リッキー・チェン 香港の寿司王の成功ストーリー|アンビリバボー

2011年1月、初せりの本マグロを史上最高額3249万円で銀座「久兵衛」と香港の実業家が共同で落札したという衝撃的なニュースが流れました。香港の実業家というのはリッキー・チェンさん。アジアで寿司チェーンを展開する香港の寿司王です。

リッキー・チェンさんは1968年、4人兄弟の次男として生まれました。当時の香港は貧しい家庭が多く、リッキーさんが住んでいたアパートも6人で暮らすには狭すぎる家でした。

その頃、香港では経済成長をとげる日本は注目の的で、日本の流行りものが大人気でした。勉強が大の苦手だったリッキー少年も日本に夢中でした。

父には「勉強をしろ」とよく怒られました。リッキーさんの父は貧しさから学校に行けなかったため、若い頃から職を転々とし、ようやく船の料理人に落ちつきました。1年の大半は海に出て2ヶ月程家に戻るという過酷な生活でしたが、収入は家族が食べていくのがやっとでした。父はリッキーさんに自分と同じ苦労をさせたくなかったのです。

そんな父をリッキーさんが誇りに思うのは、友人が来ると豪勢な料理を振舞っている姿でした。父は人が楽しそうに食べる姿を見るのが何よりも嬉しかったのです。

そんなある日、リッキー少年は友人の父が働く日本料理店へ遊びに行き、お寿司を出してもらいました。当時の香港で、寿司は高級料理店でしか食べられない高嶺の花でした。リッキーさんは魚を生で食べることと、値段の高さに驚きましたが、何より驚いたのはその美味しさでした。そして、リッキーさんは美味しい寿司をもっと気軽に食べられるようにしたいと思うようになりました。

日本へ

父に反対されながらもリッキー・チェンさんは来日。朝8時から昼3時まで日本語学校に通い、午後5時から深夜まで東京の寿司店で働き始めました。睡眠時間をけずり必死に寿司と日本語を学ぶ日々。父に認められたい、そして自分で始めたことなので走り続けるしかありませんでした。

しかし、リッキーさんの仕事は皿洗いや掃除ばかり。いつまでたっても寿司の握り方を教わることはできませんでした。

当時、出稼ぎに来ている中国人はお金が溜まると突然辞めてしまうことが多く、リッキーさんが本気で寿司を覚えようとしているとは誰も思っていなかったのです。

リッキーさんは親方の言葉をきっかけに変わりました。皿洗いをしながら、親方の技を盗もうと必死にメモを取り、店が閉まった後には寝る間をおしんで手ぬぐいを使って握る練習をしました。料理人の、そして父の心である人のためなら努力を惜しまないことの大切さが分かったのです。そして、徐々に寿司職人として修行できるようになりました。

しかし、父が病に倒れ当時21歳だったリッキーさんは幼い弟たちを養っていかなければならなくなりました。リッキーさんは苦渋の選択の結果、日本に戻り父に自分の作った寿司を食べさせてあげたいという一心で頑張りました。そして、ついに寿司を握らせてもらえるようになりました。

香港に帰国

修行を終えたリッキーさんは帰国、香港初の寿司店オープンに向けて資金集めを開始しました。しかし、わずか数ヵ月後お父さんは亡くなりました。そして、父が本当は自分を応援してくれていたことを知ったのです。

寿司店をオープンさせるには内装費や仕入れなど全て見積もると4000万円は必要でした。貯金をはたいても全く足りない金額でした。

そこでリッキーさんは、貯金をはたいて日本のラーメンチェーンとフランチェイズ契約をむすびラーメン店をオープン。すると、日本式のラーメンが若者たちの間で人気となり50店舗の一大チェーンに成長したのです。

ところが、リッキーさんは軌道に乗り出したラーメンチェーンをあっさりと部下に譲り寿司店の開店資金4000万円を手にし、夢に向かって再び走り出しました。

寿司店を開くためには日本の魚介類を仕入れる必要がありましたが、前例のない外国人との取り引きに応じてくれる業者はいませんでした。

そんな時、水産加工業の中村桂さんと出会いました。中村さんはリッキーさんの情熱に動かされ、輸送費は自分持ちで仕入れた魚をリッキーさんに卸してくれたのです。

そして2004年5月、香港の繁華街に「板前寿司」がオープンしました。多くの人に食べてもらうため回転寿司という形態でスタートさせました。ランチセットは500円という安さで提供しました。オープン初日には自分の作った寿司を一番に食べてもらいたかった母を招待しました。

現在、板前寿司は香港で30店舗、東京に6店舗、アジアで合計50店舗を展開しています。今、リッキー・チェンさんの寿司は香港だけでなくアジアの人々を笑顔にしているのです。

「奇跡体験!アンビリバボー」

この記事のコメント