いつでも夢を~作曲家・吉田正の戦争~|NHKスペシャル

NHK総合テレビの「NHKスペシャル」でいつでも夢を~作曲家・吉田正の戦争~が放送されました。戦後を代表する名曲「いつでも夢を」人々を励まし続けてきた歌にある物語が秘められていました。作曲したのは吉田正(よしだただし)さん。戦後の日本歌謡の基礎を作ったと言われ、国民栄誉賞も受賞した作曲家です。今、吉田正さんの原点とも言える歌が次々と見つかっています。きっかけは4年前、都内のレコード会社にカセットテープが送られてきたことでした。テープには70年近く前、シベリアで歌っていたという男性の歌が吹き込まれていました。歌詞にそえられていたのは吉田正さんの名前。終戦直後、3年に渡ってシベリアに抑留された吉田正さん。しかし、シベリアでの体験やそこで歌を作っていたことは生前ほとんど語りませんでした。57万人を超える日本人が拘束され、少なくとも5万5000人が命を落としたシベリア抑留。吉田正さんはシベリアで何を見たのでしょうか?

 

レコード会社にカセットテープを送ったのは秋田県八郎潟町に住む北嶋鉄之助さん(89歳)です。北嶋さんは70年近く前にシベリアで聞いた歌を克明に覚えています。昭和20年、旧満州の歩兵部隊に配属された北嶋さんは、終戦後すぐにシベリアに送られ3年間に及ぶ過酷な抑留生活を強いられました。いつ帰国できるかも分からず、収容所を転々とする日々。北嶋さんはある時、別の収容所から来た抑留者たちが口にした歌を耳にしました。吉田正という抑留者が作った歌だと聞かされました。家族にすらシベリアでの体験を話したことがなかった北嶋さんは85歳を超え、命をつないでくれた歌を後世に残したいと思うようになったと言います。

 

北嶋さんのカセットテープを受け取ったレコード会社の谷田郷士さん(75歳)は吉田正さんの担当ディレクターを長くつとめてきました。「帰還の日まで」と題された歌が吉田正さんの歌だという決め手になったのは、その旋律でした。旋律が昭和24年に作られた「異国の月」と酷似していたのです。谷田さんは吉田正さんから「シベリアで歌を作ったか忘れてしまった」と聞かされたことがありました。吉田正さんの思いつめた表情に、それ以上聞くことは出来なかったと言います。

 

顔も知らない吉田正さんの歌に励まされシベリアから生還した北嶋さんは、農業や干拓地の整備の仕事をしながら3人の子供を育てました。仕事の合間、シベリアで亡くなった仲間を思いながら一人で歌を歌い続けてきたと言います。「いつでも夢を」が街にあふれていた時も、北嶋さんにとっての吉田正さんの歌は「帰還の日まで」でした。

 

吉田正さんは大正10年(1921年)、茨城県日立市で生まれました。幼いころから音楽が好きで学生時代には仲間とバンドを組み、当時の流行歌を演奏していたと言います。シベリアから帰国した昭和23年に、作曲家として「異国の丘」でデビュー。歌謡曲に当時は珍しかったジャズやタンゴのリズムを取り入れることもあり、戦後の日本歌謡の基礎を作ったと言われています。明るく希望に満ちた吉田正さんの歌は戦後の混乱期から高度経済成長期へと向かう日本を励まし続けました。吉田正さんは「私の歌を私の歌と知らないでみんなが歌っている、そんな光景に出会いたいものです。歌はいつか詠み人知らずになっていきます。そうして本当のいい歌は永遠の命を持つのではないでしょうか。私の作った曲の中からひとつでも詠み人知らずになり、それを聞く日を楽しみにこれからも作曲を続けたいと思います」と語っていました。

 

吉田正さんの戦時中からシベリア抑留時代を知る手がかりが遺品を管理する事務所の倉庫から見つかりました。それは身上申告書。シベリアから復員した時、国に提出した文書です。ボイラーを扱う会社で働きながら作曲家になることを夢見ていた吉田正さんは昭和17年(1942年)に陸軍歩兵第2連隊に入隊。当時、満州に駐留していた関東軍の中でも最強といわれていた部隊で厳しい軍隊生活を送りました。そして、終戦直後から3年に渡るシベリアでの抑留生活。復員したのは昭和23年8月でした。吉田正さんはシベリアで何に直面し、歌はどのように作られてのでしょうか?

 

番組では身上申告書をもとに吉田正さんの足跡を辿っていました。新潟県糸魚川市に住む渡邉利秋さん(88歳)はシベリアに抑留されて間もなくの昭和21年、収容所で吉田正さんと出会いました。吉田正さんは森林伐採の重労働の合間、いつも熱心にメモを取っていたといいます。日本人が抑留された最初の冬、シベリアは強烈な寒波に襲われ一冬で2万人以上の抑留者が命を落としました。吉田正さんの抑留生活も常に死と隣り合わせだったと言います。生き残った者も飢えに苦しみ、森の中で血眼になって食料を探しました。吉田正さんは6ヶ所の収容所を転々とさせられていました。終戦を満州で迎えた吉田正さんが120kmの道のりを歩かされ、たどり着いたのは旧ソビエトの極東地クラスキー、アルチョーム、ウオロシロフ、ソフガワニ、スーチャン、ナホトカ。収容される先々で森林伐採や石炭の採掘など、過酷な労働を強いられたと言います。過酷な環境の中で吉田正さんの歌はどのように広まっていったのでしょうか?

 

昭和22年、ソフガワニの収容所で吉田正さんと一緒だった染谷鷹治さん(94歳)も「帰還の日まで」を覚えていました。さらに、吉田正さんの作った7曲の歌を記憶していました。染谷さんには忘れられない吉田正さんの姿があります。夕食時、重労働を終えたばかりの吉田正さんが仲間たちに必死に歌を教えていたのです。吉田正さんは「生きるんだ生きるんだ」と合言葉にして皆を励ましたいたと言います。抑留者たちは常に緊張を強いられ精神的にも疲れ果てていました。吉田正さんは、そんな仲間たちのために歌劇団を作ったと言います。衣装や楽器も仲間と手作りし、吉田正さんの歌は次第に抑留者たちを元気づけていったのです。

 

なぜ吉田正さんは希望の歌で仲間を励まし続けたのでしょうか?その背景に戦時中の軍隊での体験があることも分かってきました。角田フサ江さん(89歳)の夫の勘吾さんは吉田正さんと同じ旧満州に駐屯していた歩兵部隊に所属していました。吉田正さんは体を壊した勘吾さんが日本に帰国できるように上官に働きかけてくれたと言います。勘吾さんが靴底におさめ戦地から持ち帰った手帳には、吉田正さんが部隊にいた頃に作った歌が記されていました。歩兵だった吉田正さんは音楽の才能を認められ、軍歌を作っていたのです。四三七部隊のために作曲した「四三七部隊歌」は上官が書いた勇壮な歌詞に曲をつけたものです。四三七部隊は昭和19年の秋、南方の激戦地レイテ沖などで戦闘にのぞみ、300人以上の命が失われました。同じ年、吉田正さんが所属していた歩兵第2連隊は南方ペリリュー島の守備を命じられました。日本軍1万人のうち、最後まで戦って生き残ったのは34人でした。吉田正さんは部隊が転戦する直前に急性盲腸炎を発症し、満州に留まりました。仲間のほとんどが命を落とす中で生き残ったのです。この年の8月、吉田正さんは別の歩兵部隊に転属。そこでも歌を作っていたといいます。昭和20年8月13日、吉田正さんは機関銃中隊の分隊長として出撃しました。ソビエトが日ソ中立条約を一方的に破棄し、満州に侵攻してきたのです。ソビエト兵150万、戦車5000台と兵力の差は圧倒的でした。この戦いで日本軍将兵8万人以上が戦死したとされています。吉田正さんも大腿部貫通など瀕死の重傷を負いました。数日間、生死をさまよいながらまた生き残ったのです。吉田正さんの遺品の中に、当時の心境をうかがえるものが残されていました。終戦から39年後に書かれていた手記です。

 

「私が生きる意味について考えるようになったのは、何時からだったろうか。昭和20年8月16日、国境の戦闘で傷つき、身動き出来ぬ塹壕の中で満点の星空を仰ぎ私は生きていると実感した日からです。あの日から作曲家として自分の道を歩いてきたつもりです」

 

あまりに多くの戦友を失った吉田正さんは歌に生きる希望を託そうと決意していたのです。しかし、吉田正さんはシベリアでも多くの仲間を失っていきました。昭和23年、スーチャンの収容所で一緒だった関谷空道さん(88歳)によると、この頃の収容所では帰還が近いという噂が出ては消えていたと言います。関谷さんはそのたびごとに日本へ帰ることを諦めかけたそうです。その時、吉田正さんが作った歌を関谷さんはずっと大切にしてきました。それは仲間と共に生きて帰還し、日本を自分たちの手で再建したいという吉田正さん自身の夢を歌った「湧きたつ血潮」という歌でした。祖国再建の夢を歌った歌が関谷さんたちを支えたのです。そして満州、シベリアでの6年を経て吉田正さんは昭和23年(1948年)に帰国を果たしました。しかし、故郷に住む家族6人全員が空襲で亡くなっていました。多くの死を背負い、吉田正さんの作曲家としての戦後が始まりました。昭和20年代から30年代にかけて1年に100曲近く作ったこともありました。吉田正さんがシベリアで夢見た祖国の再建。希望や夢をのせた吉田正さんの歌と歩調を合わせるように日本は復興を果たしていきました。

 

シベリアに抑留された約60万人のうち、存命なのは約2万人。平均年齢は90歳を超えています。そして吉田正さんは77歳で亡くなるまで歌を作り続けました。シベリアから生還した吉田正さんが生涯続けてきた仕事があります。それは校歌の作曲です。どんなに多忙でも、その依頼だけは引き受けるようにしていたと言います。子供たちは作曲家の名前を知りませんが、それでも歌は子供たちを育んでいます。戦争の過酷な体験を経て吉田正さんが歌にたくした生きる希望。彼の歌は今も未来を照らし続けています。




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