女王の墓はいずこに
古代エジプト王朝の最後の女王がクレオパトラです。エジプトで墓といえばピラミッドですが、クレオパトラは大規模なピラミッドが盛んに建てられた時代より2500年も後の人物。もはや巨大なピラミッドは作られなくなっていました。
では、クレオパトラの墓は一体どこにあるのでしょうか?実はこの時代の王の墓は一つも見つかっていません。
エジプトの王は皆アレクサンドロス大王と同じ場所に埋葬された
(ローマ時代の記述より)
アレクサンドロス大王はクレオパトラよりも約300年前の人物で、エジプトからインドに広がる広大な帝国を築きました。大王の死後、帝国の領土は大王の部下たちによって分割され、その一つがエジプトでした。つまりクレオパトラはアレクサンドロス大王の部下の子孫にあたるのです。
アレクサンドロス大王が埋葬されたのはアレクサンドリア。大王がエジプトに作った都です。しかし、アレクサンドリアはクレオパトラが死んだあと、何度も戦乱や地震にみまわれ破壊されてしまいました。
そんな中、海の中からクレオパトラの時代の都が姿を現したのです。実は町の一部は地盤沈下で海底に沈んでいたのです。
女神の神殿の地下を探せ!
クレオパトラの墓はアレクサンドリアにあるという説は現在でも多くの研究者から支持されています。一方、アレクサンドリア説とは別の視点からクレオパトラの墓の謎に挑んでいるのが、エジプト考古学者のキャスリーン・マルティネスさんです。
マルティネスさんが注目しているのがハトホル神殿のレリーフ。クレオパトラ自身の姿が描かれています。女神イシスを模した姿をしています。自分をイシスと重ね合わせたクレオパトラ。墓はイシスと関係の深い場所にあるに違いないとマルティネスさんは考えました。
タップオシリス・マグナはイシスの夫である神オシリスの墓という名の遺跡です。ここにはクレオパトラが女王の当時、イシスにまつわる神殿が建てられ、エジプト北部のイシス信仰の中心地の一つだったとマルティネスさんは考えています。
タップオシリス・マグナからは400枚にも及ぶコインが出土しました。コインに描かれている女性は、発行の時期からクレオパトラ本人ではないかと言われています。そしてタップオシリス・マグナの地下には通路のような穴があることが分かりました。
ローマ時代に書かれた書物にクレオパトラの埋葬に関してもう一つ重要な記述があります。
「女王の亡骸はアントニウスとともに盛大に葬られた」
マルクス・アントニウスは同じ時代に繁栄を極めた強国ローマの将軍です。
愛する人と眠りたい
紀元前41年、エジプトの女王として君臨したクレオパトラは大きな課題に直面していました。それが強大なローマとの関係です。ローマは軍事力を背景に領土を拡大。エジプトへの圧力が高まっていました。この大国といかに渡り合うのかがクレオパトラに課せられた大きな使命でした。
そうした最中、将軍アントニウスが手紙を送り付けてきました。クレオパトラはアントニウスの元へ向かうことに決めました。
クレオパトラは黄金のアクセサリーや宝石で着飾り、美しい絵画から抜け出した美女のようだったと語り継がれています。こうしてクレオパトラはアントニウスを虜にしたのです。
2人が出会って間もなく子宝に恵まれました。双子の男の子と女の子です。クレオパトラは最愛の家族を得ることができたのです。
オクタウィアヌスはライバルのアントニウスとエジプトが手を結び強大化することに危機感をつのらせていました。そして、雌雄を決しようとエジプトに大艦隊を送り込みました。
戦に敗れたアントニウスは自害。クレオパトラは悲しみのあまり、アントニウスの名前を叫び続けたと伝えられています。そしてクレオパトラは毒蛇に己の身を噛ませ息を引き取りました。遺言には「アントニウスと同じ場所に葬って欲しい」と記されていました。
悲劇の最期をむかえたクレオパトラですが、その意志は子供たちに受け継がれていました。娘セレネはクレオパトラの死後ローマで育ちました。そして後にアフリカの国の王妃となりました。セレネは夫と力を合わせて国をおさめエジプトやローマの最先端の文化をもたらしました。
「歴史秘話ヒストリア」
女王はいずこに眠る クレオパトラの墓の謎
この記事のコメント
聖徳太子の予言の年と重なるかは、定かではないが 2500年前もの月日を経て 今になってクレオパトラのお墓の発掘の核心に近づいていることに 不思議な何かを予感させます。アメリカの大統領がかわる政権の節目を迎えていることも 含めて…
発掘学者のマルティネスさんの女性に宿る力(巫女)直感を信じて 早く見つけ出して欲しいです
クレオパトラは、哲学者であり 天文学者であり 政治家であり 数学者であったのだから お墓に何か 未来へのメッセージが記されてると思うのです。