1982年2月9日、早朝の羽田空港周辺は異様な緊張の中にありました。乗客・乗員174人を乗せた福岡発の日航350便が羽田沖に墜落したのです。着陸直前だった旅客機に一体何が起きたのでしょうか。
350便は、空港まで1kmの時点で順調に着陸態勢をとっていました。ところが、なぜか突然急降下。滑走路手前の誘導灯をなぎ払うようにして浅瀬に突っ込みました。墜落の衝撃に機体は真っ二つに折れ、前方の機体が後方にめりこみました。
後に事故の原因は、機長の精神疾患による操縦ミスと判明。機内から海に投げ出された乗客の多くが命を落としました。
海中で発見された死者は20人。機内で亡くなった人は4人。乗員を含む生存者149人は陸地へと運ばれました。
最後の生存者
救出作業開始から1時間、機内に残る生存者はあと一人でした。機体が折れたのは、前方4列目と5列目の境。機体前方の天井部分が後方の座席を押しつぶしていました。亡くなった乗客の多くは前方から11列目までに座っていました。
最後の生存者がいたのは12列目。墜落でちぎれた機体前方の天井は、生存者の腹部に迫り深々とおさえこんだ所で止まっていました。天井が体にくいこんで身動きできず、容易には助け出せませんでした。
消防本部の指令で、最後の生存者の救出にあったのが医師の高橋康之さんです。羽田空港に近い蒲田で今も開業している高橋さん。この時、高橋さんは言い知れぬ運命を感じたと言います。実は、高橋さんの父親も同じような経験の持ち主でした。
それは1966年、羽田空港で起きた飛行機事故。駆けつけたにも関わらず現場への立ち入りさえも許されず乗員乗客64人が亡くなりました。「俺は誰一人救えなかった」と苦しむ父の姿が高橋さんの目に焼きついたと言います。父親を追いかけて高橋さんは医師となり病院をつぎました。羽田空港は目と鼻の先。時間を見つけて航空関係の専門書を読み漁り不測の事態にそなえていました。
現場にのぞんだ高橋医師は、生存者の状況に絶句しました。腹部にはまるで突き刺さるような天井。背骨まで達しているかのように見えたと言います。腹部のすぐ脇には鋭く千切れた切断面。丸みのある側面が食い込んだのが不幸中の幸いでした。強い圧力が、返って内臓の出血を止めているとすれば救えると高橋医師は考えました。しかし、金属を切断するカッターを使うと爆発の危険がありました。
消防隊員は火花が出ない鋸で切断を試みました。しかし、全く歯が立ちませんでした。
容態が変わり始めたのは墜落から3時間後のこと。血圧が低下して測定不能に陥ったのです。
そこで、高橋医師は椅子をくみ上げているボルトを外そうと考えました。取り外すのは左側の肘掛部分。わずかな隙間から女性を救い出す作戦でした。
無事に救い出された女性は、病院に運ばれ一命を取り留めました。墜落から3時間半、奇跡の救出でした。
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