ヤン・ファン・エイクの「ファン・デル・パーレの聖母子」|美の巨人たち

テレビ東京の「美の巨人たち」でヤン・ファン・エイクの「ファン・デル・パーレの聖母子」について放送されました。14世紀から16世紀にかけて芸術の世界に起きた革命ルネサンス。人間賛歌、人間復活をかかげ偉大な巨匠たちによって自由で斬新な芸術が次々に誕生しました。しかし、その革命以前に伝説の画家と呼ばれた男がいました。その筆さばきを人は「神の手」と呼びました。誰も見たことのない色彩世界を、驚くほど立体的で質感に溢れた画面を独自の技法で実現させたのです。

 

ベルギーの古都ブルージュは中世の港町です。ヤン・ファン・エイクの「ファン・デル・パーレの聖母子」はブルーニング美術館に飾られています。縦141cm、横176cmあまりの大作で、ブルージュの聖ドナティアムス教会の小礼拝堂のために描かれた祭壇画です。画面中央の玉座には真紅の衣装をまとった聖母マリアと幼子イエス。その左側に立つのは贅を尽くした司祭服に身を包んだ守護聖人ドナティアヌス。右側には聖母子の足元で跪く白い法衣姿の男性が。この絵の寄進者ファン・デル・パーレです。そしてその背後で聖母子にファン・デル・パーレを紹介しているのが彼の守護聖人ゲオルギウス。それまでの祭壇画の伝統と様式を覆す装飾的できらびやかな画面です。例えば聖ドナティアヌスの豪華な司祭帽は宝石が放つ重厚な光に思わず引き込まれそうな質感です。司祭服は厚みのある織物ならではの風合い。金糸刺繍の一針一針までも描きこまれています。さらにマリアの髪は一本一本の細かさだけでなく金髪ならではのしなやかなウェーブまで表現されています。キリストは赤ん坊らしいハリのあるふくよかな体。一方、ファン・デル・パーレのたるんだ皮膚や克明に描かれたシワはリアルに老いた姿を表しています。重厚な光をたたえ緻密で立体的な画面に圧倒されてしまいます。

 

ヤン・ファン・エイクは1425年頃からブルゴーニュ公国フィリップ3世の寵愛を受け宮廷画家として活躍しました。従来の絵画を革新し細密な質感描写と鮮やかな色彩法を確立。その天才的な技量は「神の手」とまで称えられ15世紀ネーデルランド絵画を世に知らしめました。

 

中世ヨーロッパの絵画では聖書の物語や神を伝統と様式にのっとった象徴的な形で描きました。人間ではない理想化されたものとして。しかし「ファン・デル・パーレの聖母子」は現実味あふれるリアルな姿です。それまでの絵とは全く違っていました。中世ヨーロッパで絵画と言えば宗教画でしたが、ヤン・ファン・エイクは光を自然のまま捉え全く新しい絵画を描いたのです。しかもイタリア・ルネサンスより前に。ヤン・ファン・エイクによってすでに絵画の新しい時代が始まっていたのです。

 

ファン・エイクの出世作「ゲントの祭壇画」はキリスト教の世界観を12枚のパネルで壮大に描いた祭壇画です。父なる神の姿は人間味あふれ細部にいたるまで入念に描かれリアルです。「ファン・デル・パーレの聖母子」でもリアルに描写されたファン・デル・パーレの姿が。数年前この絵を見た現代の医師がファン・デル・パーレの侵された病気を側頭動脈炎だと言い当てました。絵を見ただけで分かったのです。それほどリアルな描写をヤン・ファン・エイクはいかにして可能にしたのでしょうか。

 

当時、中世の絵画の主流は卵黄で顔料を定着させるテンペラ画でした。しかし乾くと透明感が消え光の輝きを生み出すことができませんでした。よりリアルに光の輝きを描くにはどうしたら良いのか、画家が着目したのは絵具を溶く油でした。顔料にどんな油を混ぜればいいのか試行錯誤を重ね、辿り着いたのが亜麻仁油でした。乾きやすく耐久性に優れ油彩画には欠かせない特性を持っていたのです。これによって透明感が高く伸びの良い絵具が誕生しました。この絵具は絵画の新しい扉を大きく開け放ったのです。画家の超絶技巧を生み出したのは特性を知り尽くした独創的な油絵具と、それを駆使した描き方でした。「ファン・デル・パーレの聖母子」にはその超絶技巧が満載です。甲冑の鈍く光る金属の質感は伸びのある絵具の特性を使い絶妙なグラデーションを描きました。光輝く宝石は絵具を薄く伸ばして透き通るように描き、下地の白を塗り残しテカリを表現。マリアの金髪では髪の毛一本一本の透明感を表現しふんわりと描きました。ヤン・ファン・エイクは新しい絵具で革命的ともいえる新しい絵画世界を築き上げたのです。

 

ファン・デル・パーレはバチカンの書記官までつとめた聖職者です。「ファン・デル・パーレの聖母子」はそんな彼が病を患い死を予感した時、この世に生きたことの証にと教会に寄進した一枚でした。聖騎士ゲオルギウスがパーレの衣を踏んでいるのは天に召される日が近いことを暗示しています。この場面はゲオルギウスがパーレを恭しく聖母子に紹介しようとしているところですが、パーレにはなぜか緊張感がありません。まるで放心したようにあらぬ方向を見つめています。この場面はパーレの目の前に聖人たちが現れた瞬間ですが、その姿は現実には見えるはずありません。ヤン・ファン・エイクはこの世に生きるパーレと見えるはずのない聖人たちを一緒に描きました。一緒に描くことで祈りが天に届き天に召されることが約束された瞬間を一枚の画面に表そうとしたのです。

 

ヤン・ファン・エイクが1433年に描いた「赤いターバンの男」は画家の自画像とも言われています。ゲオルギウスが背負った盾にはぼんやりと男の姿が描きこまれています。この男も赤いターバンを巻いています。ヤン・ファン・エイクの自負があったのかもしれません。1441年にヤン・ファン・エイクはブルージュで生涯を閉じました。神の手が描いた超現実の世界は600年経った今も何一つ色褪せることはありません。




コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。

コメントは管理人の承認後に表示されますのでしばらくお待ち下さい。管理人からの返信はありませんのでご了承ください。