津山30人殺害事件|激動!世紀の大事件Ⅲ

フジテレビの「報道スクープSP 激動!世紀の大事件Ⅲ」で津山30人殺しについて放送されました。推理作家・横溝正史はこの事件をヒントに「八つ墓村」を書きました。一夜のうちに30人を殺害し2人に重症を負わせた男。空前の猟奇事件は「津山30人殺し」と呼ばれました。過去に例を見ない犯罪が行われたのは80年近く前のことです。事件はなぜ起きたのでしょうか?

 

アメリカ・スタンフォード大学の図書館に捜査資料が残されています。「津山事件報告書」は当時の司法省が作成した極秘資料でした。21歳の犯人・都井睦雄(といむつお)の顔写真をはじめ凶行に及んだ背景や用いた武器なども詳らかにされています。現場は岡山県津山市の北部に位置する小さな集落。被害者は全て犯人と顔見知りでした。家族全員の命を奪われた家もありました。報告書には「頭脳明晰にして将来を嘱望された青年を凶暴凄惨極まりない犯行にかりたてた理由は孤立無援の生活にあった」と書かれています。

 

主に農業と養蚕を生業とする100人程の集落では誰もが互いを知っていました。村人たちは幼い頃から学業に秀でていた都井睦雄を頼もしく見ていたと言います。都井睦雄には思いを寄せる娘がいました。幼馴染のさとみ(仮名)です。将来を誓い合っていたと言います。しかし早くに両親を亡くしていた都井睦雄は心無い風評に不安を募らせていました。さらに事件の3年前の冬(昭和10年12月31日)都井睦雄は結核になってしまいました。当時、結核は不治の病で「津山事件報告書」は結核の発病が都井睦雄を自暴自棄にさせたと読み取っています。都井睦雄の日記には「今日誰だったか僕に聞こえよがしに都井の親は両人とも肺で死んだと声高に話していった。僕の命もそう長いものではない。僕は今日を期して180度の転換だ」と書かれています。

 

投げやりで荒んだ暮らしに追い打ちをかけたのが幼馴染さとみが別の家に嫁いだことでした。そして口さがない人々は結核の感染を恐れあからさまな言葉を投げつけました。村八分も同然でした。当時の共同体は掟や秩序を破ったものに制裁を加えました。葬式と火事を消す以外、一切手助けしなかったのです。都井睦雄はそのすべてを悪意ととらえました。

 

やり場のない怒りからか都井睦雄は猟銃を手にするようになりました。昭和12年、日中戦争がはじまると集落の若者たちも戦地へかりだされましたが、都井睦雄は徴兵検査にもはねられました。鬱屈はますます増幅していきました。猟銃と共に密かに日本刀を集め始めたのもこの頃です。5連発の猟銃を9連発に改造しました。

 

理性の堤防が決壊したのは昭和13年5月、かつて恋した娘と再会した時でした。犯行を決意した都井睦雄は集落に通じる電線を切断。5月21日未明、村人が深い眠りに落ちるまで都井睦雄はじっと待ち続けました。この時のために用意していたのは白いシャツと黒の詰襟。足にはゲートルを巻き、頭には懐中電灯。最初の犠牲者は祖母でした。両親を亡くした都井睦雄にとっては両親も同然の存在でしたが、殺人鬼の家族が後にどんな目に合うのかを恐れての身勝手でした。自宅を出た都井睦雄は向かいの家へ。そこには日頃から都井睦雄に辛辣な言葉を浴びせてきた女性がいました。そして一家3人を殺害。都井睦雄は次の家で一家4人を殺害。そして、かつての恋人が眠る家へ。しかし、さとみは一瞬の隙を得て外へ逃げ出しました。都井睦雄はわずか2時間たらずのうちに自宅を含む12軒を襲撃。30人を殺害し2人に重症を負わせました。

 

夜明けと共に都井睦雄は山に逃れ、警官隊・消防隊など千人以上が山狩りに動員されました。しかし都井睦雄は自らの心臓を撃ち抜き自殺。遺書を残していました。「決行するにはしたが、うつべきをうたずうたいでもよいものをうった。もはや夜明けも近づいた。死にませう」と書かれていました。




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