村人は満州へ送られた ~”国策” 71年目の真実~|NHKスペシャル

NHK総合テレビの「NHKスペシャル」で村人は満州へ送られた ~”国策”71年目の真実~が放送されました。71年前の8月、突然のソビエト軍の侵攻により旧満州に取り残されていた8万人以上の開拓民が戦闘に巻き込まれるなど犠牲になりました。これだけ多くの民間人が海外で命を落としたのは例がありません。満州の支配の強化や食料増産のために行われた満蒙開拓は、国が重要政策として進めた国策でした。終戦までに送られた開拓民の数は27万人以上。戦局が悪化し、安全が脅かされていった昭和18年以降も6万人以上が海を渡りました。なぜ、これほどの数の人々が終戦間際まで送られ続けたのでしょうか?これまで関係資料が散逸したとして、その経緯は分かりませんでした。しかし、戦後70年が過ぎ、その空白となっていた経緯がようやく明らかになってきました。

 

長野県の豊丘村の北部はかつて河野村と呼ばれ、2900人が住んでいました。急峻な地形で田畑が少なく、慢性的に食料にも困窮する貧しい村でした。戦争末期、27世帯95人の村人が満州へ送られました。しかしその後、男性は軍に召集され、日本が降伏した翌日、現地の人たちから襲撃を受けた女性や子供たち73人は追い詰められたすえ集団自決をしました。子供たちに手をかけ、自らの命を絶ったのです。ただ一人、生きて帰ってきた人がいます。久保田諫さん(86歳)です。当時15歳だった久保田さんは、つらい役割を背負わされました。

「潔く死んでいこうということになって、日本人はおしまいなんだと考え込んでいたら、早く手伝ってくれというおばさんたちの声でお子さんたちを絞め殺す手伝いをして。20数人はお手伝いしたと思うんです」(久保田諫さん)

集団自決後、瀕死の状態だった久保田さんは親しくしていた中国人に運よく助けられました。当時、村人たちを満州に送り出す決断をした村長・胡桃澤盛は、35歳にして村のリーダーに抜擢された人物です。彼の長男である胡桃澤健さん(78歳)が先祖代々引き継がれてきた地で今も暮らしています。健さんはこれまで父親のことについては家族の中でも触れずにきたといいます。戦後70年が過ぎ、悲劇の真相と父親の苦悩を知って欲しいと初めて取材に応じたのです。

 

終戦の翌年、41歳の若さで他界した胡桃澤盛さん。村長として開拓民の悲劇の責任をとり自らを命を絶ちました。「開拓民に申し訳ない」という遺書を残して首を吊りました。胡桃澤村長は1万ページにも及ぶ膨大な日記を残しています。当初、満州への移民に懐疑的だった胡桃澤村長が次第に国策に飲み込まれていった過程が生々しく記されています。

 

満蒙開拓が国策として始められたのは昭和11年、二十カ年百万戸送出計画が閣議で決定されてからでした。最初の5年で10万戸、次の5年で20万戸、さらに5年ごとに30万戸~40万戸の開拓民を送り込み、20年後には100万戸、最終的には500万人もの農業移民を定住させるという桁外れの計画でした。立案したのは満州国を実質支配していた関東軍。実行していったのは移民行政を担う拓務省でした。スローガンは「五族協和」「王道楽土」行けば1戸あたり20ヘクタールの広大な土地が手に入るとうたわれ開拓民が集められました。当初は7700人程だった開拓民の数は年々増加。昭和15年には5万人を超すまでになりました。国は全国規模で働きかけを強め、河野村周辺の農村からも次々と満州へ渡っていきました。

 

胡桃澤は満州へ村人を送ることについては消極的でした。突如、武力で支配した他国の土地に村単位で移り住み、うまく馴染んでいけるのか疑問を抱いていたからです。

「自分の仲間だけでブロックを作って割拠している様で果たして中国人と共に生きて行く様な事が出来るだろうか。為政者たるもの眼前の事象に囚われる事なく大局を掴んで行かねば暗礁に乗り上げぬとも限らぬ」(胡桃澤盛の日記より)

満州への移民が増加の一途をたどっていた昭和16年、日本は太平洋戦争に突入していきました。戦線は東南アジアから太平洋全域にまで一気に拡大し、満蒙開拓団も大きな転機を迎えました。それまで年間5万人以上の開拓民が満州に渡っていましたが、開戦後は3万5000人にまで減少。男性は戦場へ女性や子供は軍需工場へかりだされました。農村部も都市部も人手不足で開拓民を送り出せる状況ではなくなっていったのです。危機感を抱いた国は新たな政策を打ち出しました。満州開拓第二期五箇年計画です。戦線拡大に伴う食糧の増産が主な狙いでした。

 

満州への開拓民の数が伸び悩む中、農林省が存在感を増していきました。もともと貧農対策に力を入れていた農林省は、満蒙開拓が国策となったのち「分村移民」という仕組みを考えだしました。一つの村を日本に残る人たちと満州に渡る人たちに分ける、日本の母村から村人たちが集団で満州に渡り分村を作る、そうすることで双方とも一人あたりの耕作面積が増え、食料も増産できるという狙いです。開拓民の減少に歯止めがかからない中、農林省の分村移民が切り札ともいえる政策となっていきました。

「とにかく農林省が移民にタッチする道をつくることが必要だったんです。拓務省という主管省があるんですが、人材が整っていない、特に地方になるとね。例えば農林省は各都道府県に農林主事という者がいたでしょ。農林省の声がかからないと、その人たちも動きにくいんです。ですから、どうしても農林省がバックアップしないとできんやろうと」(元農林省総務課分村事務担当 音声テープより)

農業政策のトップにあった農林省はその強い影響力を背景に、農民たちの身近なリーダーである村長や地域の有力者に積極的に働きかけていきました。

「個々の農家を相手にしたんじゃ駄目ね。村の顔役、農村自身の指導者である村長さんとか。日本全国に網を広げるとこういう考え方でいったわけです」(元農村更生協会理事 音声テープより)

農林省主体で人を集めることで、発言力を強め予算や人員を拡大させようという思惑がありました。当初、関東軍と拓務省で進められてきた政策ですが、そこに農林省が加わり、全国各地の農村との結びつきを強めたことで27万人という大量の開拓民を送り出すことで可能となったのです。

 

昭和17年、国の意向は河野村の胡桃澤村長にも及んできました。地域の村長や町長が一堂に集められる会議で、開拓民の割り当てが課せられたのです。県が国の方針をふまえ、送る村人の数を町や村ごとに決めたのです。517戸の河野村に課せられたのは50戸。希望者がいない中、厳しい数字でした。この割り当てを受けた胡桃澤の苦悩が日記に記されています。

「開拓団送出の件、来る所迄来たのだ。此の問題には容易ならぬ困難さがあると思う。一時の熱情ぐらいで完成する問題でない」(胡桃澤盛の日記より)

河野村ではすでに働き手である若者も60人以上軍に召集されていました。胡桃澤は満州に村人を送るという決断が下せないでいました。

 

昭和18年、南方戦線では日本軍が相次いで敗退。そのことが村人を満州に送る圧力が増すことに繋がっていきました。満州の関東軍は主力の部隊が南方戦線の島々に次々と送られていました。満州は守りが手薄になり、農業を営む開拓民にも北方拠点の強化という役割が新たに課されることになったのです。満州に渡る人の数は減り続け、2万7000人余りになっていました。昭和18年4月、国はさらに農村から開拓民を誘導する政策を打ち出しました。皇国農村確立促進政策の導入です。日本各地にある農村のうち、食料生産の実績が優れ模範となる村を農林省が指定。村には当時としては破格の補助金が配布されました。農道や水路の建設、共同施設の設置など村が希望するインフラ整備の優先的な建設、農村にとっては魅力的な政策でした。しかし、農林省の幹部が作成した意見書にはある要件が記されていました。それが「満州開拓への協力」です。いわばアメとムチの政策でした。全国各地に東京から農林省の官僚らが次々と派遣されました。

「農林省経営課長の有益なる講話を聴く。皇国農村建設の理念、満州分村の重要性を説かれる」(胡桃澤盛の日記より)

胡桃澤のもとにも農林省の役人が何度も訪れ、村人を満州に送れば補助金が得られ村の将来が約束されると度々助言されました。

 

戦況がさらに悪化していく昭和18年10月21日、兵力を補うために学生を動員する事態にまで追い詰められていました。この日、胡桃澤は悩んだ末に決断しました。

「十月二十一日 曇 村の事業として送出計画を進むる事に肚を定める。安意のみを願っていては今の時局を乗りきれない。俺も男だ。他の何処の村長にも劣らない。勝れた指導者として飛躍しよう」(胡桃澤盛の日記より)

窮乏する村を立て直すには補助金を手に入れるしかないと、胡桃澤盛はついに村人を満州に送り出すことを決めました。胡桃澤は自ら村中をまわり説得に歩きました。農家を一軒一軒訪ね頼んでまわったと言います。当時、胡桃澤と一緒に村人の勧誘にあたったのが元河野村役場職員の松村房子さん(92歳)です。

「村長さんが行ってくださいって方々のうちをあれしてたものですから、私たちもどこのうちへ行きなさいって言われると言ってお願いして歩いたんです。とっても無理して行ってもらったって言ってたような記憶はあります」(松村房子さん)

しかし、割り当てられた50戸にはとうてい及びませんでした。結局、27戸95人が開拓民として海を渡ることになりました。希望者が少なかったため、中には親元を離れて一人開拓団に加わった14歳の少年もいました。

 

この時すでに日本は事実上、制海権、制空権ともにアメリカに奪われ満州に渡航することすら安全ではなくなっていました。開拓民を乗せた船が潜水艦によって沈められる悲劇も起きていました。しかし国策は続けられ、その後も終戦までに満州に送られた人は約3万7000人にのぼりました。

 

河野村の人たちが入植することになったのは、現在の吉林省長春市の郊外です。当時、満州に入植した村の多くは黒竜江省やソビエト国境近くの極寒の地。生活するのは容易ではありませんでした。一方、河野村の開拓民が入植したのは農作業に適した肥沃な地域でした。開拓民たちは一戸あたり2ヘクタール程度の農地で野菜や大豆などを育てることになりました。しかし、村人には知らされていない事実がありました。入植した地域は現地の人たちから強制的に買収した土地でした。8人家族だった蔡忠和さん(86歳)の家族は農地を失い困窮した生活を余儀なくされたと言います。

「日本人が来た途端に自分たちの土地にすると言ったところはそのまま奪われました。どうしようもないという気持ちでした。相手をやっつけることなどできませんから。皆憎んでいました」(蔡忠和さん)

事情を知らずに開拓地で暮らし始めた村人たちですが、翌年には多くの開拓団で45歳までの男性が関東軍に召集されました。河野村の分村でも21人の男性が召集されました。少年だった久保田諫さんの他は老人や女性ばかりになりました。他の開拓団も同じ状況だったと言います。

 

昭和20年5月、関東軍はソビエト軍にそなえ新京より南に防衛ラインを後退させることになりました。開拓民にはその事実は伝えられず、防衛ラインの外側に無防備に取り残されることになりました。終戦の直前、突如ソビエト軍が日ソ中立条約を破棄して満州に侵攻。開拓民が次々と砲撃にさらされ命を失っていきました。河野村の人たちにとっては脅威となったのはソビエト軍ではなく地元の住民でした。農地を失ったという現地の人たちが武器を片手に村に迫ってきたのです。

「とにかく大きな声でしゃべって拳銃を空へ向けてぶっ放したとたんにうわーっと鬨の声が上がって日本人の住宅へ飛び込んできてたたき出されてしまったんだ。着のみ着のままで」(久保田諫さん)

みなで山に逃げ込み、一晩を過ごしたものの翌日再び追われました。捕まった村人は殴る蹴るの暴行を受けました。あてもないまま女性や子供ばかりの村人たちは逃げまどいました。夕方、集団自決が始まりました。

「もう日本は戦争に負けてしまって、お父さんのところに会いに行きましょうって、お母さんたちは小さい子供からどんどん首を絞めて殺しはじめた。早く手伝ってくれというおばさんたちの声で。私はこの手で。忘れ去りたくって一生懸命忘れ去ろうと思ったけれど忘れ去りきれなかったね」(久保田諫さん)

日本の降伏後、関東軍は解体。大東亜省と名前を変えていた拓務省も廃止。中心となってすすめた省庁がなくなり、開拓団の人々の安否や消息は分からなくなってしまいました。胡桃澤は河野村95人の安否を確かめるため東京に赴き情報収集に奔走しました。しかし、情報は得られませんでした。失意のまま村に戻った胡桃澤は、家にこもりがちになっていきました。終戦から10ヶ月が経った頃、胡桃澤は満州から帰ってきた隣村の開拓団員から現地の惨状を初めて知らされました。以後、胡桃澤の日記の文字は大きく乱れ深い悩みがつづられていきました。そして終戦から1年後の昭和21年7月27日、胡桃澤は自宅で自ら命を絶ちました。41歳でした。

 

河野村では70年もの間、村長の自殺そして満州での集団自決について触れることはタブーとされ、語られることはありませんでした。戦後、急速な経済成長をとげた日本。1970年代以降、満州で家族と離れ離れになった孤児たちが相次いで帰国。満蒙開拓が今も続く悲劇として知られるようになりました。しかし、国は「戦争の損害はすべての国民が受忍しなければならない、国内外どこであっても異なるものではない」とその責任について言及してはいません。

 

集団自決の現場からただ一人生きて帰って久保田諫さんは、封印してきた自らの過去を今、若い世代に伝え始めています。




コメント

  1. 初めまして。この番組は、見ていませんでした。
    開拓団の人達は、人間の盾にされたのですね。
    今の日本は、ネオコンCSISの工作員が、総理や副総理を勤め、
    宮古島辺りで2週間の予定で日中戦争をする計画が進行中です。戦争屋は、その期間と規模を拡大する事を密かに計画済でしょう。
    北朝鮮は、黄海に続き、日本海の北方限界線周辺海域の漁業権も中国に売却しました、中国も北朝鮮も米国も日本も金融偽湯堕屋の傀儡です。上層部は、テーブルの下で堅く握手して、何も知らない自衛隊や住民の命を犠牲にして大金を懐に入れようとする魂胆が見え見えです。
    自民党清和会は、朝鮮半島人脈の巣窟であり、民進党の朝鮮系松下政経塾出身の政治屋と共に、日本を湯堕菌に売り渡す集団です。戦時中に阿片を中国人に売り、カネを貯め込み、敗色が濃くなると満州開拓民を置き去りにして帰国した屑共の子孫や縁者共が、湯堕と手を組み、日本を奈落に突き落とそうとしています。
    拝読させて頂き、有難うございました。

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