本土空襲 全記録|NHKスペシャル

NHK総合テレビの「NHKスペシャル」で本土空襲 全記録が放送されました。空襲の実態は、これまでそれぞれの街では語られてきましたが、全体像となるとあまりに空襲の数が多く明らかになっていません。今年、空襲の実態を示す映像がアメリカで新たに発掘されました。178カットにおよぶ戦闘機から撮影された映像です。アメリカ国立公文書館にも大量の映像や攻撃記録が眠っていました。

 

超空の要塞と呼ばれるB-29は、アメリカ軍による日本本土空襲の主力でした。第二次大戦中、4年の歳月と30億ドルの巨額の費用をかけて開発されました。B-29の航続距離は従来の1.5倍、6000kmに及びます。このB-29が本格的な本土空襲を可能にしました。機体の腹には爆弾40発を搭載。焼夷弾なら1度に1000発を投下できました。

 

本土空襲が始まる1年前、アメリカ軍は攻撃目標のリストを作成していました。標的は日本全国1000か所を超えていました。兵器工場や飛行場、航空機産業など軍事関係の施設に限定して精密爆撃を行うことが当初の計画でした。1000の攻撃計画からアメリカがまず目標に選んだのは東京の中島飛行機 武蔵製作所でした。この計画のためにアメリカはサイパンをおさえようとしていました。サイパンから東京までは2400km。サイパンにB-29の基地を作れば爆弾を積んでも日本まで往復できます。サイパンがあるマリアナ諸島をめぐって日米の熾烈な戦いが始まりました。当時、アメリカは太平洋で日本の勢力圏を次々と奪っていました。日本にとってマリアナ諸島は本土防衛の要だったため激戦となりました。1944年7月、サイパンは陥落しました。当時、島に住んでいた日本の民間人も巻き込まれ日本側は合わせて5万人が犠牲となりました。しかし、アメリカ側もこの攻防で3400人が戦死。日米互いに憎しみを募らせました。サイパンに100機を超えるB-29が集結しました。

 

狙われた軍事施設

1944年11月、最初の攻撃目標、東京の飛行機工場に向けB-29が飛び立ちました。標的は中島飛行機 武蔵製作所。中島飛行機は日本の主力戦闘機のメーカーで、ここではゼロ戦のエンジンを作っていました。工場を狙った空襲の映像を見ると、ほとんどの爆弾が標的から外れ工場の外に落ち、市民にも犠牲者が出ました。アメリカ軍に機密文書にはB-29、24機が爆弾231発を投下したものの、命中率はわずか7%、満足できない結果だと記されています。東京の後、愛知・兵庫の飛行機工場も爆撃されました。2か月で13回の空襲が繰り返されました。しかし、これらの空襲に参加したB-29のべ1031機のうち当初の目標を爆撃できたのは半分にすぎませんでした。

B-29は日本軍の迎撃を避けるため一万メートルもの高度で飛んでいました。そこは風速100メートルのジェット気流が吹き荒れ、厚い雲が視界を阻む空でした。アメリカ軍が計画した精密爆撃は行き詰っていました。

 

無差別爆撃へ

アメリカ陸軍航空軍は日本本土空襲の指揮官を更迭し、カーチス・ルメイを呼び寄せました。彼は都市への無差別爆撃でドイツを苦しめた指揮官です。ルメイは本土空襲の方針を精密爆撃から無差別爆撃へと大きく転換させました。軍需工場に当てるのが難しいなら都市全体を住民もろとも標的にしようという作戦です。民家の中には小さな工場も入り混じっていると無差別爆撃を正当化しました。

「日本人は薄っぺらい木造家屋が密集した街で暮らしている。そこで日本の2階建ての家屋を再現し焼夷弾による延焼実験を行った。」(カーチス・ルメイ)

ルメイは本土空襲用の兵器として新型の焼夷弾を採用。粘り気を加えたガソリンが充填されています。燃焼力を高め、消火しにくい工夫もこらしたのです。アメリカは実物大の日本の家屋を再現し、実験を繰り返しました。

1945年3月10日、焼夷弾を満載したB-29、325機が日本に向かいました。東京大空襲です。新型焼夷弾32万7000発が住宅密集地にバラまかれました。この空襲で12万を超える人々が犠牲になったとみられています。

暮らしを根こそぎ奪われた日本の市民の間に、復讐を誓う声が高まりました。一方のアメリカ、ルメイは空襲の翌日「私は約束する。もしジャップがこの戦争を続ける気なら奴らにはすべての都市が完全に破壊される未来しか待っていない」と宣言しました。ルメイによる無差別爆撃が実行にうつされた背景には何があったのでしょうか?

1938年から日本は当時国民政府の臨時首都だった重慶を長距離爆撃機で200回以上空襲。焼夷弾を使った攻撃で1万人以上が犠牲になりました。都市に継続的な無差別爆撃を行った史上初の例でした。日本への爆撃は当然だとみる空気がアメリカにはあったのです。

東京大空襲の翌日から、他の大都市にも無差別爆撃が次々と行われました。名古屋・大阪・神戸など192万発の焼夷弾による空襲で市街地が焦土と化しました。本土空襲による犠牲者は累計で14万人を超えました。

一方、アメリカ軍のB-29にも日本の迎撃部隊の応戦で損害が出ていました。空襲開始から4か月でアメリカ軍が失ったB-29は105機。搭乗員の死者・行方不明者は864人。捕虜になる者も多くいました。

 

戦闘機による攻撃

空襲が拡大した背景には硫黄島がありました。アメリカは日本から硫黄島を奪い、最新鋭の戦闘機を配備しようとしていました。戦闘機は航続距離が短く、サイパンからは日本を攻撃できません。硫黄島に基地があればそこから出撃し、B-29を護衛して共に日本を空襲することができます。硫黄島をめぐる争奪戦は熾烈なものとなりました。1か月後、アメリカは硫黄島を占領。そこに、B-29の護衛を専門とする部隊・第7戦闘機集団が配備されました。最新鋭のP-51戦闘機100機以上が本土空襲に加わることになりました。

ジェリー・イェリンさん(93歳)はP-51の元パイロットです。愛車のナンバーは「P51-IWO(硫黄)」です。ジェリー・イェリンは4か月に渡って日本への空襲に加わりました。

「ゼロ戦がB-29を攻撃しようとしていました。そのゼロ戦を私は背後に回って撃ちました。パイロットがパラシュートで脱出しそのまま私の目の前まで飛んできて一瞬目があいました。ゼロ戦がいなくなったのでB-29は爆撃をはじめました。日本人が焼け死んだところで彼らは所詮人間ではなく敵。それが戦争なのです。硫黄島では7000人近い仲間のアメリカ兵が殺されました。私は仲間の死体のにおいを毎日嗅いでいたんです。敵陣の真っただ中につっこんで日本人を殺すんだ、という殺意が私の胸にあったことは確かです。」(ジェリー・イェリン)

P-51部隊が護衛についたことで日本は急激に制空権を失っていきました。このことが本土空襲を地方の軍事都市にまで拡大させました。そして、日本の戦闘機が迎撃してこなくなったので、B-29の護衛は不要になりました。そこで、P-51に与えられた新たな任務が地上への攻撃でした。標的は飛行場に並ぶ軍用機や燃料庫。超低空から肉眼で見ながら攻撃し、日本の戦闘力を徹底的に奪っていきました。1945年6月中旬までにB-29の爆撃と戦闘機の低空からの銃撃で主だった飛行場や軍事都市は軒並み破壊されました。本土空襲開始からの犠牲者は18万人を超えました。

 

狙われた鉄道

アメリカ軍は攻撃の手を緩めず空襲の範囲をさらに広げていきました。これまで標的となった40の都市に加え、北海道を含む地方の中小都市180にまで目標を拡大。もはや大都市には破壊すべき標的がなくなり、空襲と無縁だった街も次々と攻撃されるようになりました。1945年7月にはターゲットとして鉄道が狙われるケースが急増。攻撃された場所の数は一か月で160か所にのぼりました。この頃、日本の飛行場に戦闘機は少なくなっていました。パイロットは自らの判断で目標を変更し撃って良いとされていました。これは臨機目標と呼ばれました。このことが攻撃対象をさらに拡大させていったのです。

「機銃掃射のターゲットは地上で動くものすべてでした。日本にあるすべてのものが臨機目標だったんです。そこに人がいようといまいと関係ありません。私は飛行機から敵を撃ちまくることに夢中になっていたんです。」(ジェリー・イェリン)

北海道から九州まで全国各地で繰り返された鉄道への攻撃。日本を支えてきた輸送網がたちまち切られていきました。鉄道への空襲で2311人が犠牲になりました。

 

狙われた九州

終戦直前、P-51をはじめアメリカ陸軍航空軍による空襲の40%以上が九州に集中していました。なぜなのでしょうか?

アメリカが九州から本土上陸を果たそうとする作戦「オリンピック作戦」を進めていたからです。鹿児島と宮崎の海岸から上陸し、九州南部を攻略。そこを拠点にB-29で関東を空襲し、日本を降伏に追い込む計画でした。一方、日本軍はこの作戦を事前に察知。各地から部隊を送り込み、九州の守りを強化しました。かき集めた兵力は60万人にのぼりました。本土空襲をめぐる憎しみの連鎖は、九州で後戻りできない最悪の事態へとエスカレートしていきました。各地から動員されてきた部隊は海岸で奇妙な訓練を開始しました。それは爆弾を抱えて戦車に飛び込む特攻の訓練でした。上陸をはばもうと日本が準備したのは特攻作戦でした。

 

特攻 憎しみの連鎖

大本営が策定した「決号作戦」は本土上陸を狙うアメリカ軍に全兵力を上げた特攻で打撃を与えようとする作戦でした。決号作戦にそなえて空と海の様々な特攻兵器が開発され九州に配備されました。九州南部だけで40か所の特攻基地が建設されました。アメリカ軍はすでにフィリピンや沖縄の戦いで特攻による大きな被害を受けていました。命を捨てた体当たりを「神風」と呼び、日本に対する恐怖心を強めました。

 

終わらない攻撃

1945年8月、広島と長崎に向かった2機のB-29から落とされた原子爆弾。21万を超す命が奪われました。日本の降伏は目前でした。しかし、本土空襲はやみませんでした。終戦の前日、東京大空襲の倍の779機のB-29が出撃しました。午前11時55分、岩国市に2839発も投下され517人が亡くなりました。そして午後1時17分、光市で学徒動員の少年少女133人を含む738人が亡くなりました。午後11時48分には秋田市で250人が亡くなりました。これは連合国側にポツダム宣言受諾を通告した後のことでした。

1年にわたる空襲の結果、66の都市が焦土となりました。犠牲者数は45万9564人にものぼりました。

 

ジェリー・イェリンさんは、戦後38年経って日本を訪れました。

「街で子供がピースサインをしてきたとき戦争とは全く違う気持ちになりました。自分が攻撃した場所には人間がいたということをそのとき初めて理解したんです。ビルの谷間から空を見上げてみるとB-29が私に爆弾を落とすのが見えるような気がしました。なぜだか打ちのめされるように心が痛みました。」(ジェリー・イェリン)




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