山田方谷 納得の経営改革|知恵泉

NHK・Eテレの「先人たちの底力 知恵泉」で借金100億から立ち上がれ! ~山田方谷 納得の経営改革~が放送されました。幕末、とてつもない経営改革の達人がいました。山田方谷(やまだほうこく)です。当時、日本中の政治家が改革のお手本として憧れたと言われています。山田方谷が活躍したのは現在の岡山県にあった備中松山藩です。藩の財務大臣だった山田方谷は今に換算して100億円以上の借金を8年で返済。新たな産業をおこし交易を発展させ、近代ビジネスの先駆けのような成功をおさめました。

 

山田方谷とはどんな人?

山田方谷は文化2年(1805年)現在の岡山県高梁市に生まれました。家は農家で、田畑を耕すかたわら菜種油を売って収入を得ていました。山田方谷が15歳の時に父が死去。家業を継いで家を支える一方、山田方谷は学問にも熱中しました。仕事が終わると夜遅くまで書物を読みふける毎日でした。14歳で詠んだ漢詩に「世の中を救いたい」という将来の抱負がつづられています。優れた才能が藩からも期待され、山田方谷は江戸などに遊学。帰国後、32歳で藩校の校長になりました。さらに藩主・板倉家のお世継ぎ教育まで任されました。

その頃、備中松山藩は重大な経営危機に直面していました。10万両(現在の100億円以上)もの借金を抱え、財政破綻寸前だったのです。故郷が苦しむ中、30代の山田方谷は国のあるべき姿を模索していました。

「君子 義を明らかにして利を計らず 利は義の和なり」(理財論より)

政治家はビジョンを明らかにすることが大切で、目先の利益ばかりにとらわれてはいけない。利益はビジョンを実現していく中で後から自ずとついてくるもの。

そして45歳の時に、自ら教育を施した藩主・板倉勝静から重大な任務を命じられました。元締役です。藩の財政の全権を握る財務大臣です。山田方谷は借金まみれの財政を立て直すという難題を背負いました。

 

知恵①悪循環は徹底的に断ち切れ

まず取り掛かったのは慢性的な借金体質、悪循環を断ち切る対策です。積もり積もった借金10万両の利子を払うため、藩の重役たちが同じ商人から借金を繰り返す現状。これを止めるために山田方谷は嘉永3年(1850年)多くの貸主がいた大坂へ向かいました。そして藩の重役が隠してきた最悪の財政事情を商人に暴露。このまま金の貸し借りを続ければいずれ共倒れになり、元金すら回収できなくなると説得しました。その上、立て直しのビジョンも提示し、数百件もある借金の返済計画を明確に説明しました。驚いた商人たちは山田方谷をこう評しました。

「新任の元締は常器にあらず 必ず為す所あらんと」(「山田方谷先生年譜」より)

納得した商人たちは山田方谷の要望である利子の一時棚上げや、返済期限の延長を受け入れました。痛みを伴う改革に協力していく姿勢を示したのです。

さらに、藩が発行するお金「藩札」にも断つべき悪循環がありました。藩札とは藩の領域内での商取引にい使われる紙幣で、金貨や銀貨と同じ価値を持つものとされています。本来、藩札を発行するためには額面と同じ貨幣と交換できるよう藩は財源を持っていなければなりません。しかし、備中松山藩はこれまで幕府の公共事業や災害対策など臨時の出費を賄うために大量の藩札を発行してきました。その結果、藩札の価値は大きく下がり、お金としての信用を失ってしまいました。これによって藩内ではまともな経済活動ができなくなるという悪循環に陥っていたのです。山田方谷は藩札の信用回復に乗り出しました。鍵となるのは藩札と交換できる財源を確保すること。山田方谷は藩の施設を売り払い、藩士の給料の一部を削減。こうして得られた財源をもとに藩札を本来のレートで交換。信頼を回復させて健全な商取引が出来る環境を整えました。その上で、これまでの藩札を捨てて新しい藩札の発行を決定。健全な経済活動を再開するためのスタートラインに立ったのです。

さらに山田方谷は悪循環を断つため、もう一つダメ押しをしました。ある日、城下の河原に山積みとなったのは、すでに用済みとなった1万2000両もの旧藩札。山田方谷はこれに火をつけ燃やしました。

 

知恵②「自前」の強みを活かせ

財政改革を進める上で次の課題はどうやって収入を増やすかでした。山田方谷が着手したのは年貢米の流通改革でした。当時、備中松山藩では年貢で得た米を大坂まで運び、そこで売りさばいて現金収入に変えていました。大坂には蔵屋敷と呼ばれる米の貯蔵施設をかねた営業所があり、そこで藩から委託を受けた商人が販売を担当。大坂の商人は全国の米相場に詳しく商売上手、収入の一定額は商人が持っていきますが武士たちが行うより確実に儲かるため、多くの藩がこの方法を使っていました。しかし、山田方谷はこの大坂蔵屋敷を売り払い商人による委託販売を廃止しました。その代わり、備中松山でとれた米は現地にとめおき、産地直送で売りさばけば蔵屋敷の維持費も商人への委託費もコストカットできると考えたのです。問題は商売のプロの力を借りずに米商いができるのかでした。

山田方谷には、かつて江戸で学んでいた時の友人たちが全国にいました。彼らと連絡を取り合うことで山田方谷は各地の米の相場を把握していたのではないかと考えられています。その結果、余計なコストをかけずにより効率よく収益を上げることに成功していたのです。

続いて目をつけたのが特産品の開発です。備中地方は古くから良質な砂鉄がとれる場所です。そこで山田方谷は藩で鉱山を開発し鉄の産業を発展させようと考えました。その上で山田方谷が目をつけたのがマーケティング戦略です。山田方谷は江戸に注目。当時、人口が100万人を超えていたと言われる江戸の街。その生活を支える農産物を生み出す農民が関東には大勢暮らしていました。山田方谷はこの農民たちを顧客としたのです。当時、使いやすさで定評のあった備中鍬の大量生産と販売です。江戸への商品の輸送も藩の直営で行いました。大坂に立ち寄らず紀伊半島を迂回して運びました。販売拠点は日本橋にあった藩の中屋敷です。生産、流通、販売、全てを備中松山藩によって行うという合理的なシステムを確立したのです。

こうした改革の結果、8年間で借金10万両を返済。その上、黒字財政への転換に成功したのです。この財政改革は幕府にも評価され藩主・板倉勝静は幕閣に起用され老中までつとめました。


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