ニナ・ワンは1937年に中国・上海の貧しい家に生まれました。父親は工場の労働者で一家6人の貧しい生活でした。
そんなある日、ニナは父親の工場に遊びにいき、工場オーナーの息子テディと知り合いました。2人が恋に落ちるのに時間はかかりませんでした。
テディの親族は交際に反対しましたが、出会いから15年、2人は周囲の反対を押し切り結婚しました。
結婚 セレブ生活
こうしてニナ・ワンは裕福な暮らしを手に入れました。そんな彼らの夢は、香港を世界一の豊かな都市にすることでした。
テディはニナの提言で会社を工場経営から不動産開発へ転換。低所得者向けの大衆住宅を作り始めました。すると、これが大当たり。2人の会社はまたたくまに香港有数の巨大企業へと成長したのです。
2人は弱者のための慈善団体を作ることを考えていました。貧しい家の出のニナは、常に庶民の目で物事を考えていたのです。グループの広報大使として、ニナはメディアに登場。気が付けば誰もが羨むセレブへとのぼりつめていました。
2人の住まいは44億円の大豪邸。その反面、車は動けば十分と中古車で通勤し、パーティーに参加すると残り物を持って帰るようなところもありました。
夫が誘拐
そんなある日、テディが誘拐されました。犯人は27億円もの身代金を要求してきました。全てを投げ打ってでも夫の命を救いたいとニナは27億円を振り込みました。警察は犯人グループ4人を逮捕。テディの身柄を保護しました。
しかし、ニナが27億円を支払ったことで再び悲劇が起こりました。帰宅途中のテディを何者かが再び誘拐したのです。しかも、犯人グループが要求した身代金は95億円。ニナは再び身代金の全額を振り込みました。
犯人グループは逮捕されましたが、テディは海に投げ捨てられていました。テディは行方不明のままでした。
心の支えを失ったニナは表舞台から姿を消しました。ニナは夫の行方をずっと捜していました。それは、当時香港で人気だったマンガ「キャンディキャンディ」の影響もあったと言います。
復活
テディが誘拐されてから2年、ニナは再び表舞台に出てきました。子供に恵まれなかった2人にとって会社はわが子同然、テディが愛した会社を守ることこそ自分の役目と気づいたのです。
それからニナは奇抜なファッションで自ら広告塔となり会社のブランドを確立。香港の発展に欠かせない300以上の不動産開発を手がけました。
いつしかアジアナンバー1の女性企業家と呼ばれるようになったニナ・ワンは、近代香港の立役者として認められるようになりました。
夫の遺言状・裁判
誘拐事件から9年、夫テディは見つからないまま裁判所は法律上正式に死亡を宣告。テディの死が確定したことで、彼が生前書き記した遺言状が明らかになりました。そこには全財産をニナに贈るとしるされていました。その額は5840億円にもなりました。
しかし、その直後ニナ・ワンは私文書偽造の容疑で逮捕されました。テディの遺言状をニナ・ワンが偽造した罪でした。
告訴したのはテディの父ティンシン。ティンシンは父である自分も当然遺産を相続できると考えていました。ティンシンは遺言状をニナが偽造したと訴えたのです。裁判が始まりました。
テディが誘拐されたのは、テディが遺言状を書いてから1ヵ月後であったことが分かりました。それゆえ、ニナが夫の誘拐を謀ったのではないかという噂が流れ始めました。それまで好意的に報じていたマスコミもニナ・ワンを非難し始めました。
しかし、ティンシンにも黒い噂が流れ始めました。ティンシンが裁判を起こした時、彼の所持金はほとんどなく、90億円もの巨額の裁判費用を誰かが工面していたのです。おそらく裁判に勝てば多額の遺産の分け前を貰えると計画されていたのです。ティンシンは裏で香港マフィアとつながっているのでは?とささやかれるようになりました。
4年間におよぶ裁判の結果、テディの遺言状は本人が書いたものであることが認められました。ニナの勝利でした。
その後、ニナ・ワンはテディの遺産5400億円で貧しい人たちのために教育や医療支援を行う慈善団体を設立。ようやくテディとの約束を果たすことができたのです。
ニナ・ワンの晩年
晩年のニナ・ワンはあるビルの建設に心血をそそいでいました。それはニナ自身がデザインを考え、彼女の逆転人生の集大成ともいえるものでした。
しかし、ビルの完成を目前にした2007年4月3日、ニナ・ワンは亡くなりました。結局テディが帰ってくることはありませんでしたが、ニナは最後まで夫の帰りを待ち生涯を独身で貫きました。
ニナタワーとテディタワー
そして現在、香港の街には多くの人が訪れるシンボルがあります。ニナ・ワンが死ぬ間際まで完成を待ちわびていたビルです。
42階建てのニナタワー。そして、その隣に寄り添うように立つテディタワーです。
「奇跡体験!アンビリバボー」
この記事のコメント