ピーター・ノーマン 忘れ去られたメダリスト秘められた衝撃の過去|アンビリバボー

フジテレビの「奇跡体験!アンビリバボー」でピーター・ノーマンについて放送されました。

 

1942年、ピーター・ノーマンはオーストラリアのメルボルン郊外で貧しい労働者階級の家に生まれました。走るのが大好きだったピーター・ノーマンは地元の陸上チームで活躍していたもののシューズを買ってもらえないほど貧しい生活をしていました。しかし、当時のオーストラリアには彼よりも不幸な人々が大勢いました。当時のオーストラリアには先住民のアボリジニやアジア系移民など有色人種への差別が色濃く残っていました。それはイギリスの植民地だった18世紀に始まる白豪主義という政策によるもの。何事にも白人が優先され有色人種はオーストラリアの市民権が得られないなど、長年法的にも迫害されていたのです。しかし、ピーター・ノーマンは敬虔なクリスチャンだった両親とともに貧しい有色人種の人々に炊き出しを行うなど、白人でありながらも差別することは決してありませんでした。

 

ピーター・ノーマンは小学校を卒業後、家計のために精肉店で働き始めました。しかし、仕事のかたわら大好きな陸上だけは続けていました。リレーの選手として頭角をあらわすと、やがて200m走に転向。すると、その才能が一気に開花。ついにオリンピック代表に選ばれました。そして1968年、メキシコオリンピックが開幕しました。しかし、この時ピーター・ノーマンは母国オーストラリアでさえ全く期待されていませんでした。なぜなら当時の陸上短距離はアメリカが絶対王者として君臨していたからです。特に男子200メートルは世界記録保持者ジョン・カーロスをはじめトミー・スミスら3名のアメリカ勢が表彰台を独占すると予想されていました。ピーター・ノーマンは予選突破さえ危ぶまれていたのです。しかし、ピーター・ノーマンは予選でオリンピック記録更新となる20秒20で走ると、準決勝を突破、ついに決勝進出を決めたのです。決勝の前日練習の日、ピーター・ノーマンの気さくな人柄もありジョン・カーロスとトミー・スミスは古くからの友人のように打ち解けました。しかし、ピーター・ノーマンは知っていました。アメリカの黒人選手にとってメキシコオリンピックには特別な意味があることを。

 

50年余り前、アメリカには人種差別の嵐が吹き荒れていました。バスや公衆トイレにさえ白人優先席が存在。ホテルやレストランも有色人種の入店を拒否するなど人種差別が公然と法律で認められていたのです。そんな中、人種差別に反対するマーティン・ルーサー・キング牧師らの運動により1964年に公民権法が制定されました。有色人種の選挙権が保障され、公共施設での差別も禁止されました。ところが、その後も人種差別感情がおさまることはなく黒人へのリンチや暴行、彼らの商店や住居への放火が継続的に発生しました。そして、メキシコオリンピックの半年前キング牧師が暗殺されました。黒人的の精神的支柱となっていた指導者が殺害され、彼らの怒りは頂点に達しました。黒人アスリートたちはメキシコオリンピックのボイコットを検討。国内で横行する差別に目をそむけメダル獲得のためだけに平然と黒人選手を送り込むアメリカ社会に抗議を示そうとしたのです。しかし、逆にその動きはスポーツの政治利用を禁じるオリンピックの精神に反するとして国際的な批判を浴びました。この事態を受け黒人選手たちの意見は割れました。そして彼らが下した決断はオリンピックに出場することでした。

 

いよいよむかえた男子200メートル決勝。1位はトミー・スミス。ピーター・ノーマンは世界王者ジョン・カーロスを抜き2位になりました。自ら予選で出したオリンピック記録を上回る20秒06で、トミーとともに当時の世界記録を破りました。しかも男子短距離走でのメダル獲得はオーストラリア初の快挙でした。

 

表彰式の直前、ジョンとトミーは決意をかためていました。表彰台の上でメダリストたちはつかの間の自由を得ます。しかも、その瞬間は生中継され6億人もの人々が視聴します。さらに写真となると全世界に配信されます。つまり表彰台こそアメリカにおける黒人の悲惨な状態を訴え、差別と闘う意思を世界に訴える絶好のチャンスなのです。しかし、オリンピックの理念としては全てのエリアにおいて、いかなる種類のデモンストレーションも政治的・宗教的・人種的な宣伝活動も認められていません。もし実行した場合、オリンピックから永久追放されるだけでなく、他のいかなる大会に出ることも許されず選手生命が絶たれてしまいます。それでも彼らは同胞たちの苦しみを世界に訴えるため胸に人種差別を抗議する団体のバッジをつけパフォーマンスを行おうとしていました。そしてピーター・ノーマンはアメリカのボート選手にバッジを貸してもらい胸につけました。

 

ジョンとトミーは靴を脱ぎ黒い靴下で表彰台にのぼりました。これはアメリカの黒人が差別によって貧困に苦しんでいる状況を表現したものです。そして黒人であることの誇りと彼らとともに立ち上がる意志を訴えるために頭を垂れ黒い手袋をはめた手を突き上げました。そして2人の隣にはバッジをつけたピーター・ノーマンがいました。

「トミーとジョンは私にとってヒーローでした。彼らは全てを失う覚悟で拳を突き上げたのです。それに比べたら私がした行為なんて大したことではありません」(ピーター・ノーマンさん)

この表彰式の写真は「ブラックパワー・サリュート」と呼ばれ黒人の誇りと威厳を主張し、差別に抗議する意志の象徴として世界中に配信され大きな注目を浴びることになりました。

 

国際オリンピック委員会はその理念に反するとしてジョンとトミーをオリンピックから永久追放することを決定。2人は閉会式に出ることさえ許されず、翌日アメリカに強制帰国させられました。

 

一方、ピーター・ノーマンの帰国を空港で待ち受けていたのは母と妻、数名の友人のみでした。実は、ピーター・ノーマンが表彰式で黒人二人が行ったパフォーマンスに賛同の意志を示した事実が報道されると称賛は一変。いまだ白豪主義を貫くオーストラリアのマスコミはピーター・ノーマンをこぞって叩き始めたのです。さらに自宅に脅迫状が届くようになりました。嫌がらせが一段落すると、待っていたのは徹底した無視でした。マスコミや国民のみならず隣人ですら彼の偉業をなかったことのように扱いました。ピーター・ノーマンはその後妻ともうまくいかなくなり離婚。職を転々とするようになりました。そんな彼を支えたのが走ることでした。ジョンとトミーは永久にオリンピックから追放されましたが、ピーター・ノーマンにはオリンピック出場の権利が残されていました。夢の舞台に向け練習を重ね、オーストラリア国内の大会で何度も優勝。世界ランク5位を維持し続けました。

 

1972年、ミュンヘンオリンピックが開催される年、ピーター・ノーマンは30歳になっていました。それでも4年回でオリンピックの標準記録を13回突破するなど好調を維持。彼のオリンピック出場は確実に思えました。しかし、オーストラリアはミュンヘンオリンピックの陸上男子200メートルに自国の選手を派遣しないと発表しました。

「ミュンヘンオリンピックには本当に出たかった。だかこの仕打ちは私に陸上界からの引退を決意させるには十分でした」(ピーター・ノーマンさん)

 

メキシコオリンピックから16年、ピーター・ノーマンの名はオーストラリアの国民から完全に忘れ去られていました。一方、ジョン・カーロスとトミー・スミスはメキシコオリンピックから帰国後、想像を絶する苦難を味わっていました。二人ともに勤め先から解雇され貧困に苦しんでいました。さらに家族への差別、脅迫も相次ぎ、ついにはジョンの妻が自殺する悲劇まで起こってしまいました。それでも3人の友情は途切れることなく、ことあるごとに手紙や電話で連絡するという関係が続いていました。そして1970年代半ばになると、アメリカでは次第に黒人の人権が認められるようになりました。その結果、二人を人種差別と闘った英雄として評価する声が高まり、彼らの名誉は徐々に回復されていきました。しかし、ピーター・ノーマンの名誉だけは回復される兆しはなく時間だけがいたずらに過ぎていきました。

 

ところが2001年、ピーター・ノーマンのドキュメンタリー映画を製作しようと若手映像作家が立ち上がりました。甥のマット・ノーマンです。しかし、忘れ去られた銀メダリストの映画に興味を持つ製作会社はありませんでした。それでもマットは諦めませんでした。映画でオリンピックなど様々な映像を使用するには多額の費用がかかります。関係者への取材や撮影費などと合わせると製作には約2億円が必要でした。マットは自らスポンサーを探す一方、自腹を切ってまで映画製作に取り組みました。製作開始からあっという間に5年が過ぎ、ピーター・ノーマンは64歳になっていました。そして2006年10月3日、ピーター・ノーマンは心臓発作で亡くなりました。出棺の時、棺につきそったのはトミー・スミスとジョン・カーロスでした。2人はアメリカから駆け付けたのです。

 

ピーター・ノーマンの死から2年後、マット・ノーマン監督のドキュメンタリー映画が完成。オーストラリアで公開されました。敬礼を意味する「サリュート」と題された映画は当初わずか15館の公開だったにも関わらず、口コミで評判が広がり観客数は徐々に増加。反響は当初の予想を超え遠く海外からも公開を希望する声が届くまでに。最終的に「サリュート」はアメリカをはじめ世界6か国で上映され「サリュート」はオーストラリアの国内外で8つもの映画賞を受賞しました。

「たくさんの人にこの映画を観てもらい伯父の行為を伝える事が出来ました。だけど私にとって一番心残りなのはピーターにこの作品を見せる事が出来なかった事です」(マット・ノーマンさん)

 

2012年8月12日、オーストラリア議会はピーター・ノーマンの名誉を回復するための動議を採択しました。オリンピックの舞台で自らの信念を貫いたピーター・ノーマン。彼の勇気と信念は半世紀近くの時を経てオーストラリアの人々に、そして世界中の人々に伝えられたのです。現在、シドニーの小学校では授業の一貫として映画「サリュート」を子供たちに見せています。

 

一方、トミー・スミスとジョン・カーロスの名誉もまた2005年に完全に回復されました。アメリカ・カリフォルニア州にある彼らの母校に表彰台の彫像が作られたのです。除幕式にはピーター・ノーマンも出席していました。しかし、彫像の2位の場所にピーター・ノーマンの像はありません。そこには彼の強い願いが込められていました。

「ピーターが自分で作ってほしくないと言ったんだ。あの像を見た世界中の人がぜひそこに立って自分ならどうするか考えて欲しいと」(ジョン・カーロスさん)

台座には「TAKE A STAND」と刻まれています。この言葉には2つの意味が込められています。一つは「ここに立ってみてください」そしてもう一つは「自分が信じた事のために立ち上がりなさい」。




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