マーガレット・サッチャー 87年の激動人生|アンビリバボー

フジテレビの「奇跡体験!アンビリバボー」で鉄の女マーガレット・サッチャーの激動人生について放送されました。

 

マーガレット・サッチャーは1925年にイギリスの田舎町でロバーツ家の次女として生まれました。家は食料雑貨店の経営する中流家庭で、生活は決して裕福ではありませんでした。父アルフレッドは厳格なキリスト教徒で、近所でも働き者として評判でした。商品やサービスには徹底的にこだわりぬく、仕事に対し一切妥協をしない人物でした。真面目な性格で町の人たちからの信頼もあつい、そんな父親の背中をみてマーガレットは育ちました。父アルフレッドはかつて教師を夢見ていましたが貧しさから高校に通うことさえ叶いませんでした。それでも、働きながら独学で経営を学び自身の店を持つまでに。日々、努力を重ねる父の姿はマーガレットの心に深く焼きついたと言います。マーガレットの学校での成績はいつも一番。当時のあだ名は「ガリ勉マーガレット」でした。マーガレットは父の教え通り努力を続け、名門オックスフォード大学に入学し化学を専攻。一方、父は人々がより働きやすい世の中になるようにしたいという一心で、独学で政治を学び市会議員として政治家デビュー。後にグランサム市長にまでのぼりつめました。当時のイギリスは「ゆりかごから墓場まで」というスローガンのもと手厚い福祉政策が行われていました。でも、それではいつしか国民は怠慢になり国はダメになると父は個人個人が努力し、福祉にかかる費用を減らそうと訴えました。ところが、父の理想は世間に受け入れられませんでした。やがて、対立する政党によって市議会から追放されてしまいました。

 

マーガレットは大学を卒業後、プラスチック製造の研究員として働き始めました。しかし、政治家になりたいという夢は捨てていませんでした。政党の後援パーティーに出席した時、10歳年上のデニス・サッチャーと知り合いました。中流階級の彼は塗料メーカーを経営。いくつもの会社の顧問をつとめる裕福なエリートでした。やがて2人は交際をスタートし、1951年に結婚しました。結婚3年目でマーガレットはマークとキャロルの双子を出産。育児の傍ら、政治家として必要な法律を猛勉強し弁護士資格を取得。そしてついに、国会議員への立候補を決意しました。公認をもらうため門をたたいたのは保守党。国会議員には2度立候補するも落選。それでも、マーガレットは自分を信じて諦めませんでした。そして結婚から8年目、1959年10月に初当選。マーガレット33歳の時でした。当時、政治の世界は完全な男社会。国会議員630人中、女性議員は25人でした。同じ政党内でも女性というだけで見下されていました。そんなマーガレットの支えとなったのは夫のデニスでした。どんな遅くなってもデニスはマーガレットの帰宅を待ち愚痴に付き合ってくれました。

 

マーガレットが考えたのは女性であることを逆手にとること。華やかな髪型やファッションにこだわり、目をパチパチさせて男性議員たちから注目を集めました。するとマーガレットは次第に頭角をあらわし始め改革派のニューリーダーとして評価されるように。そして議員になって11年目の1970年6月、教育科学大臣に就任。女性議員として異例の大抜擢でした。しかし、大臣就任の4ヶ月前に最愛の父が死去しました。

 

大臣就任後、マーガレットは学校へ無償で牛乳を配給するという政策を廃止し、その予算を教材費や新たな校舎の建築費に振り分けることにしました。しかし、手厚い福祉を理想とする対立政党から猛反発を受けてしまいました。そんな彼女にマスコミがつけたあだ名は「ミルク泥棒」。しかし、どんなに非難を浴びてもマーガレットはこの政策を撤回しませんでした。きっと子供たちのためになるという一心でした。ところが、家族までも嫌がらせにあってしまいました。それでも娘に勇気づけられ周囲の批判と闘いながら幼児保育から高等教育まで全ての予算の見直しをはかりました。その功績から歴代教育賞の中で最も改革精神にとんだ大臣と評されるまでになっていきました。そして議員になって16年目、1975年2月にマーガレットは保守党の党首に就任。女性に党首になるなどイギリス史上前例のない事でした。

 

当時、イギリスの政権を握っていた労働党はソ連と友好関係を築こうとしていましたが、マーガレットはライバルの労働党を痛烈に批判。この発言はすぐさま知れ渡り、ソ連政府はマーガレットのことを糾弾。その見出しには「鉄の女」の文字がおどったのです。しかしアンビリバボーなことにマーガレットはこのあだ名を気に入りました。強い信念を持つ鉄の女の姿は当時不景気のどん底で弱っていたイギリス国民に大きな希望と勇気を与えました。そして党首となって4年後、1975年2月に保守党は総選挙に勝利。ついにマーガレット・サッチャーは53歳にしてイギリス初の女性首相に就任したのです。マーガレット・サッチャーは父の教えを胸に数々の政治改革を実践。しかし、それは同時に国民から非難を浴びる原因にもなりました。マーガレットが嫌われるもととなった政策は国有企業の民営化。国が経営している企業は例え経営が苦しくなっても潰れる心配がないため企業努力を怠り労働意欲も低下。結果、深刻な不況を生み出していたのです。そこでマーガレットは多くの国有企業を民営化することで、競争力をつけ経済を活性化させようとしたのです。しかし、そうすることで労働者はリストラに合う可能性がありました。こうしてマーガレットは国有企業の60%以上を民営化。見事イギリス国内の経済を活性化させることに成功したのです。しかし、一方で大量の失業者があふれ貧富の差が拡大するという現象も生んでしまいました。そのためマーガレット・サッチャーは亡くなった今も失業者や貧困層からバッシングの的となっているのです。

 

首相就任から3年後の1982年3月、イギリスが統治していたフォークランド諸島の領有権を巡りアルゼンチンとの対立が絶えませんでしたが、アルゼンチンの武装勢力が島に上陸。発砲するという事態が発生。交渉を試みるもアルゼンチン政府は取り合わず、残る手段は武力行使しかありませんでした。後にフォークランド紛争と呼ばれる戦いは世界で報じられました。そして3ヵ月後、イギリス軍はフォークランド諸島を奪還。イギリス人250名以上の犠牲者を出したものの、この功績は高く評価されマーガレット・サッチャーの名は世界に轟くこととなりました。勢いにのったマーガレットは2度の総選挙に勝利。10年以上に渡る長期政権を築いていきました。経済政策も成功しイギリスは不況から脱することができました。

 

首相になって11年目、皮肉なことに国が安定したことで国民はさらなる改革よりも安定を求め始めました。マーガレット・サッチャーは父の引き際同様に潔く、誇り高く引退しました。首相辞任後は政治の表舞台から退き、晩年は孫との時間を楽しむなどして老後を過ごしたそうです。しかし、2000年頃から認知症を発症。そして2013月4月8日の朝、滞在していたホテルで脳卒中のため87年の激動の生涯を閉じました。鉄の女を支え続けたのは父と夫、そして子供達の深い愛情だったのです。




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