当時、ロシアには第一次世界大戦の時に製造された毒ガスの砲弾が大量に残されていました。追い詰められた農民たちが隠れていた森に毒ガス弾が使われ、多くの農民が呼吸困難で命を落としました。1万4000人もの農民が殺され、反乱は鎮圧されました。タンボフ県は近隣の州に分割され地図から消されてしまいました。

 

根強い農民の抵抗にレーニンは根本的な方向の転換を迫られました。1921年、食糧徴発制度を廃止し、農民が自由に取引できる範囲を広げました。新経済政策(ネップ)が始まりました。国有化された企業の多くは民間企業に戻り、農民に余剰農産物の自由販売を認めました。レーニンはネップによって新しい社会主義の建設を進めようとしました。経済の自由化と共に政治的自由の復活、言論、出版の自由を求める動きがあらわれレーニンを警戒させました。政権の崩壊を恐れたレーニンは一部市場経済を復活させつつも、より厳しい反革命思想への攻撃を始めました。まずターゲットになったのは教会でした。1922年2月、教会の資産没収を定め、これに抵抗する教会は破壊され聖職者は逮捕、処刑されました。さらに5月、レーニンは反革命的な教授、作家などインテリを国外に追放しロシアの浄化を目指すという命令を出しました。

 

1922年、国内の争乱がおさまりソビエト社会主義共和国連邦が建国されました。資本家のいない平等な社会、失業者ゼロ、教育、住居、医療は無料。全てを国家が計画し管理する社会が世界で初めて誕生したのです。その後、70年にわたりソビエトは20世紀の世界を二分する社会主義政権の名手となりました。

 

1922年、脳梗塞で倒れたレーニンは療養しながら党への指示を出し続けていました。レーニンの最後の仕事は農民が自立的に運営する協同組合についての考察でした。

「農民を文明化された協同組合員にすること完全な社会主義国になるためにはこの文化革命を必要としている」(「レーニン全集」より)

レーニンは農民の文化水準を引き上げ新しい社会主義的人間を創造していくことが重要だと強調しています。最後までレーニンはこれまでにない国の形を求め試行錯誤を続けていました。

「偉大で困難な事業には何度でも最初からやり直す能力が必要だ。袋小路に入ったらもう一度やり直せ。そしてもう10回やり直して目的を達成せよ。」(「レーニン全集」より)

1924年1月21日、レーニンは53歳で亡くなりました。その後を継いだスターリンはネップを廃止し、計画経済を進め反対派を粛正し独裁を強めていきました。それはレーニンが描いた理想の社会とは異なるものでした。




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