与謝野晶子と柳原白蓮 愛をうたった女たち|歴史秘話ヒストリア

柳原白蓮 私はカゴの鳥じゃない

夜ごと華やかな舞踏会が開かれ文明開化の象徴となった鹿鳴館。その輝きにちなんで名前をつけられたのが柳原燁子(やなぎはらあきこ)、後の柳原白蓮(やなぎはらびゃくれん)です。

柳原白蓮

生まれは1885年、名門の華族の家柄で大正天皇のいとこにあたります。

結婚そして…失意

25歳の時に結婚。家同士が決めた縁談でした。相手は伊藤伝右衛門。炭鉱夫から身を起こして大富豪となり「炭鉱王」と呼ばれた人物。年齢は50歳、燁子より25歳も年上でした。

伊藤伝右衛門

それでも燁子は結婚を決意しました。

私は善良な伝道師が神の道を伝える心持ちのように荒れたる野を耕す考えでした。

(知人宛の手紙より)

伝右衛門が福岡に作った女学校の運営に携わることで社会の役に立ちたいと考えたのです。

1911年、燁子は伝右衛門のもとへと嫁ぎました。今も残る家は敷地面積2300坪。豪華な屋敷でした。

ところが、結婚生活が始まると夫婦の間には大きな溝が。学校の運営に関わりたいと願い出た燁子ですが、受け入れられませんでした。一番の望みが叶わなかったのです。

お姫様育ちで何の経験も能力もない。少し叱るとしくしくと泣いては二日でも三日でも寝た。

(伝右衛門の言葉より)

情念の歌人誕生

満たされぬ思いを燁子が吐き出した手段こそ短歌でした。

誰か似る
鳴けようたへとあやさるる
緋房の籠の美しき鳥

燁子は本名ではなく雅号を使い始めました。白蓮(びゃくれん)です。情念の歌人の誕生でした。

結婚5年目、29歳の時に第一歌集を出版。題名は「踏絵」です。白蓮は本当の自分を押し殺しながら生きる姿を、信仰を隠すために踏絵を踏まざるおえなかったキリスト教徒に重ね合わせました。

運命の出会い

結婚から9年後の1920年、柳原白蓮に運命の出会いが訪れました。宮崎龍介、7歳年下の東京帝国大学の学生でした。普通選挙の実現や女性の社会参加などを目指して活動していました。

柳原白蓮は真っ直ぐな心を持つ宮崎龍介に強く惹かれていきました。柳原白蓮は文学の会合などを理由にしばしば九州から上京。逢瀬を重ねました。

もあなた決して他の女の唇には手も触れて下さるなよ
女の肉を思っては下さるなよ
覚悟していらっしゃいまし
こんな恐ろしい女
もういや、いやですか
いやならいやと早くおっしゃい
お返事は?

(柳原白蓮から龍介への手紙より)

衝撃の「公開絶縁状」

1921年10月、柳原白蓮と龍介はついに駆け落ちを決行。2日後、新聞に柳原白蓮から夫への離婚の申し出、絶縁状が発表されました。

「金力を以って女性の人格的尊厳を無視する貴方に永久の別れを告げます」

この絶縁状は一大センセーションを巻き起こしました。新聞への投書はほとんどが激しい非難でした。

「貴族にありがちな低能の女」

「たった今死ね」

世間を騒がす公開絶縁状を柳原白蓮はなぜ出したのでしょうか?それは当時あった大きな障害を避けるためでした。姦通罪です。

当時、夫が愛人を作ることは社会的に容認されていました。しかし、妻が他の男と関係を持った時、夫が訴え認められると姦通罪が適用されました。男女共に懲役を科され、一生二人は結婚できません

伊藤伝右衛門は柳原白蓮を離縁。しかし、姦通罪で訴えることはしませんでした。

ようやくつかんだ幸せ

ようやく本当に望む人生を手に入れた柳原白蓮。後に息子と娘、2人の子供が生まれました。

父と母と子等と四人がけふあらむ
その日のためのある日のおもひ

家族を詠んだ歌は喜びに満ちていました。

晶子と鉄幹 夫婦再生物語

1878年、老舗の和菓子屋の娘として生まれた晶子。幼い頃は家業の手伝いに明け暮れました。

与謝野晶子

唯一の楽しみは本を読み文学の世界に浸ること。内気な少女に育っていったと言います。

人生を変えた出会い

1900年、晶子21歳の時に運命を大きく変える男性と出会いました。与謝野鉄幹(よさのてっかん)短歌の革新を目指す27歳の若者でした。

それまでの花鳥風月などを詠んだ和歌とは異なり、物事を力強く率直に歌いました。

晶子は鉄幹にすっかり夢中になってしまいました。

鉄幹への抑えがたい思い

しかし、鉄幹には内縁の妻と子がいました。それは道ならぬ恋。ですが、内に秘めた情熱は抑えがたいものでした。

やは肌の
あつき血汐にふれも見で
さびしからずや道を説く君

出会ってから5カ月後、ついに鉄幹と晶子は2人だけの旅へ。そして、運命が晶子に味方しました。鉄幹が妻と別れることになったのです。

「みだれ髪」誕生

1901年、鉄幹のプロデュースで晶子は第一歌集を出版。「みだれ髪」です。タイトルそのままに晶子は熱い思いを大胆に歌いました。

くろ髪の千すぢの髪のみだれ髪
かつおもひみだれ
おもひみだるる

恋することで変わった一人の少女。情熱の歌人、与謝野晶子はこうして生まれたのです。

結婚 子育て 苦しい家計

1901年、二人は結婚し東京に住まいをかまえました。翌年には長男が誕生。その後も毎年のように子宝に恵まれ11人もの子供に囲まれた賑やかな結婚生活でした。

しかし、家計は苦しかったと言います。理由の一つは鉄幹の創作姿勢です。

「例え損をしても良いものを出す。それは後世に残る。それこそが我々の使命だ。」

そんな鉄幹が金を惜しまずに作ったのが雑誌「明星」です。表紙は有名画家に依頼。さらに、北原白秋や石川啄木など気鋭の文学者を多数起用。そんなわけで与謝野家の経済状況は厳しく、妻の晶子が家計を支えました。

晶子は赤字の埋め合わせに時には気が進まない仕事も引き受け、寝る間を惜しんで執筆をつづけました。

夫・鉄幹の失意と挫折

「明星」が時代の流れに取り残され、発行部数が落ち込み100号をもって廃刊に追い込まれました。大きな失意の中、鉄幹は働く意欲を失くしてしまいました。

そんなある日、晶子は鉄幹が包丁でアリをつつきまわしている姿を目撃。

夫の再生を願って

晶子が思いついたのはフランスへの留学。とはいっても、船賃や宿代に莫大な費用がかかります。晶子は猛然と金を稼ぎ始めました。さらに借金までして必要な資金をかき集めました。

1911年、鉄幹をフランスへ送り出しました。

鉄幹が恋しい!寂しい!

ところが、晶子は食べ物が喉を通らなくなり、気持ちもひどく落ち込むように。

初恋の日は遠く過ぎましたがあなたを恋する新たな気持ちが私の中に湧き上がっています。あなたがいない今のこの寂しさをどうやって紛らわせたいいのか分かりません。

(良人への手紙より)

1912年、晶子は子供たちを残したままパリへ。

夫婦再生のフランス旅行

そして晶子は半年ぶりに鉄幹と再会しました。晶子と鉄幹は結婚当初に戻ったかのような二人きりの時間を過ごしました。

この旅で晶子にとってとりわけ印象的だったのは、街の郊外で辺り一面真っ赤に咲く花を見たこと。ひなげしでした。フランス語でコクリコ。

ああ皐月
仏蘭西の野は火の色す
君も雛罌粟 われも雛罌粟

一緒に暮らし始めて10年。思い切って出た二人だけの旅が夫婦の燃えるような感情を蘇らせたのです。

新発見!それからの晶子と白蓮

1904年、日本はロシアと激しく対立。日露戦争が始まりました。

「君死にたまふこと勿れ」

与謝野晶子の弟・壽三郎も戦争に召集されました。

あゝをとうとよ君を泣く
君死にたまふことなかれ
末に生まれし君なれば
親のなさけはまさりしも
親は刃をにぎらせて
人を殺せとをしへしや

しかし、この詩が発表されると非難が巻き起こりました。国家が一丸となって戦いにのぞむべき時に不謹慎だと言うのです。

晶子は反論しました。

歌は歌です。まことの心を歌わぬ歌になんの値打ちがあるでしょう。私は長い年月を経ても変わらぬ真実の感情をうたいたいと存じます。

(「ひらきぶみ」より)

情熱的な恋愛の喜び、肉親の無事を願う気持ち。晶子が歌ったのはまことの心でした。

与謝野晶子と女性教育

その後、晶子は後に続く女性たちのために活動を続けました。それは女性の教育の充実でした。時代が明治、大正から昭和にうつっても活動を精力的に行いました。

柳原白蓮 新発見の歌

1940年頃、柳原白蓮は料理旅館を営んでいたお宅に立ち寄りました。そして、これまで知られていなかった歌を残していたのです。

さかしまに
かけを落せる
梧の梢
みそらのほしは
水底にあり

天の愛
地のあい
やかて人の愛
しつこころなき
わかき日の夢

柳原白蓮 戦争の中で

1941年、太平洋戦争が開戦。戦局が悪化する中、白蓮の長男で大学生の香織が召集されました。

わが膝を枕にさせて征く吾子の
頭しみじみ撫でさすりけり

一方で白蓮は国のため息子を送り出す気持ちを雄々しく歌いました。

日の丸の御旗を肩にかけて征く
あれが我子よ 見てたもれ人

柳原白蓮 息子への思い

1945年、敗戦。白蓮は息子の帰りを待ちました。しかし、届いたのは鹿児島の基地で攻撃を受け、戦死したという知らせ。亡くなったのは8月11日のことでした。

たった四日
生きて居たらば死なざりし
命と思う 四日が切なき

白蓮の髪は一夜にして真っ白になったと言います。

あの日 日の丸の旗を肩にして
出て征つたあの子の姿は
胸に焼きつけられて
今もなお痛む
あのおとなしい子が
人一倍子ぼんのうの両親の家を
不平一つ言わず
勇ましく門出をした
あれは一体
誰故に 誰に頼まれて
あゝしたことになつたのか―と

(「誰故にこの嘆きを」より)

その後、白蓮は自分と同じように子供を失った母親たちと平和運動に取り組み、全国を講演してまわる日々を送りました。

与謝野晶子と鉄幹が最後の月日を過ごした書斎が冬柏亭。結婚して30年余り、晶子は最愛の夫を看取りました。

筆硯煙草を子等は棺に入る
名のりがたかり 我れを愛できと

思うままに恋をし、その気持ちを思うままに歌にした二人の女性。その姿は今も私たちを虜にします。

「歴史秘話ヒストリア」
新発見!愛をうたった女たち
与謝野晶子と柳原白蓮

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