奇跡の建築アヤ・ソフィア ~耐震構造の秘密~|地球ドラマチック

アヤ・ソフィアは、世界遺産に登録されているトルコ・イスタンブールの歴史地区にある建築物です。ドーム型の天井は高さ約56m、4つのアーチに支えられています。壮大な建造物はどのようにして建てられたのでしょうか?

2つの宗教の象徴

アヤ・ソフィアは現在のトルコ・イスタンブールに西暦537年に建てられました。長い間エジプトのピラミッドに次ぐ高さを誇った建造物です。天井に輝く黄金のドームは直径30m、高さは約56mです。当時の建築家はどのようにして巨大なドームを作り上げたのでしょうか?

約1500年前の建造以来、アヤ・ソフィアは激動の歴史をたどってきました。最初はキリスト教の大聖堂、次にイスラム教のモスクとなり、今は博物館になっています。

多くの地震に耐えてきた

最大の謎はアヤ・ソフィアが数々の地震に耐えてきたことです。アヤ・ソフィアがあるイスタンブールの下には大きな断層があります。そのためトルコは昔から多くの地震にみまわれてきました。

1999年にはイスタンブールから100kmほど離れた場所を震源にM7.4の地震が発生。大きな被害をもたらしました。過去1500年間に他にも多くの地震がトルコを襲いましたが、アヤ・ソフィアは崩壊を免れてきました。地震に強い秘密はどこにあるのでしょうか?

次の地震に耐えられるか?

ボアジチ大学のエサー・チャクティは、アヤ・ソフィアの耐震構造について調べています。転がしたボールが戻ってくるほど歪んだ床や傾いた柱は、危険を知らせる兆候かもしれません。しかし、エサー・チャクティが最も心配しているのはアヤ・ソフィアの中心構造です。

中央の巨大なドームは、4つのアーチの上に置かれています。アーチは補助的な壁4つと半分のドーム2つによって支えられています。特に心配されているのが4つのアーチ。1本でも欠ければドームは崩壊します。調べてみると4つあるアーチのうち2つが、かつてないほど震動していると言います。

もし巨大地震が起きたらアヤ・ソフィアは崩壊してしまうのでしょうか?エサー・チャクティたちはアヤ・ソフィアの大きな模型を作って耐震実験を行うことにしました。

皇帝の権力の象徴

アヤ・ソフィア建造のきっかけは、西暦324年に遡ります。

この年、ローマ帝国皇帝コンスタンティヌスは都をローマからビザンチウムへ移し、自らの名にちなんでコンスタンチノープルと改めました。

395年になるとローマ帝国は東西に分裂。コンスタンチノープルは、東のビザンツ帝国の首都として栄えました。ビザンツ帝国はキリスト教を国教として定め、しばらくは栄華を誇りましたがユスティニアヌスが即位すると各地で反乱が起こりました。

ユスティニアヌスは皇帝の座を捨てて逃げようとしましたが、妻のテオドラが反乱に立ち向かうように説得。結局、ユスティニアヌスが勝利をおさめ数万人が反逆者として処刑されました。

しかし、この反乱で多くの建物が消失。帝国を象徴する教会アヤ・ソフィアもその一つでした。

そこで、ユスティニアヌスはキリスト教への信仰と皇帝の権力を象徴する建造物としてアヤ・ソフィアを再建しようと考えました。

アヤ・ソフィアの革新的な建築様式

教会の建設者たちは、旧約聖書に出てくるソロモンの神殿を手本にしようとしましたが、最終的にはローマ帝国特有の建築様式が採用されました。それは裁判所や集会所などに使われるバシリカという様式。中心に広い身廊、両脇に側廊、その先にはアプスという半円形の場所があります。これが教会の基本的な様式となりました。

ユスティニアヌスは、新しいアヤ・ソフィアにバシリカの様式を用いることにしましたが、他に皇帝としての権力を示すものが必要でした。そこで目をつけたのがローマにあるパンテオンのドームでした。

しかし、パンテオンのドームは分厚く、円形の土台の上にもうけられています。長方形のバシリカの上に円形のドームをおく設計はかつてない試みで、1万を超える人々と莫大な資金が投入されました。

国の財政の大部分を建設に投入し、アヤ・ソフィアはわずか6年で完成しました。

537年、皇帝ユスティニアヌスと皇后テオドラは完成したアヤ・ソフィアを世間に披露。中に入った人々は誰もがその巨大さと豪華な装飾に息をのみました。柱にほどこされた装飾はレースのように細やかで、大理石の床や壁にもカラフルな模様が描かれていました。

ユスティニアヌスは破壊された教会と同じ「アヤ・ソフィア」という名前をつけました。ギリシャ語で聖なる知恵という意味です。

再建されたドーム

しかし、ユスティニアヌスが最初に目にしたドームは現在とは違うものです。完成から約20年後、地震によってドームが崩壊してしまったのです。

再建されたドームには重量を減らすため40個の窓が下の部分に設けられました。窓にはレンガを減らして軽くすることと、光を取り入れる役割がありました。

アヤ・ソフィアはその後、少なくとも12回の大地震にみまわれました。2度、部分的に修復されましたが、現在のドームは完成から20年後に修復された時のものです。

大聖堂からモスクへ

アヤ・ソフィアは度重なる地震だけでなく激動の時代にも耐え抜いてきました。繁栄を続けたビザンツ帝国の豊かさは周辺国に妬まれる原因にもなりました。

1204年、ヨーロッパの十字軍が遠征に向かう途中、同じキリスト教の大聖堂であるアヤ・ソフィアの財宝を略奪。イスラム教の人々も勢力を拡大し、800年間に7回コンスタンチノープルを包囲しました。

そして1453年、メフメト2世がついにコンスタンチノープルを征服しオスマン帝国の都としました。

こうしてアヤ・ソフィアはキリスト教の大聖堂からイスラム教のモスクへと姿を変えることになったのです。

宗教的指導者イマームが説教をする場所や、聖地メッカの方向を示す目印が設けられました。後にコーランの聖なる言葉を記した丸いパネルも取り付けられ、キリスト教のモザイク画は塗りつぶされました。

礼拝の時間を告げるミナレットも増設されましたが、巨大なドームはほとんど手を加えられませんでした。アヤ・ソフィアはオスマン帝国におけるモスクの理想的な姿としてあがめられるようになりました。

そして1935年以降、アヤ・ソフィアは博物館になっています。

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