大谷光瑞 大冒険を成功させるには?|知恵泉

NHK・Eテレの「先人たちの底力 知恵泉」で大冒険を成功させるには?明治の探検家 大谷光瑞が放送されました。

 

大谷探検隊 シルクロードへの道

1876年12月27日、大谷光瑞(おおたにこうずい)は西本願寺の第21代門主の長男として生まれました。後継者として幼少の頃から仏教の教育を受けましたが、彼がもっぱら興味を持っていたのは地理でした。世界にはどんな国があるのか空想をめぐらし夢を膨らませていました。大谷光瑞が生まれ育った明治初期、寺は大きな転換期にありました。明治新政府発足に伴い、神仏分離令が発令され、それまでハッキリした区別のなかった神社と寺院が分けられ始めました。仏教寺院は前時代の古い遺物と見なされ各地で取り壊しに。廃仏毀釈の流れに加え、キリスト教も解禁されて信者を増やしており仏教界は存亡の危機に立たされていたのです。そんな中、西本願寺では積極的に僧侶を海外に派遣。他国の状況を探り仏教改革をはかろうとしました。1900年、大谷光瑞もイギリスに留学。パリ、ベルリンなどヨーロッパ各地の宗教施設を見学。宗教学者とも積極的に交流をはかり、仏教復興の糸口を探りました。そんな時、大谷光瑞の目に入ってきたのがヨーロッパで起こっていた探検ブーム。この時代、植民地化を進めていた列強国は離党の地だった中央アジアに注目。その調査を目的に国をあげて探検隊を次々に派遣していたのです。1900年にスウェーデンのスヴェン・ヘディンが文献だけでしか知られていなかった幻の都市・楼蘭の遺跡を発掘。イギリスのオーレル・スタインは莫高窟を大調査。貴重な宝物を持ち帰り、大英博物館で公開して大反響を呼びました。

大谷光瑞は西本願寺に調査団の派遣を進言し許可を得ました。メンバーは留学中の僧侶たちから探検にふさわしい人材を抜擢しました。大谷光瑞をリーダーとして5人の探検隊が誕生。こうして明治の三蔵法師たちの旅が始まったのです。

 

知恵①日記を書いて冷静さを保て!

探検隊の準備を始めた大谷光瑞に役立ったのは、幼い頃から大好きだった地理の知識でした。大谷光瑞は留学してすぐイギリスの王立地理学会に所属していました。大谷光瑞は専門家の助言や膨大な資料をもとに探索ルートを作成。ロンドンからカシュガルに入り、インドへと抜けるルート。オアシス都市をたどり補給しながら古代遺跡を探っていくものでした。装備も最新のものをそろえました。中でも探検隊が最も重視した装備は日記でした。報告用の日記を書くのは当然のことですが、この探検では報告用とは別に自分自身のための日記も携えていたことが分かっています。後に大谷光瑞は「日記は旅行者の至宝」と書いています。そこにはどんな力があったのでしょうか?

1902年8月16日、大谷光瑞らはロンドンを出発。列車、船、馬車を乗り継ぎオシュに到着。ここで馬30頭、ガイド5人を調達しキャラバンを結成しました。ベテランガイドをそろえましたが、探検の過酷さは予想をはるかにこえるものでした。中央アジアに入るにあたり越えなければならないのが標高5000mを超える地帯。空気が薄く気温の低いエリアをテントで寝泊まりしながら進みます。そこで起こったのが温度計が動かない、衣服が板のように堅くなる、羊の肉にナイフが入らず食べられない。想像を超える寒さにパニックになる隊員たち。ここで力を発揮したのが日記でした。隊員たちは自分たちが陥った状況をひたすら文章化。すると気づいたことがありました。

「頭からかぶった毛外套の襟に呼吸気で生じた氷が凍りついていたのであった」(隊員 堀賢雄の記録より)

テント内で全てのものが凍りつく原因は自分の吐き出す呼吸の水蒸気ではないか、そう考え始めたのです。隊員たちは対策をねり試行錯誤を重ねました。

「食器に火を入れて睡眠前までテントの中に置いてみた。もとよりテント内を暖かにする力はないが、そうかといってテントの中の夜着は前日来のように氷のごとく冷たくならず」

日記を通して冷静さを取り戻し極寒の高地を突破しました。その後、あらわれたのはタクラマカン砂漠。カラシャール地区は気温40℃にもなる灼熱の世界でした。ここで苦しんだのは蚊の大群。それは馬が全身血だらけになるほど壮絶なものでした。ここでも隊員たちは日記を通して落ち着いて検証し、室内で馬糞を燻らせえるなどを試しています。「カラシャールならる蚊等刺(カラサ)す」とシャレを飛ばす余裕も。

インドに入ると最大の窮地が訪れました。腸炎で下血の止まらない隊員が出て脱落の危機に。ここでも日記が彼を支えました。

「体には良くないので日本に帰ったほうがいいのかもしれない。しかし帰ってしまえば生涯後悔することになるだろう」(藤井宣正の記録より)

日記で自己を奮い立たせ気力を維持した隊員。探検隊は無事ゴールに到着しました。この調査で隊は様々な成果を上げています。その一つがブッタが何度も説法をしたという伝説の仏教聖地「霊鷲山(りょうじゅせん)」の発見です。ジャングルに埋もれたこの場所を世界で初めて特定しました。さらに新疆ウイグル自治区クチャの仏教遺跡では舎利容器やドローナ像壁画を発見。国際的に重要な功績をあげ、日本に帰国を果たしたのです。

 

1904年、大谷光瑞は父親が亡くなったため西本願寺を継ぐことになりました。そこで大谷光瑞は自分の代わりとして新たな隊の結成を考えました。抜擢したのは橘瑞超(たちばなずいちょう)、野村栄三郎(のむらえいざぶろう)、吉川小一郎(よしかわこいちろう)の3名。最年少の橘瑞超は18歳という若い隊員たちでした。大谷光瑞が彼らに与えた行程は日本から中国に入り、一部は中央味のタクラマカン砂漠のど真ん中を進むという世界でもほとんど挑んだ者のいないルートでした。しかも、効率的に調査できるように隊員たちの多くは単独行動でした。

 

知恵②勇気が湧くマニュアルを作れ!

大谷光瑞の命を受け大陸に入った探検隊。問題となったのは飲み水でした。衛生状態の良くない生水を飲むと命取りになることも。そんな時、隊員たちが頼りにしたのが「旅行教範」でした。大谷光瑞が隊員たちに持たせた自作の旅行マニュアルです。50ページ306項目にわたり旅の心得や詳細な指示が書かれています。

「飲料水には十分注意し生水は絶対に飲まないこと。出発前に必ず煮沸した水を全員の水筒に充満させ水筒を空にしたまま絶対に出発しないこと」

徹底した対処法が記されており、飲まざるおえない場合は硝酸銀でチェックするといった手段も書かれています。その後、隊はチベットの高原に突入。直面したのが狼など猛獣の襲来でした。そこでマニュアルを開くと。

「昼間は大声で歌ったり空き缶を打ち鳴らしたりして歩くこと」

さらに隊の行く手には橋のない川も出現。マニュアルには「筏を作って渡るべし」と書かれています。筏の制作法や簡易的な橋のかけ方まで懇切丁寧に記されていました。隊員たちに疲れがたまってきたと思えば、「ココアやコーヒーを飲むように。ただし酒は飲まないように」などまるでおせっかいな母親のよう。やがて隊は最難関の場所タクラマカン砂漠の最深部へ。一度入ると生きて抜けられるか分からない前人未踏のルートでした。ここに挑んだのは橘瑞超でした。日記には彼が直面した砂漠の恐怖が綴られています。

「10日15日となりましても目に映るものは果てしなき砂の波ばかりで、草一本の青いものも見ることができないから、一行のトルコ人たちはつぎつぎに砂の海に酔ってきました。これと同時にあの恐るべき死という不安もつのってきたのです」(橘瑞超の記録より)

道の見えない不安で絶望にみまわれそうになる隊員。しかし、マニュアルにはこんな記述が。

「1日人間が歩けるのは6里18町(およそ26キロ)急行すれば10里(およそ40キロ)は歩ける」

落ち着いて進めば必ず砂漠を出られることが記されていました。常に先んじて対策された記述は隊員たちの拠り所となりました。橘瑞超は22日という日数をかけ、ついにタクラマカン砂漠の縦断に成功。その他の隊員たち全て無事生還を果たしました。この旅では仏教都市として繁栄を極めた遺跡から多くの壁画や仏像、経典などを見つけることに成功しました。

1912年11月、帰国した探検隊がその成果を一般に向けて公開すると大盛況に。一大仏教ブームを巻き起こしました。


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