桶川女子大生ストーカー殺人事件|ザ!世界仰天ニュース

1999年10月26日、埼玉県JR桶川駅前で待ち伏せしていた男に猪野詩織(いのしおり)さんはナイフで刺され亡くなりました。後にこの事件は、桶川女子大生ストーカー殺人事件としてセンセーショナルに報道されました。

実は、この事件の裏側には警察の信じられない杜撰な捜査卑劣なねつ造行為がありました。

1999年3月、猪野詩織さんは高校時代から仲の良かった男の先輩を呼び出しました。ある男の名刺を渡し、「もし私が殺されたらコイツが犯人だから」と言いました。

詩織さんが男と出会ったのは1999年1月6日、大宮駅の東口のゲームセンターでした。男は車を販売している会社を経営していると言ったそうです。詩織さんは男の言葉を疑わず、二人は親しくなり付き合いが始まりました。男はブランド物のバッグや腕時計、高級スーツなどをプレゼントしてくるようになりました。

ある日、これ以上受け取れないとやんわりと断りました。すると、男は怒り出し、詩織さんは「この人なんか違う」と思うように。そんなある時、詩織さんが何気なくダッシュボードを開けてみるとカードが入っていました。しかし、そこに書かれた名前は聞いていた男の名前と違いました

3月20日、都内にある男のマンションに遊びに行きました。そこは全く生活感のない空間でした。詩織さんは隠しカメラを発見。すると男は怒りだし、壁を殴り続けたと言います。やがて、携帯電話には30分おきに男から電話がかかってくるようになりました。

男は車のディーラーなどではありませんでした。池袋でモグリの風俗店を何軒も持つ経営者だったのです。その金で好き放題やっていました。男はやがて詩織さんを一日中監視するように。この頃の詩織さんは親しい友人たちに「ツライ、キツイ、クルシイ」とメールを送っていました。

詩織さんは男に別れ話を持ち出しました。すると、男は詩織さんに携帯電話を折るように迫り「俺と別れたらお前に天罰を下す」と言いました。詩織さんは自分に何かあった時のため、身の回りで起きたことを高校時代の先輩に記録してもらっていました。

1999年6月14日、詩織さんは再度男に別れると告げました。すると、男は2人の見知らぬ男を連れて詩織さんの家にあがりこんできました。咄嗟に詩織さんはテープレコーダーのスイッチを入れました。

私は彼が勤務する会社の上司です。実は彼が会社の金を500万円ほど横領しましてね。問いただしたところ、お宅のお嬢さんにそそのかされたと。私たちは娘さんを詐欺で訴えます。

ついに詩織さんはこれまでのいきさつを全て両親に話しました。次の日、詩織さんと母親は所轄の埼玉県警上尾署を訪ねました。前日の3人の男たちのやりとりを録音したテープを2人の刑事に聞いてもらいました。しかし、刑事はこう言ってきました。

プレゼントをいっぱいもらってから別れたいと言ったら、普通怒るよ男は。あなたもいい思いをしたんじゃないの?こういうのは男と女の問題だから警察は立ち入れないんだよ。

ストーカー規制法がなかった当時、夫婦や恋人間のトラブルの相談は警察としても判断が難しかったのです。次の日、父親も加わって3人で警察に説明しました。しかし、取り合ってくれませんでした。

1999年7月13日、詩織さんの自宅周辺の壁や看板、電柱などに中傷ビラがところかまわず貼られました。また、中傷ビラは大学の最寄り駅にもビッシリ貼られていました。さらに大学構内にまで。とても一人の仕業とは思えませんでした。

ますます身の危険を感じた詩織さんは、母親と一緒に再び上尾署に駆け込みました。中傷ビラをまかれるというのは名誉棄損にあたると言われ、別の課に引き継がれました。しかし、警察の対応は消極的なものでした。

実は、この刑事第二課には後に懲戒免職になる3人がいました。その一人の課長は鑑識出身で捜査経験がなく、係長はこの頃仕事に対する意欲を失っていました。よって係員がほとんどの捜査を一人で担当していました。

そうしているうちにさらなる事態が。板橋区内で詩織さんの顔写真と電話番号が載ったカードが大量にばらまかれたのです。さらにインターネットの掲示板にも。

1999年7月29日、ようやく告訴状が受理されました。これによって警察は一定期間に捜査を行うなどの義務が生じることになりました。ところが、課長は告訴状を机の中に保管したまま動こうとしなかったのです。

1999年8月13日、父親の勤務先に詩織さんと父親を中傷する手紙が1200通送りつけられました。父親はすぐに手紙を警察に持っていきました。1999年8月30日、ようやく課長から次長へと告訴状が決裁にあげられました。

ところが、次長は署の成績を優先し、課長は部下に告訴状ではなく被害届を取ってくるように言いました。被害届による事件にしてしまえば、迅速な事件処理を迫られることもなくなります。そして部下は詩織さんに嘘をつき被害届に署名・捺印させました。

1999年9月21日、部下は告訴を取り下げるようにすすめました。告訴状は犯人が捕まってからでも簡単に出せると嘘をつきました。実際は、いったん告訴を取り消すと二度と同じ事件の告訴はできないのです。母は告訴の取り下げを拒否しました。実はこのとき署員は勝手に詩織さんの告訴状を改ざん。告訴を届け出に書き換えていたのです。これは明らかな違法行為です。

1999年10月26日、詩織さんは午後の授業に出席するため家を出ました。そして午後0時50分、JR桶川駅前で殺害されました。埼玉県警は捜査本部を設置。100人もの捜査員を配置しました。それは皮肉にも告訴状を勝手に改ざんした上尾署でした。

詩織さんは事件の1年前、友人の頼みでやむなく2週間だけスナックでアルバイトをしたことがありました。事件とは無関係なこの情報を警察は記者たちにリークし、「これは風俗嬢のB級事件だからね」と言い放ったのです。これにより、ごく平凡な女子大生だった詩織さんは特別な女子大生に仕立てあげられました

その頃、詩織さんの高校の先輩が写真週刊誌フォーカスの清水潔(しみずきよし)記者と会うことになりました。この出会いをきっかけに事件は大きく動き始めました。

清水記者は警察には取材を拒否されましたが、独自に聞き込みを開始しました。絶対に男に雇われた実行犯がいるはずだと探し、大久保(仮名)という男に行きつきました。清水記者は知人の新聞記者を通じて大久保の存在を県警捜査本部に伝えました。大久保はかつて広域暴力団に所属していた男でした。

清水記者は、大久保たちが池袋東口で新しい店を始めたという情報を得ました。その店が狙える張り込みポイントを見つけだし、大久保の出入りを狙いました。張り込みを続けて10日後、ついに大久保の撮影に成功。清水記者は大久保の居場所を県警捜査本部に伝えました。しかし、刑事たちは1週間経っても男を逮捕しようとしませんでした。

清水記者は詩織さんの両親と会い、詩織さんの訴えを放置した警察の怠慢、隠ぺい工作の数々を知りました。全てを記事にする覚悟を決め、その事を通告するために上尾署へ。ついに警察は動かざるおえなくなりました。

5日後、捜査本部は実行犯の大久保を殺害容疑で逮捕。清水記者の記事は、前代未聞の大スクープとなりました。

しかし、肝心の男の行方はつかめませんでした。そして、事件発生から3か月後の2000年1月27日、男の水死体が北海道屈斜路湖で発見されました。自殺でした。

殺人事件発生以来、あらゆる失態を隠し続けた埼玉県警ですが、国会で警察は追及の矢面に立たされ内部調査を余儀なくされました。そして、告訴調書を勝手に改ざんしたことを認めました。さらに、改ざんに関わった署員3人を懲戒免職にしました。ここにいたってようやく捜査の怠慢も認め謝罪しました。

この事件をきっかけに、その後ストーカー規制法が制定されストーカーを規制する法律が日本で初めてできました。しかし、その後もストーカー行為の果ての凶悪事件が続発。法律改正が後手後手に回ってきました。

2016年5月21日、東京・小金井市でアイドル活動をしていた大学生が駅からつけて来た男にナイフで何度も刺されました。逮捕された岩埼友宏は事件前に彼女のSNSに340件もの書き込みをしていました。事件をうけて、それまでストーカー規制法の対象外だったSNSを使った執拗な書き込みを規制対象に加える改正案が間もなく臨時国会に提出されます。

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桶川女子大生ストーカー殺人事件

この記事のコメント

  1. 高柳 悟 より:

    最初から信じちゃう気持ちはわかる。

    でも警察は信じれる対応をしてほしい。