1922年、歴代のファラオたちが埋葬された王家の谷で20世紀最大の発見がありました。ハワード・カーターによるツタンカーメン王墓の発見です。盗掘の被害がない王墓の発見は世界中を驚かせました。黄金に輝く副葬品の数々は2000点を超え、現在の価値に換算すると300兆円とも言われています。
2010年、ツタンカーメンをはじめ10体のミイラの科学調査が行われました。DNA鑑定の結果、ツタンカーメンの実の父親が判明。それは、それまでツタンカーメンの兄とされていたアクエンアテン王でした。
アクエンアテンとツタンカーメンの確執
アクエンアテンとツタンカーメンは血の繋がった親子であったにも関わらず、深い確執があったといわれています。親子の対立の舞台となったのがカルナック神殿でした。
カルナック神殿はエジプトの政治と宗教の中心地で、トトメス3世やラムセス2世などファラオたちが自らの威信をかけて増築を繰り返しました。南北に1.5km、東西に0.5kmという広さ。歴代のファラオたちが残した遺産です。
過去の発掘調査の結果、アクエンアテンの建造物は取り壊されアクエンアテン像も無残に破壊されていることが分かりました。このような残酷な仕打ちをしたのは、実の息子であるツタンカーメンだと考えられています。親子の間には宗教革命がありました。
宗教改革
古代エジプトの宗教は多神教。多くの神々が共存していました。鳥の姿をしたホルス神、冥界の神アヌビス神など様々。しかし、アクエンアテンは革命を起こし、伝統的な多神教を廃止し人類史上初めて一神教を唱えたのです。ただ一つの神を太陽神アテンとしたのです。
アクエンアテンはカルナック神殿の東側にアテン神殿を建設。そしてカルナック神殿に奉られた神々の像を破壊し、神はアテンのみだと民衆に知らしめました。
しかし、急進的すぎる信仰は受け入れられませんでした。アクエンアテン王は治世17年目に死去。一説には暗殺されたとも言われています。
アテン信仰の廃止
ツタンカーメンが即位すると、アテン信仰の廃止がエジプト全土で叫ばれました。少年王に与えられた使命は、父の一神教を否定し伝統の多神教を復活させることでした。
ツタンカーメンの時代、エジプト全土のアテン神殿が破壊されました。カルナック神殿にたてられたアクエンアテンの神殿もツタンカーメンの命によって破壊されました。それは父親との決別を意味しました。
しかし、ツタンカーメンの本当の思いが分かるものが残されています。それはツタンカーメンの墓におさめられていたツタンカーメンの玉座です。背もたれにはツタンカーメンと王妃の姿が描かれています。そして、2人を見守るように父アクエンアテンの太陽円盤が輝いています。
父親を憎んだとされるツタンカーメンですが、心の奥底には深い愛情があったのです。
ユダヤ教はアテン信仰だった!?
異端の王アクエンアテンが信仰したアテン神。カルナック神殿に建設されたアテン神殿は、ツタンカーメンによって解体され現在は跡形もありません。アテン神は完全に抹殺されたかに思われました。
精神医学者ジークムント・フロイトは、1939年にアテン信仰についての一冊の本「モーセと一神教 [ ジークムント・フロイト ]」を出版。それは旧約聖書の物語を根底から覆すものでした。旧約聖書にはモーセがユダヤ人を率いてエジプトを脱出する物語が描かれています。
当時エジプトではユダヤ民族は奴隷として扱われていました。その数は60万人を超え、エジプトのファラオは反逆が起きることをおそれていました。ユダヤ人の増加を防ぐために子供たちは皆殺しにされました。この迫害を逃れるためにナイル川に流されたユダヤの子供がモーセ。エジプトの王女に拾われ成長をとげたモーセは、後にユダヤの民を苦しみから解放するために多くの同胞を率いてエジプトを脱出。そして、シナイ山で啓示を受けユダヤ教が生まれました。これが旧約聖書に描かれた「出エジプト記」です。
しかし、フロイトは旧約聖書の物語に異論を唱えました。モーセのエジプト脱出にはツタンカーメンの父アクエンアテンが大きく関わっていたと言うのです。
実はモーセはアクエンアテン王の側近であり、熱心なアテン信者であったとフロイトは言います。アクエンアテンと信仰に民衆が反抗し神殿を破壊しアテン信者は迫害を受けました。そこでモーゼはエジプトを脱出したというのです。
フロイトはこのように推理し、モーゼがもたらしたユダヤ教とはもともとアテン信仰だったという驚くべき結論を出しました。
アテン信仰とユダヤ教にはいくつもの類似点があるとフロイトは指摘しています。アクエンアテンはそれまでの多神教を否定し、人類史上初めての一神教を唱えました。同じくユダヤ教ものちにキリスト教やイスラム教に繋がる一神教です。また、偶像崇拝の禁止もアテン信仰とユダヤ教に共通しています。
またフロイトはモーセはユダヤ人ではなくエジプト人だとも言っています。フロイト自身はユダヤ人であるにも関わらず、民族の英雄であるモーセをエジプト人だと言ったのです。猛烈な批判を受けることはわかっていたはずですが、フロイトには命をかけてでも主張しなければならない理由がありました。
「モーセと一神教」が出版された1939年、ナチスドイツはポーランド侵攻を始めました。ナチスはアーリア人の純血をとなえ、ユダヤ人を差別し迫害。フロイトはナチスから逃れるためウィーンからロンドンに亡命。「モーセと一神教」が書かれた理由はそこにあったと言われています。
ナチスドイツが純血主義を唱えていた時、フロイトはあえて民族の根源にエジプトの影響があると主張したのです。純血を史上とする考えなど浅はかだと。フロイトはナチスへのアンチテーゼを唱えたと解釈する学者もいます。
しかし、吉村作治さんが言うにはアクエンアテンの時代とモーセの時代は100年違うのだそうです。
「たけしの新・世界七不思議7」
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