古代マヤ文字を解読せよ|地球ドラマチック

NHK・Eテレの「地球ドラマチック」で古代マヤ文字を解読せよが放送されました。マヤ文明はメキシコ南部から中央アメリカにかけて2000年以上に渡って栄えた文明です。マヤ文明は複雑な絵文字を使っていました。さまざまな石碑や建造物、木の皮でできた書物などに今も見ることができます。しかし、絵文字が一体なにを意味しているのかは長い間なぞに包まれていました。200年近くに渡り様々な人がマヤ文字の解読に情熱を注いできました。

 

16世紀、スペインはアメリカ大陸に進出するとマヤ文明を破壊していきました。その先頭に立ったのがカトリックの修道士ディエゴ・デ・ランダ。目的はマヤの人々をカトリックに改宗させることでした。修道士であるディエゴ・デ・ランダはマヤの書物を悪魔の道具をみなし強行な手段をとりました。破壊を免れ後世に残った書物はたったの4冊です。マヤの人々はアルファベットを強制的に習わされ、マヤ文字を読み書きできる人はいなくなりました。現在、中央アメリカのグアテマラに住むマヤの人々は今も古代の神々に捧げ物をしています。伝統を守り続けてきたマヤの人々ですが、マヤ文字を読み書きすることはできません。今そのマヤ文字を解読することで失われた歴史が蘇ろうとしています。

 

1880年代、イギリスの考古学者アルフレッド・モーズリーはカメラを持ち込み、写真によって絵文字を正確に把握できるようになりました。モーズリーの写真に基づきマヤ文字の研究が本格化。一方、スペイン人による焼却をまぬがれたマヤの書物も再発見され解読が進められました。残された4冊のうち3冊はスペイン、フランス、メキシコにありましたが最も詳細に描かれた1冊はドイツのドレスデン王立図書館にあり「ドレスデン絵文書」と呼ばれるように。絵文書は長い間存在を忘れられていましたが1810年に出版されたアメリカ大陸に関する本に一部が載せられたことで注目を集めました。見慣れぬ文字に強い関心を持ったのはアメリカの博物学者コンスタンティン・ラフィネスク。ラフィネスクはそこに書かれた棒と丸を見て、1本の棒が5を表していることに気づきました。1は丸が一つ、2は丸が2つ、3は3つ、4は4つ、5は棒。棒に丸が一つつけば6、2つつけば7。こうして解読が始まったのです。ドレスデン絵文書の解読をさらに進めたのは図書館司書のアーネスト・フェルステマンでした。フェルステマンはマヤの人々が暦を持ち天文学にも取り組んでいたことを解読しました。絵文書に月食と日食の日が正確に予測されていたのです。金星の周期を記した表までありました。フェルステマンの最大の功績はマヤの暦の始まりの日をつきとめたことです。それは絵文書に記された「4Ahau8Cumku」という数字。西暦に直すと紀元前3114年8月13日になります。暦の始まりの日が分かったことで石碑に記された年代を特定できるようになったのです。

 

マヤ文字の解読に大きな役割を果たしたのがイギリス出身の考古学者J・エリック・トンプソンです。トンプソンは800を超えるマヤの絵文字を細かく分類して番号をふり整理していきました。トンプソンはマヤの人々と一緒に暮らした経験があり、マヤの文化に深い敬意を払っていました。トンプソンはマヤ文字解読の鍵は時間とその経過をつづった石碑にあると考えました。石碑に描かれている人物は神々や神官であり絵文字は天の世界の神秘を記したものだと結論づけたのです。マヤ文字は歴史や物語ではなく日付と天文学的な情報だけを記したものだと考え、石碑の建設は神々と交信するための神秘的な行いだと考えました。ほとんどの学者がトンプソンの説を受け入れマヤ文字は暦の日付以外理解不能だと考えました。そのため解読など不可能だと諦めてしまったのです。

 

そうした見解を一人の女性が覆します。タティアナ・プロスクリアコフです。彼女は建築家を目指してアメリカで勉強していましたが、大学を卒業した1930年は大恐慌の真っ最中で就職先は見つかりませんでした。ある日プロスクリアコフはペンシルベニア大学の博物館で求人広告を見つけました。遺跡でスケッチや復元をする仕事です。プロスクリアコフは測量士としても画家としても優秀でした。遺跡を描いた図面は極めて正確でマヤの都市を見事に蘇らせるものでした。プロスクリアコフは男性が独占していた考古学の世界で20年近く活躍し1958年に現場を退きました。その後、ピーボディ考古学民俗学博物館に勤め地下室に保管されていたマヤに関する資料を研究し始めました。自分が写した遺跡の写真を見ているうちにプロスクリアコフはあるパターンに気がついたのです。神殿の前に並んだ石碑は5年に1本ずつ建てられたものです。石碑の中には上部のくぼみに腰掛けた人物が彫られたものがありました。一番下の部分には生贄の姿があり、1本の梯子が上の人物へと伸びています。プロスクリアコフはこの意味を解き明かしていったのです。どの石碑にも必ず奉納された日付が刻まれていますが、何本かの石碑にはそれ以外にも不思議な日付が残されていました。そして日付の後には布を巻いた鳥の頭の絵文字が彫られていました。この文字は一体何を意味するのでしょうか。プロスクリアコフは鳥の絵文字が彫られる12年前から31年前のどこかに別の日付が彫られているのを見つけました。一番早い日付のあとには上を向いたイグアナの頭が彫られています。プロスクリアコフはイグアナの絵文字は王の誕生、鳥の絵文字はその人物が王位についた日を意味しているという仮説を立てました。一人の王の誕生から次の王が即位するまでの期間に60年を超えるものはなく、当時の人間の寿命に相当します。彼女は1本1本の石碑が特定の支配者の一生を描いているのではないかと考えました。プロスクリアコフの優れた洞察力によって彫刻の意味は大きく変わりました。上部のくぼみに王座で描かれた人物は神々や神官ではなく王と王妃。一連の石碑には王家の歴史が刻まれていたのです。最初の王は西暦603年に王座につき5年後には戦いの装束と捕虜の姿が刻まれています。15年後、2人目の王が王座につきます。まだ12歳で隣には母親がいます。26歳で戦いの装束をみにつけ、10年後には戦いの装束がより重々しいものに。この人物は47年間王として君臨しました。プリスクリアコフは7人の王の物語を解き明かしていったのです。

 

1945年5月マヤ文字解読の歴史にもう一つ大きな転機がありました。第二次世界大戦末期、ドイツのベルリンに侵攻したソビエト軍の中にユーリ・クロノゾフという若い将校がいました。彼は廃墟と化した国立図書館で被害を免れた一冊の本を見つけました。それはマヤの絵文書に関する本でした。クロノゾフは解読不可能と言われたマヤ文字に惹きつけられ研究を始めました。研究の第一歩としてマヤ文字がいくつの記号から成り立っているかを数えました。100個以内の記号から成り立っていれば表音文字とみなすことができます。一方、記号が桁違いに多ければ表語文字です。マヤ文字は約800個で、アルファベットのような表音文字にしては多すぎ、漢字のような表語文字にしては少なすぎます。そこで学者たちは数百の単語だけを表す限定的な表語文字だと考えました。しかし、クロノゾフは書き言葉が必ずしも一種類の記号だけで成り立たないことを知っていました。マヤ文字は表音文字と表語文字が混在したものではないかと考えたのです。その仮説に基づいてクロノゾフは絵文書を研究。東西南北を表す4つの文字は既に判明していたので、まず西を表す絵文字を調べていきました。西の文字は2つの記号からできています。下は太陽を表す記号で4枚の花びらのような形をしています。上に乗っているのは手の記号で親指と人差し指がくっついた形をしています。エリック・トンプソンは手の記号は「完了」を表すと考え、この絵文字は「太陽の完了」→「日没」すなわち西を意味すると解釈しました。トンプソンはマヤ文字は概念を表すものであり音を表すものではないと考えていたのです。しかしクノロゾフはマヤの絵文字は話し言葉と密接な関係があると考えました。クノロゾフはマヤ語で西を意味する単語が「chik’in」であり、太陽を意味する単語が「k’in」だと知っていました。そこで手の記号は完了という概念ではなく「chi」という音節を表す記号だと考えました。「chi」と「k’in」で西になります。しかし、クノロゾフの説には不確かな点もあったためトンプソンはクノロゾフの説を真っ向から否定しました。そのためクノロゾフの大発見は欧米では完全に黙殺されてしまったのです。

 

しかし、世界各地で学者たちが独自の研究をバラバラに行う時代は終わりを告げようとしていました。きっかけとなったのはマール・グリーン・ロバートソンが主導したパレンケでの調査でした。ロバートソンは遺跡の発掘や記録に何年間も取り組んでいました。ある日、芸術学の教授リンダ・シーリーがパレンケの遺跡を訪れました。シーリーはロバートソンの作業を手伝い始め遺跡の隅々まで知り尽くすようになりました。1973年、シーリーは研究者の会議でオーストラリア人のピーター・マシューズと知り合います。マシューズはパレンケ遺跡の文字を解読する作業に携わった経験がありました。シーリーとマシューズはマヤ王朝の歴史を解き明かすため協力し合うことに。2人はパレンケの王族の名前に、称号を表す記号「翼を持つ太陽」がつくものがあるのに気づきました。翼を持つ太陽の記号がついた名前を40人以上発見。名前の近くには必ず日付とその日に起きた出来事が記されていました。例えば上を向いたイグアナは誕生を表します。誕生や死などを表す文字を日付順に並べていくとあるパターンが見え始め、やがて一人の王の存在があきらかになりました。2人はシールド王と名づけました。シールド王は西暦603年3月23日生まれ。名前を表す文字には兵士の盾が使われています。それを足がかりに神殿の謎に挑みました。神殿の石版に刻まれた文字は長い間謎でしたが、2人はそれがシールド王の生涯について記しているものだと突き止めたのです。これにより1948年に発見された神殿の地下室が再び注目を集めました。そこには石の棺が置かれています。棺の中には翡翠の仮面をつけた人骨が収められていました。2人はこの遺体こそシールド王に違いないと気づいたのです。この時初めてマヤ文字の記録とマヤの王の遺体が結びついたのです。2人が解読した文字はシールド王を含め6人の王の生涯をつづったものでした。その後、シールド王はマヤ語で盾を意味する「パカル王」と呼ばれるようになりました。

 

長年の研究によりマヤ文字の完全な解読が現実味を帯びてきましたが、最後に大きな壁が立ちはだかっていました。発音です。マヤ文字を当時の発音で読むにはクノロゾフが進めていた研究を完成させなくてはなりません。数十年かかっても明らかになった発音は二十数個にすぎませんでした。マヤ文字の発音を解読する最後の鍵はデヴィッド・スチュアートによって発見されます。デヴィッドは歴史学者の父の研究旅行にしばしば同行したため幼い頃からマヤ文明に親しんでいました。中でもデヴィッドの興味をひいたのはコバ遺跡でした。デヴィッドは自分でも模写しようと思い紙とクレヨンでマヤの絵文字を書きました。父親はデヴィッドをリンダ・リーシーに引き合わせました。そしてデヴィッドはわずか12歳でマヤ文字に関する最初の研究論文を発表しました。高校卒業後デヴィッドはマッカーサー・フェロー賞を18歳で受賞。マヤ文字の解読に専念するため大学進学を延期し、ついに大発見をしました。鍵となったのは既に解読されたと思われていた対になった文字でした。マヤ文字を始めて分類したトンプソンは、このうちの一つは日付を先に進めて数える、もう一つは日付を遡って数えるという意味だと考えました。2つの文字の一部には同じ記号「鮫の頭」が使われています。マヤ語で鮫はショク(xoc)。ショク(xoc)には数えるという意味もあります。しかしデヴィッドは鮫の頭が他の記号で代用される場合があることを発見しました。人間の頭や猿、括弧の記号など。しかし、これらの記号は全て数えるという意味を持っていたのでしょうか。括弧の形の記号は「ウ」という音節を表す表音文字です。デヴィッドはこれらの記号は全て「ウ」という音節を表すことに気づきました。数えることとは無関係な文脈でこれらが括弧の記号の代わりに何度も使われていたからです。デヴィッドが注目した2つの文字は「i u ti」と「u ti ya」という表音文字の組み合わせでした。マヤ語で「iut」とは「そしてその後それが起こった」、「utiy」は「すでに起こった」という意味です。「u」という音を表す記号は一つではなく複数あったのです。この発見から他の音節を表す記号も複数あることが分かってきました。マヤ文字は一つの音節を表すのに十数通りの書き方が存在し、それがマヤ文字を複雑にしているのです。マヤの人々は同じ文字の繰り返しを嫌い、別の文字に置き換えることを好みました。マヤ文字では単に言葉を記録するだけでなく芸術性と遊び心が重視されていました。だから見た目は複雑です。しかし、それぞれの文字を構成している記号の段階まで分解して調べると意味が分かってくるのです。




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