備中松山城|歴史秘話ヒストリア

わしゃ城主になりたいんじゃ

江戸時代、徳川家康は自らの政権を安定させるため一国一城令を出しました。現在の県にあたる国ごとに城は原則1つしか許さないというものです。この命令が出された結果、全国に3000以上あった城は170ほどに激減。備中で家康が存続を許した城は、備中松山城でした。

 

備中松山城は、中国地方の交通の要にあった城です。家康はこの地域のおさえとして重要視していました。それから約70年後、この地の領主となっていたのは水谷勝宗(みずのやかつむね)という大名です。

 

水谷勝宗はこの地に来る前は城を持っていませんでした。自分のものになった城へ行ってみると、城はボロボロになっていました。当時、戦国から80年近くが経ち、すっかり太平の世に。備中松山城のような山の上の城など不便なだけでした。水谷勝宗の前の領主たちも、荒れるがままに放置していたと考えられます。

 

一国一城令によって、当時の大名の半分は城を持ちたくても持てない状況でした。水谷もその一人。どんなに荒れていようともせっかく手に入った城です。

 

しかし、武家諸法度の中の城についての決まりには「新規の城の建築は固く禁止する」と書かれています。修理というより築城に等しい備中松山城の工事は、法律違反とみなされるかもしれませんでした。それでも、幕府からは修築の許可がおりました。

 

この度、城の修復を幕府にお願いしたところ首尾良く元の姿のように建てよとのお許しをいただきました。この上なくめでたく大変喜んでいます。

(水谷勝宗の書状)

 

幕府の許可を得て、勝宗の家臣たちは城の工事に取り掛かりました。そして3年の歳月をかけリニューアル。備中松山城が完成しました。

 

よみがえれ天空の城!

明治になると日本の城に大きな危機が訪れました。明治6年の廃城令です。接収された城は安値で売り払われ、多くが古の姿を失っていきました。

 

備中松山城も7円(現在の約5万円)で売りに出されました。買い取ったのは地元の商人でしたが、あまりに険しい山の上にあるため、そのまま放置されました。

 

昭和になると備中松山城の存在はほとんど忘れ去られていました。その頃、城の麓の学校に歴史の教師・信野友春(しなのともはる)が赴任してきました。信野は幼い頃から山にある城に強い興味を持っていました。

 

しかし、信野が目の当たりにしたのは今にも崩れそうな天守の姿。初めて備中松山城を見てから2年後、信野は調査を一冊の本にまとめました。この本を読んだ地元の人々は、それまでほとんど関心のなかった備中松山城に目を向け始めました。人々は、故郷の城がいかにかけがえのないものであるかに気づいたのです。

 

昭和14年1月、地元の町は天守の修復費用として予算1万5000円(現在の約750万円)を捻出。天空の城復活への第一歩でした。まず天守は全て解体。崩れかけていた石垣も新たに積み直しました。

 

しかし、瓦(2万枚)を山の上に運ぶ問題が出てきました。すでに予算はギリギリで、新たに人を雇う余裕はありませんでした。このとき現れた助っ人が、山の麓にあった旧制高梁中学校の生徒たちです。子供たちも加わった町ぐるみの協力で城の瓦は山の上に運びあげられたのです。昭和15年11月1日、天守の修復作業が完了しました。

 

現在、高梁市では少しでも多くの人に来てもらおうと山の中腹までシャトルバスを運行しています。天空の城ブームもあって観光客は年々増加しています。

 

「歴史秘話ヒストリア」
そうだ!天空の城へ行こう

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