サン・サーンスの交響曲第3番「オルガン付き」|ららら♪クラシック

創作スイッチはオルガンにあり

サン・サーンスが円熟期の50歳で作曲した「交響曲第3番」は、オルガン付きと呼ばれるように、この曲の最大の特徴は交響曲にパイプオルガンを使っていることです。それまで、オルガンを使った交響曲はいくつかあるものの、どれも伴奏としての役割がほとんどで、それほどオルガンが目立った形で活躍することはとても珍しいことでした。

 

カミーユ・サン=サーンス

1835年、フランスのパリで生まれたカミーユ・サン・サーンスは2歳でピアノを弾き始め、12歳でパリ音楽院に入学。そこでオルガンと出会いました。3年後には権威あるオルガンコンクールで入賞。その腕前は同時代に活躍したオルガニスト達から絶賛される程でした。

 

そして、マドレーヌ寺院の首席オルガニストを約20年つとめました。特に即興演奏の評判は高く、その名はヨーロッパ中に広まり、当時の音楽界のスター達も彼の演奏を聴きに来たと言います。

 

オルガンの鍵盤に触れることが私の想像力を呼び覚ます。オルガンは自分の無意識の奥底に隠れていたものを引き出してくれるんだ。

(サン・サーンス)

 

サン・サーンスにとってオルガンは、創作意欲を刺激する楽器だったのです。そして50歳の時、ロンドンにある有名な音楽団体の依頼により作曲したのが「交響曲第3番オルガン付き」です。

 

19世紀になり、それまで主に教会にしかなかったオルガンが次第に一般のコンサートホールにも設置されるようになりました。初演が行われたホールにも既にオルガンが入っており、さらにそのオルガンをサン・サーンスは演奏した経験があったのです。

 

そこで思いついたのが、交響曲にオルガンを入れるという画期的なアイディアでした。これまでの交響曲にはないオルガンの音色が際立った作品は大きな注目を集め、初演は大成功をおさめました。

 

よみがえれ!フランスの交響曲

19世紀後半、パリにはオーケストラや室内楽の演奏団体が増え頻繁にコンサートが行われていました。しかし、そこで演奏されるのはドイツの作曲家のものばかり。特にベートーベンは「交響曲の神」として大ブームになっていました。

 

フランスにも交響曲を手掛ける作曲家はいましたがヒットには恵まれず、フランス人の名前がポスターに出るだけで客足が途絶えるという情報もありました。

 

そんな中、1871年にフランスは普仏戦争で敗北。敗戦の悔しさからフランス国内で自国の文化を盛り返そうという空気が生まれました。その影響は音楽界にも。フランス独自の音楽を発展させるために、国民音楽協会という新たな音楽団体が結成されたのです。

 

サン・サーンスは、この団体の創設メンバーでした。フランスの作曲家たちの素晴らしい作品を広めたいと、埋もれていた作品に演奏の機会を与えようと力を尽くしたのです。そして、サン・サーンス自身もいつかベートーベンをしのぐようなフランス独自の交響曲を作りたいと思い続けていました。

 

20代までに交響曲をいくつか発表していたサン・サーンスですが、次第に教会のオルガニストやピアノの演奏旅行、国民音楽協会の仕事に追われ交響曲の作曲に集中できなくなりました。

 

そんな中、42歳の時に2人の子どもが事故と病気で亡くなりました。そして妻とも別れることに。さらに、当時フランスで人気のあったドイツの作曲家ワーグナーをめぐっても問題が起こりました。サン・サーンスはワーグナーに熱狂する人たちを批判しフランス国内からも大きなバッシングを受けたのです。

 

ロンドンの有名な楽団から交響曲の新作依頼が舞い込んだのはそんな時でした。子供を失った悲しみ、世間に対する反発、フランス音楽への誇り、いくつもの激しい思いをぶつけるかのようにサン・サーンスは曲作りに没頭しました。そして、わずか半年で「交響曲第3番オルガン付き」を完成させたのです。

 

この作品に私が注ぎこめるすべてを注ぎこんだ。だからこのようなものを私は二度と書かないだろう。

(サン・サーンス)

 

サン・サーンス自身が指揮をとった初演は大成功をおさめました。地元パリでの演奏会後、一人の音楽家が彼に向かって「フランスのベートーベンが行く!」と叫んだと言います。

 

サン・サーンスの最後の交響曲は、フランス音楽史に燦然と輝く傑作となったのです。

 

「ららら♪クラシック」
サン・サーンスの交響曲第3番「オルガン付き」

この記事のコメント